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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
3章 交錯
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初めての夜の外出

聖女見習いの日々が再開します。

「本日は宜しくお願い致します」


陽が落ち切る寸前の薄暗い玄関で、リシェリアが完璧なカーテシーで挨拶を披露する。


「あ……。そ、それでは、行こう」


目の前の存在の眩さに一瞬だけ視界が揺らぎ、俺は慌てて手を差し伸べ、そのまま彼女とともに馬車へ乗り込んだ。


――今夜は、そのための場だ。


王族の列席する正式な晩餐会に、いきなり臨ませるわけにはいかない。その前段として、空気に慣れさせる必要がある。だからこそ、アスティに頼み込み、彼女の知己が主催するこの夜会に席を用意してもらった。


社交教育の基礎は一通り済ませた。立ち振る舞いも問題なく、食事の作法も身についている。舞踏の練習にも付き合った。


だが、それと実地は別だ。


一貴族としての嗜みとして、全く経験がないわけではない。だが俺自身、そうした場を意図的に避けてきた。とくに祭祀庁に入ってからは、関わるのは運営側としての式典や集会ばかりで、客として歓談に興じる機会はほとんどなかった。まして、ご婦人方の茶会に顔を出すような伝手など、最初から持ち合わせていない。


それに、平民上がりの聖女見習いを、王侯貴族たちがどう受け止めるか。出入りそのものを快く思わぬ者もいるだろう。彼女の異能はいまだ叙任前で、広く知られているわけでもない。


だから選んだのが、この夜会だった。


慈善事業に熱心で、孤児院や傷病兵への援助を惜しまぬことで知られるヴァロワ子爵。その主催する後援者向けの場であれば、空気は穏やかで、かつ顔を繋ぐ価値もある。


互いに用意を整え、リシェリアの住まう塔の階下で彼女を迎えたときは、人目が多く言葉を交わせなかった。


馬車が動き出す。揺れに合わせてわずかに沈む座席の上で、ようやく口を開く。


「後でアスティと合流するから。緊張はしなくていい。いつも通りで」


努めて平静を装った声を出す。だが胸の奥では、普段とは違う装いのリシェリアに意識を引き寄せられ続けていた。


今夜の彼女は、明らかに違う。


淡い青の薄布を幾重にも重ねた夜会の装い。それでいて過剰な華やかさはなく、清廉さと気品だけが静かに際立っている。施された化粧も控えめで、素材そのものの均整がむしろ強調されている。


有り体に言えば、美しかった。


「はい」


当の本人は、こちらよりもよほど落ち着いて見えた。青い瞳をやわらかに細め、穏やかに微笑む。その表情に、安堵と同時に説明しがたい焦燥が胸の奥でせり上がる。


珍しく俺も夜会服を着ていた。長く袖を通していなかったせいか、仕立てのよい布の重みと締め付けが妙に馴染まず、呼吸の浅さを意識してしまう。視界の先で静かに佇む彼女の存在が、己の緊張に拍車をかけている気がしている。


そういえば。こういう時、社交辞令としてご婦人の装いを褒めるのが定石だったと思い出す。空気を繋ぐ会話として、言っておかなければならない。


「その、いつものお仕着せと違って、今日の装い……。」


素敵だね、と一言言えばいいだけのはずだった。

それだけの言葉がわずかに引っかかる。単純な感想なのに、適切な語が出てこない。


その一瞬の間を、問いかけと受け取ったのか、リシェリアが先に口を開いた。


「はい。アスティが用意してくださったのですが……なんかちょっと。間違っている気がして不安で」


リシェリアは胸元を軽く押さえながら、心細げに視線を落とした。


「え」


予想外の返答に思考が止まる。


間違い?


反射的に視線を上から下へと走らせる。素材、仕立て、色調、装飾――いずれも場に対して過不足はない。むしろ慈善の場としては、控えめな範囲に収まっている。


露出も少ない。首元まで整えられ、袖も長く、裾も足首まで落ちている。過剰どころか、やや抑制的ですらある。珍しく髪を結い上げているのが目を引くくらいだ。


……いつも見ることのない首筋が露わで、困るくらいだ。


「確認したけれど、君は完璧に美しく、可憐に仕上がっていて、おかしいところはないように思う。……すまないけど何が問題だと思うのか教えて欲しい。」


論文の最終確認をするように、条件を一つずつ検証して辿り着いた結果をそのまま言葉にする。彼女の指導係として、生徒が求める答えを出せないのが悔しい。苦渋の思いで絞り出す。


「あ、いえ。その。そ、そうですか、それなら良かったです」


リシェリアは一度瞬きをし、わずかに視線を揺らした。


「過分なご評価だとは思いますが……ありがとうございます。」


あ。


褒めるつもりで詰まらせていた言葉が、流れで別の形で出てしまった。よりにもよって、辛そうに。


「違うから!答えが解らないのが悔しかっただけで、今夜の君が綺麗で、似合ってると思ったのは最初に見た時から思っている!本当だ!」

また、無礼の記憶を彼女に残したまま進むわけにはいかない。行き違いや誤解はその場で正すべきだ。


「本当に、そうなんだ。……わかってくれ」


言い終えてから、顔に熱が集まっているのを自覚する。弁明によるものか、それとも単純に言い慣れない言葉を使ったせいか、自分でも判別がつかない。


「ふふふ。わかりました。でも私なんかより、カイルの方が素敵で、絵画で見る貴公子様みたいですよ」


緊張が解けたように、リシェリアが小さく笑う。


ようやくお互い社交辞令を済ませられたな。


俺も気負ったものがようやく晴れた。姿勢をわずかに緩めてリシェリアに問い返す。


「……話を戻そう。間違いって?」


「あ、……ええ。そんな深刻な事ではないんです。ただ……聖女っていうお役目は、こんな風に宝石や絹なんて纏うものなのかって、」

リシェリアは耳に留められた大粒の透明な貴石に手を添えてわずかに首を傾げた。

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