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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
28章 祝祭
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悪い狼のやり直し

数日後

謹慎の原因になった、あの暴走した休日。

あの日、願ったやり直しの機会を、ようやく迎えることができた。


今日は、王都へ戻ってきてから初めての、リシェとの休みだ。


俺は一度、リシェの隣へ戻った。兄として。護衛として。幼馴染として。

けれど、それだけで終わるつもりはない。

これからは、恋人という立場も手に入れる。


これからは。ここからは。

我を忘れるような無様は晒さない。自分の欲ばかりを押しつけて、リシェを怯えさせるような真似もしない。

リシェが安心して、ゆっくり恋へ落ちていけるような男にならなければならない。


そんな意気込みで、俺は待ち合わせの場所に立っていた。


空気の流れが変わった。

風上から、馴染んだ匂いが届く。足音も聞こえていた。

振り返ろうとした、その寸前。腕へ柔らかな重みが絡みついた。


「セーラン。お待たせ」


背後から、甘く耳を引く声が落ちてくる。

呼吸が止まり、喉の奥がきゅっと熱くなった。跳ね上がった脈が、なかなか元へ戻らない。


「おう」


どうにか、それだけを返す。

口の中が乾いていた。たぶん、緊張のせいだ。


……まただ。


来ることは分かっていた。匂いも、足音も、触れられる寸前まで全部気づいていた。

腕を組むことなど、今まで何度もしてきた。息をするより簡単なはずだ。

それなのに、また初恋みたいに胸が騒いでいる。


今日は街へ出るため、リシェは久しぶりに白銀の髪を赤茶色の鬘で隠していた。

日除けのつば広帽に、仕立ての良い布地のワンピース。少し裕福な商家の娘に見える装いだ。


……今日も可愛い。


もちろん、いつもの白銀の髪の方がリシェらしくて好きだ。

けれど、これはこれで可愛い。

見惚れていると、リシェをここまで送ってきたリカリオのおっさんが、何か言いたげな顔をしていた。


「坊主……」


「二度とあのようなことはございません。刻限前には必ずここへ戻ります」


反射的に、食い気味で宣言してしまった。


「……ならいい。行ってまいれ」


少し呆れたような、それでも薄く笑っている顔で、追い払うように手を振られる。

無様は晒さないと誓ったばかりなのに、もう胸の内は修羅場だった。


深呼吸。


落ち着け。


「どうしたの? 先にお茶でも飲んでから、行くところを決める?」


「いや、何でもない。今日はどうする……服、見たいんだったよな」


前に、俺が跳ね除けてしまったリシェの提案だった。

あの時の分まで詫びるつもりで、今日は何にでも付き合う覚悟を決めている。


「うん。でも、もう夏も終わりだからね。軽くでいいかな。それより、刺繍の糸や手芸のお店を見たいかも。あと、エナたちに何か、歩きながら探そう」


「ん。よし、行こう」


大商店の並ぶ広場の方へ、リシェを促す。

言われる前に手を差し出すと、細い指が俺の手を探り当て、そのまま自然に絡んだ。


……やっぱり、それだけで胸が騒ぐ。


泣きたくなるほど幸せで、どうしようもなく愛おしい。

もう、この感覚に逆らうのはやめよう。封じ込めようとするから苦しくなっていたんだ。それでリシェに心配させた。

だから、ただ。この瞬間の感情を大事に楽しめばいい。


俺たちは並んで街へ歩き出した。

広場を手前から流し、家族へ送る品や、値の落ちた夏物を見て回る。

日用品店へ入り、どう考えても俺たちには使い道のない高級品の店も冷やかした。

陽光はまだ強く、石畳をじりじりと焼いている。影が短くなり、そろそろ昼に近づいていた。

歓楽街の並ぶ東側へは、なるべくリシェの視線が向かないように歩く。


遠征の後はしばらく謹慎していたし、最近は夜遊びをしているわけでもない。

