登城直前の不安
序章 登城の前日譚 リシェリア視点です
「カイル・ラス・アーレンス。うちの隣領の領主の子でね。私と兄の、小さいころからの顔見知り」
私の、お城での教育係になる人のことを、アスティはそう言って教えてくれた。
「まあ。アスティにとっての、幼馴染みたいな?」
口にしながら、私は自然と、セランの顔を思い浮かべていた。
幼いころから隣にいて、当たり前のように一緒に生きてきた存在。
――そんな人なのかな。
それなら、私も仲良くなれたらいいんだけど。
その時の私は、城に上がるための荷造りの真っ最中だった。
私はもう、基本的にはこのアスティの家には戻ってこない。
だからこそ、残すものと持っていくものを分けなければならない。
荷物は多くない。
それでも、一つひとつ手に取って眺めるたびに、思い出が立ち上がってきて、作業はまったく進まなかった。
二年近く過ごした家。
私とセランの生活を、確かに変えてくれた場所。
思い出は多い。
……でも、もうしばらく前からセランはいなくて。
この家は、私の居場所という感じはしなくなっていた。
名残惜しさはあるけれど、胸が引き裂かれるほどではない。
いつだって、どこだって。
私たちの暮らしは通過点だった。
終着点じゃない。
「そうかな?どうかな。あんたたち村の子みたいに、密に付き合うわけじゃないからね」
アスティは、なぜか少し気まずそうに視線を逸らして、
私が“不要”に分けたほうのお洋服を広げ、首をかしげた。
「彼も色々あって、はやくに領主を継いで忙しくてね。最近はあまり交流もなかったの。……これは持っていかないの? 似合ってるのに」
今の私が持っているお洋服は、ほとんどすべてアスティがくれたものだった。
彼女はメイスン領の領主の娘で、そういったものを余るほど持っている。
特に、今アスティが広げているその一着は――
とても愛らしくて、綺麗で。
彼女の古着ですらなくて、私のために仕立てを頼んでくれたもの。
装飾が多くて、裾が長くて、
ふわふわで、フリルがたくさんついている。
アスティ自身は、こんなに装飾の多い服をほとんど着ないのに、不思議だった。
以前それを尋ねた時、
「似合う人が着てるのがいいの」
と、笑っていた。
……私も。
こういうの、あまり得意じゃないんだけどな。
「すごく、綺麗なんだけど……ほら、聖女はお仕着せのお洋服があって、ずっとそれを着るんでしょ?」
言葉を選びながら、私は続ける。
「私には体は一つしかないし、多分これからは着替える機会も、あんまりないと思う。……出番がないのも勿体ないから。
せっかくだから、誰かの古着にしてもらったほうがいいと思うな」
上等な絹。
町の古着屋に卸せば、高値がつくはずだし、
アスティの懇意のお友達に譲っても、きっと喜ばれる。
私たち平民は、服を丈夫さや動きやすさで選ぶ。
日々の着替えが数点あれば十分。
放浪の生活では、生きるために必要な最低限しか持てないのだから。
「……」
アスティが、きょとんと目を丸くして黙り込む。
――言ってしまってから、気づく。
せっかく仕立ててくれたものに、失礼だったかもしれない。
それに、この調子だと、城ではきっと箪笥も借りられる。
……もう少し余裕をもって持っていったほうがいいのかもしれない。
「ごめんなさい……せっかくくれたのに、失礼だったね。
うん、汚しちゃった時用に、もう数枚くらいは着替えとして持っていこうかな」
「ああ……うーん。そうね。そうか。平時はお仕着せか……」
アスティは顎をさすりながら、苦笑する。
「そうね、こんな粗末なドレスじゃ夜会に出せるわけじゃないし。
たしかに、せいぜい部屋着くらいにしかならないわね」
……これが、粗末?
返事に困っていると、アスティは構わず続ける。
「夜会服はどうせ、あと十数着は必要だし、新しく手配しないとね。
城に行ってから全部買えばいいわ。
降誕節の晩餐会に使う最高級のも、今から構想に入れてもらわないと」
ちょっと、待って。
「え……? 夜会って、何?」
夜会。
それは、アスティがお姫様みたいな格好で、たまに夜に出かけていく、あの社交の場。
綺麗な広間で、着飾った大人たちが踊って、お酒を飲む。
物語の中の出来事。
私には、何の関係もない世界。
私の焦りをよそに、アスティは軽やかに話を進めていく。
「大丈夫、大丈夫。
ああ、そうと決まれば、下着以外は本当に最低限だけでいいわね。
中途半端なものを持ち込んで、城の侍女に舐められても困るし」
待って。
そんな話、聞いてない。
夜会なんて、
セランの隣にいればよかった場所とは、明らかに違う。
怖い。
「聖女様って、異能で霊質を大樹に捧げるお仕事でしょう? ねえ、アスティ?」
思わず、アスティにしがみつく。
彼女は鍛えているからか、私が揺さぶってもびくともしない。
逆に、私の頭をよしよしと撫でてくる。
「大丈夫。そのカイルって人が、舞踏会の作法も踊りもちゃんと教えるし、当日も基本的には横にいるから。任せちゃっていいのよ」
……そういうことじゃない。
人の多い場所も、
高貴なお嬢様みたいな振る舞いも、
高いお洋服も、華奢で、きらきらした宝石も。
全部全部――まだ、怖いのに。
どうしよう。
そのカイルって先生も、怖い人だったら。
聖女の役を安請け合いしたことを、
私はその時になって、急に不安に思い始めていた。




