狼の尻尾と悪だくみ
ヒヤリとさせられる場面はあったものの、その後は過去の知り合いに出くわすこともなく、俺たちは市内をゆっくり歩いた。
昼は、俺が以前から通っている食堂へ入った。貴族や聖女が足を運ぶような店ではないが、値段の割に量が多く、肉の焼き加減も悪くない。湯気の立つ皿を二人の間へ並べ、庶民の飯を少しずつ分け合う。
「はい、食べて」
「いらねえって」
向かいに座ったリシェは、相変わらず俺の皿へ野菜を寄越そうとした。差し出された匙の上には、柔らかく煮込まれた根菜が載っている。
「葱じゃないから。一口だけ、ほら。あーん」
「……」
俺は野菜は嫌いだが――リシェから差し出される匙だけは結局、必ず口に含む。
リシェが聖女になる前なら、珍しくもなかった光景だ。二人で一つの皿を囲み、リシェは俺に少しでも多く野菜を食べさせようとする。食べ物が少ない時には、互いに相手の皿へ多く寄せようとする。そんなことは、考えるまでもない生活の一部だった。
今では、聖女と兵士という身分が間へ挟まり、常に許されるわけではない。人目を避け、装いを変え、ようやく取り戻せる程度の普通だ。
たったそれだけのことが、嬉しくて沁み渡る。
食事を終えて通りへ戻ると、リシェは今度は俺の髪結紐を買うと言い出した。革細工を扱う店先で、上等な飾り紐と、馬毛を揃えた小ぶりなブラシを真剣に見比べている。
「黒と、茶色。うーん。セランは……どっちが良い?」
「そんなのいらねえよ。買うなら自分のものを買え」
「ええ? これは私の買い物なんだから、そういうことは黙ってて。セランの尻尾は、私が好きで手入れしてほしいだけ」
言いながら、リシェは俺の後ろ髪を軽く引いた。
長く残している髪を、昔から尻尾と呼んでいる。あまりに自然な手つきで触られるものだから、否定する気も削がれた。
「……じゃ、黒。前にもらった襟巻きも黒だから」
「ん。じゃあそうするね」
結局、リシェは自分の財布から金を出し、かなり上等な紐とブラシを買ってしまった。
「何、お前。こんなの好きなの? 結構伸びてたから、適当に刈ろうかと思ってたけど」
長い髪は洗うのも乾かすのも面倒だ。放浪していた頃なら、邪魔になれば迷わず切った。今も、短くすれば暮らしが楽になると思っていた。
「え、だめ。勿体ないよ」
リシェが心外そうに声を上げる。
その「勿体ない」という響きに、くすぐられた。
「……切ったらお前にやろうか。つけ毛にすれば?」
今つけている赤茶色の鬘を、俺の髪で作ればいい。リシェが俺の色を纏う。そんな馬鹿げた想像が、何の抵抗もなく頭へ浮かんだ。
「あ、ちょっといいかもね。……なんて、嘘。だめ」
一瞬だけ目を輝かせてから、すぐに首を振る。
「それに、そんな傷んだ髪はいらない。だからきちんと手入れしてよ。その色は、セランについてるからいいの」
何気なく告げられた言葉が、妙に真っ直ぐ胸へ入った。
「ふーん。……やる気が出るように、もっと褒めてくれたら考える」
気恥ずかしさを誤魔化すように煽る。もっと聞きたくなった。リシェの中に、好きだと思う俺の一部がある。それだけで、どうしようもなく嬉しい。
「んもう。……ほら、広場に行こ。長椅子のところで梳いて、結んであげるから」
広場の木陰にある長椅子へ座らされ、俺はリシェへ背中を向けた。
髪を結んでいた古い紐が解かれ、指先が絡みを探すように、根元からゆっくり髪をほぐしていく。次いで、買ったばかりのブラシが通された。
しゃり、しゃり、と馬毛が髪を撫でる規則正しい音がする。