そもそも、夜の街の連中は昼にはほとんど動いていない。

それでも念のためだった。


あの界隈には、俺の顔も素行も知っている奴が多い。

リシェの目へ、余計な影を映したくない。


「次は手芸品か。これを見終えたら飯にしよう」


「うん。少し見て回ってくるね。セランは好きに見てて」


俺が手芸品に興味などないことを、リシェはよく知っている。

店へ入るなり目当ての棚を探し、軽やかに人混みへ紛れていった。

帽子のつばの下から覗く目が、棚から棚へ忙しく動いている。


……木の実を探す栗鼠みたいだな。


店内は見通しもよく、不審な気配もない。

今日はただの平和な休日だ。

リシェを守りながら、好きなものを見せてやれる。それだけで十分だった。


リシェを視界の端へ置いたまま、俺も売り場を軽く回る。

一周して戻ると、リシェは店員と何やら話していた。


「すぐに取ってまいります!」


店員が踵を返し、奥の棚へ消えていく。

その背を見送りながら、リシェへ声をかけた。


「良さそうなものあったか?」


リシェがこちらを見て、目を柔らかく細める。

その仕草が、毎度のことながら胸へ刺さる。


「今、取りに行ってくださってる。これでセランの新しい手巾に刺繍を入れてあげるからね」


この前、リシェに没収された手巾の代わりらしい。

胸の奥が、じわりと熱を持つ。

リシェが俺のために何かしてくれる。そのために糸を選び、時間を使って針を持つ。

それだけで痺れるほど嬉しい。


けれど、俺が欲しいのは、使い古されて、リシェの匂いが染みついたものだ。

真新しく、何の気配もない布ではない。


「新しいのはいらねえって言ったのに」


前にも言ったことだ。

いらない物のために、リシェへ金も手間も使わせたくない。


「それは分かったってば。私のお古に、刺繍をし直すだけ。今のは私の名前とか、お花とかが刺してあるもの。嫌でしょ」


なるほど。

確かに、俺の懐から可愛らしい花とリシェの名前が刺された手巾など出てきたら、色々とまずい。


「ははぁ、ならいい。それならいい」


それは嬉しい。

使い古しで、リシェの匂いが残っていて、そのうえ俺のために刺繍までし直してくれる。


最高だ。


……最高なんだが。


店の奥から戻ってくる女の動きに、一瞬だけ妙な硬さが走った。


何だ。

リシェが聖女だと気づいたのか。


胸の内へ、冷たい線が差し込む。

周囲の気配を吸い上げるように、警戒が一気に立ち上がった。

だが、俺の緊張など知らず、店員は朗らかな笑顔で戻ってきた。


「お待たせいたしました、お嬢様。こちらで全色です。良さそうなものはございますか?」


人当たりのいい笑顔。

声にも、不自然なところはない。


けれど、その目がほんの一瞬だけ鋭くなり、リシェの顔を確かめるように見た。

気づいている。

聖女の顔だと。


どうする。

悪意はあるか。

信者か。


今のところ、敵意は感じない。


そんな俺の緊張にも気づかず、リシェは無邪気に店員へ笑いかけた。


「わあ、素敵ですね。セランは何色がいい?」


顔を明るくして、こちらを振り返る。

その無防備な笑顔だけで、張り詰めていた糸が少し緩んだ。

息を吸った瞬間、鼻へ馴染みのある香りが入り込む。


……ん。この匂い。嗅いだことがある。


あ。


……あ。


やばい。思い出した。


こいつ、酒場で一緒に飲んだことがある。

ウォーレスたちと遊びに連れられていた頃。


娼館じゃない。

女給仕が卓へつき、客の接待をする酌酒場に行った時の。

金を払って、会話して恋人仕草をしてもらうような場所。

そこにいた女だ。


「あ!? ……えっと、そうだな……」


別に、深い関係ではない。

リシェへ知られて問題になるような、無視や不義理をした相手でもない。

ただ、店で金を払い、その分の接客を受けただけだ。

話して、飲んで、騒いだ。


ただ、そういう店だから。

