初めての社交と夜会の出口
開始の刻が訪れる。
ヴァロワ子爵が自ら立ち、来賓の前へと俺とリシェリアを導いた。
「本日は特別に、次代の聖女にお越しいただいております」
その声が広間に響いた瞬間、ざわめきは波が引くように収まり、代わりに無数の視線が一点へと収束する。
リシェリアは深く一礼し、顔を覆う薄いヴェールへ静かに手をかけた。
それを持ち上げた刹那、広間に小さく息を呑む音が連なって広がる。
銀糸を束ねたような髪が灯火を受けて淡く輝き、澄んだ青の瞳は冬の湖面のように静かで深い。薔薇を思わせる柔らかな血色が頬に差し、そのすべてが異質な美として際立っていた。
「異国人か……」「神秘的な色だ」
客人たちの囁きが、抑えきれずに漏れる。
リシェリアは怯まず、一歩前へ進んだ。
澄んだ声が、迷いなく広間に広がった。
「本日は、このような席にお招きいただき、ありがとうございます。私はまだ学びの途中で、未熟な身ですが……少しでも誰かのお役に立てることを願っております」
その姿勢に偽りはなかった。
飾ることなく、だが揺らぐこともなく、ただ真っ直ぐに立っている。
ここにいるのは、孤児院や施療院に寄進を続ける者、軍務で功を立てた者、子爵に連なる実務の担い手たちだ。彼らにとってその言葉は、余計な装飾のない分だけ、確かに届いたはずだった。
子爵が小さく頷くと、音楽が流れ始めた。
慈善事業の報告が朗読される。孤児院の修繕、戦傷兵の療養施設の改善、支出と不足。そのたびに控えめな拍手が起こり、名を呼ばれた者が軽く礼を返す。華やかさの裏で、数字と現実が淡々と積み上げられていく。
リシェリアはそのすべてを、逃さぬように見ていた。視線が動くたび、理解しようとする意志がはっきりと伝わってくる。
客人の一人が連れてきた傷病兵に、癒しを施す場面もあった。
テオバルトの促しに小さく頷き、彼女はその手を取る。
掌に宿る柔らかな光が、波紋のように広がっていく。
失われた部位は戻らない。だが、深く刻まれていた痛みは確かに和らぎ、男は驚きと安堵の入り混じった顔で深く頭を下げた。
挨拶回りがようやく一段落した頃、舞踏が始まる。
軽やかな音色に誘われ、客人たちが次々とホールへと流れ出ていく。
ようやく一息つける。
息を吐いた俺の隣で、リシェリアがわずかに首を傾げた。
「カイルも踊りにいかれます?」
婦人たちの視線が、ちらりとこちらを掠める。
実際、いくつか誘いは受けていたが、必要以上には応じていない。
「いや……今日は君のそばを離れるのもね。でもリシェリアが練習の成果を披露したいなら、付き合うよ」
俺の役目は聖女の補佐だ。
この場に露骨な危険はないとしても、思惑のない人間ばかりとも限らない。
「いえ……私も。今日は初めてばかりで、少しお休みいただきたいです」
互いに視線を交わし、グラスを軽く掲げる。
ほんのわずかな安堵が、胸の奥に落ち着いた。
だというのに。
「もうへばってるの?人付き合いは体力よ。鍛えが足りないわね、カイルは」
アスティが近づき、面白がるように口を挟む。
そのまま、貴公子のような洗練された所作で、リシェリアへ手を差し出した。
「一曲踊っていただけますか」
リシェリアはその手を取り、短い一曲を踊る。
気安さのある二人の動きは、華やかさよりも素直で、まっすぐで、見ている者を引き込む。
その様子を、教師が生徒の成果を確かめるような気持ちで見守りながら、俺は静かに目に焼きつけた。
……今日のリシェリアは、聖女として充分だ。
さっき答えられなかった答えを思う。
彼女の真摯さ、振る舞い、そして奇跡。全て揃った所作が、聖女として人々に崇敬されるために必要な神話性に繋がる。そこにはもちろんわかりやすい美しい装いも必要だ。
……俺も、ちゃんとしなければな。
俺も、嫌厭していた色々なことに向き合わないといけない時が来ている。リシェリアの隣に立つに相応しくなるために。
***
やがて夜半近く、子爵が再び壇上に立ち、閉会を告げる。
余韻を残したまま、客人たちは名残惜しげに散っていく。
俺たちは特別な来賓として先に退出を許され、静かに城へと戻ることになった。
「まあ、なんとかなって良かった」
帰りの馬車の中で、小さく息をつく。
灯火とざわめきがまだ耳に残り、普段は暗がりに慣れた身には、その明るさが少しばかり刺す。酒も手伝って、疲労がじわりと肩に乗っていた。
それでも、今宵のリシェリアの振る舞いは十分だった。
緊張を抱えながらも、崩れることなく場に立ち、必要な言葉を選び、時に微笑みさえ見せる。
横で見ていて、何度も胸を撫で下ろした。
受け入れられている――その事実を確認できただけでも、大きい。
背に身を預け、緩く視線を横に流す。
そっと、リシェリアを盗み見る。
彼女は窓に指先を置き、遠ざかる子爵邸の灯りを追っていた。
宴の最中には見せなかった、わずかな翳りが横顔に差している。
青い瞳は夜の闇へと溶け込み、口元がかすかに動いた。
――「これが正しいのかな」
声になったのかどうかは分からない。
だが確かに、そう零したように見えた。
胸の奥が、わずかに痛む。
「リシェリア? 疲れてしまった?」
聞こえなかったふりをして、穏やかに声をかける。
彼女は肩を小さくすくめ、すぐに首を横に振った。
なんでもない、と言外に示すように。
その笑みは、柔らかいが、どこかで線を引く。
踏み込ませないための、静かな拒絶。
彼女はそれを迷いなく纏い直し、背筋を正した。
「大丈夫です。それよりもカイル、少し酔いを抜きましょうか?」
やわらかな声音。
それ以上は問うな、と優しく釘を打つように聞こえた。
……まだ遠い。
表でどれほど隣に立っていても、こういう時に心の内を預けられる距離にはいない。
あのセランという男なら――
ためらいもなく距離を詰めるのだろうか。
一瞬よぎったその想像を、無言で押し流す。
何を思っているのかは分からない。
ただ、遠い。
「ああ。頼んでいいかな」
声が揺れぬよう、静かに応じる。
せめて。
癒しを乞うふりをして、誤ったように触れてしまおう。
そう決めて、ゆっくりと手を差し出した。




