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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
3章 交錯
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初めての社交と夜会の出口

開始の刻が訪れる。


ヴァロワ子爵が自ら立ち、来賓の前へと俺とリシェリアを導いた。

「本日は特別に、次代の聖女にお越しいただいております」

その声が広間に響いた瞬間、ざわめきは波が引くように収まり、代わりに無数の視線が一点へと収束する。


リシェリアは深く一礼し、顔を覆う薄いヴェールへ静かに手をかけた。

それを持ち上げた刹那、広間に小さく息を呑む音が連なって広がる。

銀糸を束ねたような髪が灯火を受けて淡く輝き、澄んだ青の瞳は冬の湖面のように静かで深い。薔薇を思わせる柔らかな血色が頬に差し、そのすべてが異質な美として際立っていた。


「異国人か……」「神秘的な色だ」

客人たちの囁きが、抑えきれずに漏れる。


リシェリアは怯まず、一歩前へ進んだ。

 

澄んだ声が、迷いなく広間に広がった。

「本日は、このような席にお招きいただき、ありがとうございます。私はまだ学びの途中で、未熟な身ですが……少しでも誰かのお役に立てることを願っております」


その姿勢に偽りはなかった。

飾ることなく、だが揺らぐこともなく、ただ真っ直ぐに立っている。

ここにいるのは、孤児院や施療院に寄進を続ける者、軍務で功を立てた者、子爵に連なる実務の担い手たちだ。彼らにとってその言葉は、余計な装飾のない分だけ、確かに届いたはずだった。


子爵が小さく頷くと、音楽が流れ始めた。


慈善事業の報告が朗読される。孤児院の修繕、戦傷兵の療養施設の改善、支出と不足。そのたびに控えめな拍手が起こり、名を呼ばれた者が軽く礼を返す。華やかさの裏で、数字と現実が淡々と積み上げられていく。


リシェリアはそのすべてを、逃さぬように見ていた。視線が動くたび、理解しようとする意志がはっきりと伝わってくる。


客人の一人が連れてきた傷病兵に、癒しを施す場面もあった。

テオバルトの促しに小さく頷き、彼女はその手を取る。

掌に宿る柔らかな光が、波紋のように広がっていく。

失われた部位は戻らない。だが、深く刻まれていた痛みは確かに和らぎ、男は驚きと安堵の入り混じった顔で深く頭を下げた。


挨拶回りがようやく一段落した頃、舞踏が始まる。

軽やかな音色に誘われ、客人たちが次々とホールへと流れ出ていく。


ようやく一息つける。

息を吐いた俺の隣で、リシェリアがわずかに首を傾げた。

「カイルも踊りにいかれます?」


婦人たちの視線が、ちらりとこちらを掠める。

実際、いくつか誘いは受けていたが、必要以上には応じていない。

「いや……今日は君のそばを離れるのもね。でもリシェリアが練習の成果を披露したいなら、付き合うよ」


俺の役目は聖女の補佐だ。

この場に露骨な危険はないとしても、思惑のない人間ばかりとも限らない。


「いえ……私も。今日は初めてばかりで、少しお休みいただきたいです」

互いに視線を交わし、グラスを軽く掲げる。

ほんのわずかな安堵が、胸の奥に落ち着いた。


だというのに。

「もうへばってるの?人付き合いは体力よ。鍛えが足りないわね、カイルは」

アスティが近づき、面白がるように口を挟む。


そのまま、貴公子のような洗練された所作で、リシェリアへ手を差し出した。

「一曲踊っていただけますか」


リシェリアはその手を取り、短い一曲を踊る。

気安さのある二人の動きは、華やかさよりも素直で、まっすぐで、見ている者を引き込む。

その様子を、教師が生徒の成果を確かめるような気持ちで見守りながら、俺は静かに目に焼きつけた。


……今日のリシェリアは、聖女として充分だ。

 

 さっき答えられなかった答えを思う。

 

彼女の真摯さ、振る舞い、そして奇跡。全て揃った所作が、聖女として人々に崇敬されるために必要な神話性に繋がる。そこにはもちろんわかりやすい美しい装いも必要だ。


 ……俺も、ちゃんとしなければな。


 俺も、嫌厭していた色々なことに向き合わないといけない時が来ている。リシェリアの隣に立つに相応しくなるために。


 ***

 

やがて夜半近く、子爵が再び壇上に立ち、閉会を告げる。

余韻を残したまま、客人たちは名残惜しげに散っていく。

俺たちは特別な来賓として先に退出を許され、静かに城へと戻ることになった。


「まあ、なんとかなって良かった」


帰りの馬車の中で、小さく息をつく。

灯火とざわめきがまだ耳に残り、普段は暗がりに慣れた身には、その明るさが少しばかり刺す。酒も手伝って、疲労がじわりと肩に乗っていた。


それでも、今宵のリシェリアの振る舞いは十分だった。

緊張を抱えながらも、崩れることなく場に立ち、必要な言葉を選び、時に微笑みさえ見せる。

横で見ていて、何度も胸を撫で下ろした。

受け入れられている――その事実を確認できただけでも、大きい。


背に身を預け、緩く視線を横に流す。

そっと、リシェリアを盗み見る。


彼女は窓に指先を置き、遠ざかる子爵邸の灯りを追っていた。

宴の最中には見せなかった、わずかな翳りが横顔に差している。

青い瞳は夜の闇へと溶け込み、口元がかすかに動いた。


――「これが正しいのかな」


声になったのかどうかは分からない。

だが確かに、そう零したように見えた。


胸の奥が、わずかに痛む。


「リシェリア? 疲れてしまった?」

聞こえなかったふりをして、穏やかに声をかける。


彼女は肩を小さくすくめ、すぐに首を横に振った。

なんでもない、と言外に示すように。


その笑みは、柔らかいが、どこかで線を引く。

踏み込ませないための、静かな拒絶。

彼女はそれを迷いなく纏い直し、背筋を正した。


「大丈夫です。それよりもカイル、少し酔いを抜きましょうか?」

やわらかな声音。

それ以上は問うな、と優しく釘を打つように聞こえた。


……まだ遠い。

表でどれほど隣に立っていても、こういう時に心の内を預けられる距離にはいない。


あのセランという男なら――

ためらいもなく距離を詰めるのだろうか。

一瞬よぎったその想像を、無言で押し流す。


何を思っているのかは分からない。

ただ、遠い。


「ああ。頼んでいいかな」

声が揺れぬよう、静かに応じる。


せめて。

癒しを乞うふりをして、誤ったように触れてしまおう。


そう決めて、ゆっくりと手を差し出した。

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