手櫛とブラシが交互に頭皮を掠めるたび、肩から余計な力が抜けていった。背後にいるリシェの気配は温かく、目を閉じて全部預けたくなる。
「セランの髪は、綺麗な真っ赤な楓色で、とってもよく似合ってる。トルニカの秋の森の色。ねえ、ちゃんと大切にしてほしいな。……好きなの」
こういう時のリシェは、言葉の締まりが甘い。無邪気で、正直で、自分が何を口にしたのか深く考えていない。
反則だ。
好き、という一言だけで、胸が跳ねた。その気持ちが本当なら、もう切らなくてもいいかもしれない。
「ようやく俺の良さが分かったか」
後頭部を押さえられているせいで振り返れず、目だけを横へ向けて笑う。
「髪のね。馬鹿」
にべもない。
「チッ」
早く俺自身にも惚れろ。
舌打ちを無視して、リシェは勝手に編み込みを作り、買った紐を結びつけていく。
「セランの尻尾は、ずっと前から大好きだよ。ちゃんと惚れ込んでる」
真正面から言われると、やはり困る。本物の尻尾でなくてよかった。もしあったなら、振り回して喜んでいるのが一目で知られていた。
「……気が向いたら、手入れしてやる」
声が少し低くなった。どうしても、照れを隠しきれない。
「お願いね」
リシェは俺を上手く転がしながら、楽しそうに笑った。
午後の木陰には、夏の熱がまだ残っていた。それでも風が抜けるたび、どこかに秋の気配が混じる。
長椅子へ深く腰掛け、リシェに髪を梳かれた姿勢のまま、木漏れ日を浴びていた。枝葉の隙間から落ちる光が揺れ、風に髪の先が動く。
編み残した一房へ触れていた指の感覚が、まだ後頭部に残っていた。その温もりに引かれるように、先日の会話が蘇る。保養邸で過ごした最後の夕暮れ。皆で騒いでいた時のことだ。
「そういえば、リシェの生誕祭をしてくれるんだったよな。よかったな」
「私とセラン、二人のでしょ? 嬉しいね。楽しみ。でも、来年は憂鬱だな……」
リシェが決めた、俺たち二人の生誕日。春の半ば、新緑がいちばん青い日だ。
「グラント様が盛大にやるとか言ってたもんな」
「ううん……気が重いな」
二人で苦笑した。リシェは派手な式典を好まない。目立つ容姿のせいで、無遠慮な視線を浴び続けてきた。その息苦しさは、俺が誰より知っている。
「頑張って、それまでにアスティと結婚してもらわなきゃ」
リシェが急に妙な意気込みを見せた。
アスティとグラント様が結婚すれば、義理の婚約は終わる。そうすればグラント様が、元婚約者の生誕祭を盛大に開く理由もなくなる。
「どうかな。目的は寄付金なんだろ。グラント様なら、主催を祭祀長に変えただけで、そのままやりそうだぞ」
婚約が終わったところで、あの人は痛くも痒くもない。外聞にも大して頓着しないだろう。今度は祭祀庁の長として、堂々と企画するに違いない。
「そうかも……困っちゃうな」
リシェがころころ笑う。その声を聞いていると、厄介な話まで少し軽くなる。
「……王都では、大人になっても生誕祭みたいなものをするんだね。うふふ、久しぶりにお姫様姿のアスティは見たいかも」
「俺は見たくないな」
姫という言葉で、あの日のアスティが脳裏に蘇る。冠を載せ、王族として俺を裁いた姿。
処刑人みたいだった。
アスティが悪いわけではない。それでも、植え付けられた恐怖が、二度と見たくないと叫んでいる。
「ひどいんだから」
リシェは冗談だと思って笑っている。
知らないからだ。あの姫の恐ろしさを。お前が正面から見たら、たぶん腰を抜かすぞ。
「……もう王都に来てから、一年経ってたんだね。去年は慌ただしくて、忙しくて。見回る暇もなかったし、一年祝いもしなかったね」
一年祝い。