膝へ座られたり、甘えられたり、身体を寄せられたり。その程度のことは、……それなりにあった。

潔癖な人間なら、眉を顰める類の店ではある。


額へ冷たい汗が滲んだ。

こいつは口が軽いだろうか。

頼む。……本当に、何も言うな。


眉を寄せ、目だけで必死に訴える。

女と視線が合った。


一瞬、瞳が丸くなる。


それから、にっこりと笑った。


頼む。変なことは言うな。


俺の焦りをよそに、店員は何事もなかったように接客を続けた。


「その方の色を入れるのもお薦めですよ。お連れ様なら、緋色に鬱金などはいかがでしょう」


「それ、いいですね!」


リシェが提案へぱっと顔を輝かせる。


「男性用でしたら、道具や動物の図案がよろしいですよ。お兄さんなら……狼とか。とっても”悪そうな”、狼の刺繍」


普通の調子だったが、最後の一言だけ、女自身の感情が混じっていた。


「まあ、どうしてですか?」


「蛇や獣、悪魔のような禍々しい意匠には、怪我や死のような不吉を追い払う意味があるといわれています。お連れ様は兵士の方とお見受けしましたので、そういう方には、とても“お似合い”かと」


店員は、意味ありげにこちらを見て笑った。


……思い出した。


名前までは出てこないが、からっとした性格の女だった。

実家へ仕送りするために王都へ来たと言っていた気がする。

だから、昼はこの店で働き、夜は酌酒場へ出ているのか。


あれは、からかう顔ではあるが、黙ってくれそうな空気だ。


「へえ……面白いですね。確かに。怖い顔……。考えてみます」


リシェは新しい話を聞き、楽しそうに図案を思い浮かべ始めていた。

意識もそちらへ逸れている。


よし。


「……ふっ」


安堵とも、溜息ともつかない息が漏れた。この安心は、今だけのものかもしれない。

それでも、恩は返しておきたい。


もう私生活で馬鹿なことはしないつもりだ。

これから過去に出くわすとすれば、今日のような偶然くらいだろう。意図して会うことはないんだから。

なら、義理はここで返す。


「分かった。それでいい。……リシェ、ここは俺が買ってやる。全部でいくらだ?」


「どういう風の吹き回し? ……ふふ、ありがとう。思い切り怖くてかっこいい狼にしてあげるね」


何も知らないリシェが、俺へ身体を寄せ、腕を絡めてくる。

その一瞬で、胸の中に残っていた不安が全部吹き飛んだ。


温かい。幸せだ。


こんな些細なことで、俺はどれほど救われるのだろう。


代金を多めに包み、店員へ差し出す。

これで沈黙の借りを返すつもりで。


「あ、勘定場へ行って、お釣りを用意してまいりますので――」


女が動こうとするのを、手で制した。


「いや、いい。余った分は、親切にしてくれた礼だ。取っておいてくれ」


余計なことは言わない。

ただ、黙ってくれた誠意へ返す。


「え!? そんなつもりじゃ……あ、いえ。では、お言葉に甘えて、ありがたく頂戴いたしますね。またどうぞ」


ようやく、鉄壁だった店員の顔が崩れた。

見知らぬ客へ向けるものではなく、以前の俺を知っている女の顔になる。

糸の包みを渡しながら、俺にだけ聞こえる声で囁いた。


「あんまり変な遊び方しないようにね」


あの辺りで働いているなら、下町の俺の評判も耳へ入っているのかもしれない。

軽い口調だったが、中身はきちんと重かった。


「……気をつけます」


素直に答えた。その言葉を、胸の奥へ落とす。


「親切にありがとう、お姉様」


リシェも、何も知らないまま柔らかく礼を言った。

害はないけれど、聖女だと知られたまま長居するのはよくない。


早く出よう。


リシェの腰へ手を回し、軽く押し出すように出口へ促した。


「ほら。腹減ったし、次行くぞ」


後ろ手に、ひらりと手を振る。

言葉にはせず、感謝だけを残す。


許してくれ。


もうこの町で、ふらふらとしないから。

酌酒場はキャバクラのイメージでお読みください。

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