村で行われていた、合同の生誕祭みたいなものだ。村を離れてからは、俺たち二人だけで祝ってきた。特別なことはしない。ただ、今年も冬を越せたと互いを讃える。それだけだった。
けれど、俺たちにはそれで十分だった。
「仕方ないさ。もう祝おうって年でもない」
村では成人すれば、春の祭りは別の意味を持つ。
子供は生まれたことを祝われ、未婚の若者は結婚相手を探し、大人は冬を越した健闘を称え合って酒を呑む。
俺もリシェも、本来なら誕生を祝われる側ではなく、伴侶を探す側として参加していたはずだ。
そして俺は、間違いなくリシェへ申し込んでいた。村の男どもと殴り合うことになっても、負ける気はしない。きっと、とっくに夫婦になっていた。
番いになっていたはずだった。
……いや。リシェは十歳で人買いに売られ、村にはいなかった。
胸の奥が、急に傾いた。
くそが。
あの村を思い出しても、碌なことがない。顔が強張ったのを誤解したのか、リシェが結び終えた髪へ手を置き、宥めるように撫でた。
「今年まとめてやればいいよ。せっかくだし、何か欲しいものとかない? 一年祝いに贈るよ」
手のひらが温かい。昔から変わらない、柔らかな手だ。
「いや。……手巾もくれるつもりだったろ。髪紐も買ってくれた。いらねえよ」
「じゃあ、成人祝いとか。それこそ、もう四年たってるけど」
そんなもん。成人祝いに欲しいものなど、考えるまでもない。
リシェが欲しい。
心も、体も、これから先の時間も、全部。
けれど、それは言わない。口にすれば、リシェはたぶん笑って「いいよ」と答える。
そんな簡単に「くれる」のでは意味がない。俺が欲しいのは、リシェが自分の意志で俺を欲しいと言う、その心だ。それは今、育つのを待っている。リシェと一緒に収穫する、その日まで。
……話を変えよう。
何か課題を残せば、次の約束になる。品を選ぶ間、俺のことを考えるだろう。これも作戦だ。
リシェを仰ぎ見て、目に入ったものでいい発想を見つけた。手を伸ばして、耳元に下がる飾りを指でつまんだ。
「あー。俺も耳飾りが欲しい」
「耳飾り? 穴を開ける方?」
この国では、耳へ穴を開けて飾りを吊るすのは珍しくない。アスティも、ジェスも、カイルもしている。村でも獣の牙や骨を刺す者がいた。
「ああ。見た目はどうでもいいけど、穴を開けるのをお前にやってもらおうかなって」
「ええ……」
あからさまに嫌そうな顔をされた。
針で身体を傷つける行為を、ほんのわずかとはいえ俺にすることをリシェが嫌がりそうなのは、想像できたことだ。それでも、俺にはリシェしか考えられなかった。
「冷やして針を刺して、耳飾りを通すだけだろ。その後、穴の周りだけ癒してくれ。それはリシェにしか頼めないからさ」
傷がすぐに塞がれば、痛む期間もなく、その日から飾りをつけられる。リシェの能力を使うには最適だと思う。
「あ、そうか。……ううん。でも、私が針を刺すのは嫌だな。そっちは自分でやってくれない?」
「やだ。それを成人祝いにする。開ける時、一緒に手伝ってやるから」
「……私がやらなきゃダメ?」
目を逸らして逃げようとする。
逃がすか。
「大した傷じゃねえし、すぐ治せるだろ。爪や髪を切るのとそんな変わらない。結婚したら墨を入れる村だってあったし、悪い事ばかりじゃないんだ」
「そうだけど……」
「それに、傷をよく理解していることが一番綺麗に治すコツだって、爺さんが言ってたろ。俺じゃ自分の耳は見えないんだから、リシェにちゃんと見て、綺麗に開けてほしいんだよ」
身体の構造を知れば知るほど、傷は綺麗に繋げられる。目を閉じて無我夢中で癒すより、何をどう治しているのか理解していた方が、力を細かく扱える。
治癒の異能を持つ者も医術を学ぶのはそのためだと、トルニカの医者の爺さんが言っていた。リシェを弟子に取る約束をした日に、教えてくれたことだ。
まあ、リシェを守った傷だけではなく、リシェの手で俺の身体に残されたものも、ずっと身につけていたい。そういう俺の嗜好も多分にあるのは否定しない。
「え、えっと……耳飾りは何か探しておくね」
土壇場で別の逃げ道を探している顔だ。肩まで赤くなっている。
「とにかく、今年も一年おめでとう。セラン」
遅れていた祝いの言葉が、柔らかく降ってきた。リシェは俺の頭を抱き、花が開くように笑っている。
「二年分な。リシェも。一年おめでとう」
木漏れ日の中で笑う顔が眩しかった。
来年も、その次も。もっと先まで。こんな風に。
ずっと俺が祝って、リシェに祝われたい。それ以外の未来は考えられない。
午後の影が伸び始め、リシェの指が髪の結び目を整えて離れていく。その気配を惜しみながら、俺は次の約束を思い出した。
「俺の方は、その日に間に合うか分からないけど、物は勝手に用意してるから」
リシェが首を傾げる。
オルシナでカイルへ頼んだ、首飾りの仕立て直しだ。壊れてしまった、リシェの首飾り。
カイルが、眠っているリシェの顔を見たことを詫びたいなどと言い出したから、俺が保管していたものを渡し、直させることにした。
あの夜のことは、俺とカイルだけの秘密だ。リシェへ言うつもりはない。
首飾りを連名で渡せば、カイルの顔も立つ。俺にとっても都合がよかった。
「え、いいのに。だって、お互い一年を越えたことを褒め合うだけなんだから」
「リシェがくれるなら、不公平だろ」
村で一年祝いに贈り物をするのは、基本的に家族だけだ。俺だけ一方的にもらったら、親から祝いをもらう子供みたいだろ。
それを言葉にするのは難しかった。
「でも……用意してたって、私があげなくてもくれてたってことでしょ」
図星だった。もしリシェが何もくれなかったとしても、結局俺は渡していた。だったら俺の方が、勝手に世話を焼く親みたいになるのか。
違う。そん時は強請ればいいだけだ。リシェからもらいたいご褒美なんて、いくつでも思いつくんだから。
「たまたま、だ」
適当に誤魔化す。
リシェはしばらく、じっと俺を見ていた。納得したような、していないような顔だ。
どうせ、また「セランが何か企んでるな」とでも思っている。
「むう。……じゃあ、楽しみにしておく」
俺が引かないと分かって、それ以上は言わなかった。
「ん。大したもんじゃないから、気にすんな」
言った直後、風がひゅっと冷たくなった。陽が傾き、石畳へ長い影が伸びている。
「よし、そろそろ戻るか。早めに帰って、庭にも顔を出さないとな」
休みの日でも、庭の管理は俺たちの仕事の一部だ。それに、庭へ戻れば閉門の時間にも追われず、もう少しリシェの隣にいられる。
「うん……いや、待って」
リシェが俺の袖を掴んだ。引き止める仕草は子供みたいなのに、声には小さな期待が弾んでいる。
「焼き菓子を買って、食べながら遠回りしよ。あの外交館の園庭を覗いて帰りたい」
異国の庭を見たいという、ささやかなおねだりだった。新しい季節や、知らないものへ触れようとする時のリシェは、ひどく年相応に見えて、嬉しい。
「仕方ねえなあ」
口ではそう言いながら立ち上がる。
俺に却下する選択肢など、たぶん、生まれた時から存在していない。叶えるか、頑張って叶えるかの違い。
特にこんな、ささやかに過ぎるわがままを、俺が断れるわけがない。




