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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
28章 祝祭
355/394

家と庭の夢

「やだ。寝ちゃってた」


リシェが目をこすりながら、きょろきょろと辺りを見回していた。ぼんやりとした寝起きの表情が、まだ夢の中にいるような無防備さをまとっている。


「ごめん」


上体を起こし、こちらを見上げてくる。

それだけで、胸がいっぱいになった。


ああ、もう、だめだ。


自制心が揺れる。


今ここは密室で、そして城内ではあるが、俺の私室。

扉は閉じているし、窓は開いているが、外は高台の庭に面した向きで、通りすがりの視線など入らない。


たまには……。


ゆっくりと腕を伸ばし、リシェを引き寄せる。


抱きしめた。

少しひんやりした体温。洗いざらしの布越しに伝わる細い肩。胸元から立ちのぼる、髪と肌の香り。


頭に手をやって、撫でながら尋ねる。

声に出せば平静を装える気がして。


「まあいいけど……なにしてたんだよ」


リシェは返事をせず、しばしの間、抱きしめられたまま動かない。

俺が戻ってくる前に出ていくつもりだったんだろう。

でも疲れて眠ってしまった。


そう考えると、切なくなった。


リシェの仕事は多い。

彼女は真面目だし、きっと誰にも弱音を吐かない。

そしてカイル――あいつは、頼れるけど、時々容赦がない。

仕事を詰め込みすぎる癖がある。


ちょっと、嫌な気分になる。


……もうちょっとだけ、寝かせておいてもよかったかもしれない。


寝てる間に、せっかくだから、こっそり触って――

いや、違う。そういうのは駄目だ。


でも。


手巾だけは、なんとか取り返したい。

リシェの後ろからそっと手を伸ばして、死角でそっと引っ張る。


けれど、ピンと布が張った感触。


無理だ。握り締めてる。


案の定、リシェが反応した。


「あ! ちょっと離して。ねえ、これどういうことなの」


ああ、藪蛇。


「これ。エナが作ってくれた、私の手巾。なくしてたと思っていたのに。なんでセラン持ってるの」


言い逃れできない。

けど、正直には言えない。


「アスティん家出た時。荷物の中に紛れてた……」


自分で紛れ込ませた。

喉が渇いて声が出にくくなる。

母の名前を聞いて、さらに後ろめたくなる。


「それなら、気づいたらすぐ教えてよ。手紙だってやりとりしてたのに。……大事にしてたの、知ってるでしょ」


リシェの視線が、何となく、疑っているように見える。

その目が辛い。


言い訳を探す。

なんとか自然に、形だけでも正当化したい。


「リシェは新しいのあるだろうし、言う機会があんまないってか……俺は手巾は持ってないから、使わせてもらってた」


自分でも苦しいと思いながら口に出す。

でも、全くの嘘ではない。


「いやあ、意外と使うんだよな手巾って」


リシェは少し間を置いてから言った。


「……それなら新しいのあげるから。交換して」


リシェは、問い詰めることより、手巾を取り戻すことを最優先にしているようだった。

追求されないのは助かる。


リシェが執着をもつものなんて、ほとんどない。

そんなに求めているものを、これ以上我欲で占有できない。


譲歩するしかない。


「わかった。……でも新しいのより使い古しがいい」


三日三晩リシェが身につけてたらもっと良い、と頭をよぎるが、それは流石に口にできなかった。

続けて、もう少し理屈をつけ加える。


「真新しいのもってると、同僚に揶揄われる」


これで、少しは納得してくれるだろうか。


「変なの。……わかった。なんか探しておく。これは、セランにも家族の思い出だから、もしかして持っていたかったのかもだけど。ごめんね」


リシェがそう言って、俺の背中を優しくさすった。


「これは譲れないの。たまになら貸してあげるから、我慢して」


そのリシェらしい優しさに何も言えなくなった。

俺の気持ちを否定しない。でも自分の望みを諦めずに、口にしてくれるようになった。


俺は黙って頷いた。


「いや大丈夫。俺もごめん。悪かった」


正直、そこまで郷愁とかではない。

親父やお袋とは普通に手紙のやり取りはしてるし、俺にとって思い出は、もっと別の形で残ってる。


手巾は――ただ、リシェの匂いがするというだけで、それが嬉しかったんだ。


それだけのことだった。


その時、不意につん、と後頭部に感触が走った。


「あれ? セラン、今日は髪の毛どうしたの」


あ、と思った。

後ろ髪を流したままだった。

さっき、他人の匂いの髪紐を捨ててしまったから。


「あ、あー。訓練で髪紐切れて。仕方ないからそのまま来た」


リシェは納得したような顔をした。


「そうなんだ……。明日困っちゃうね。じゃあこれとりあえず」


体を離し、服の腰についていた飾り紐の束を取る。


「ちょっと触るよ」


言いながら、手櫛で俺の髪を梳いてくれる。

何度も、優しく。

そのたびに、指先が頭皮を撫でていく。

……気持ちがいい。


「もー、髪の毛傷んでる。せっかく綺麗な色なのに……。これを、こうして。よしできた」


リシェが手元で何かを編み込んでいる気配。

それから、服の飾り紐を髪に結びつけてくれた。


「新しい髪紐も手巾と一緒に探しておいてあげる」


柔らかく、あたたかい声。


その声と一緒に、リシェの匂いが髪に灯った。

馴染んだ、大好きな匂い。


……顔が勝手ににやける。


新しい髪紐なんていらない。いまのこれで、十分すぎる。


手巾は惜しいが、その代わりに新しいものが得られた。

常に嗅げる位置に、リシェの匂いがある。


むしろ、得をした気すらする。


「おう。ありがとな」


素直に礼を言った。

そしてようやく、本題に入れる気がした。


「んで。今日は俺に部屋に勝手に入って、一体何してんの」


それだけが、最後まで意味がわからなかった。

どうして、こんな展開になっていたんだろう。


「あ、えっとグラント様が…」


リシェがぽつりと口を開いた。言い淀みながらも、ここに至るまでの事情を語りはじめる。


内容としては、要するに俺の待遇をちゃんとしてますよ、というのをリシェに見せたかったらしい。

それを通じてアスティにも伝えてもらい、好感度を稼ぎたいのだろう。

つまり、グラント様はリシェを使って間接的にアスティの機嫌を取ろうとしている。


……どこまで奥手なんだ。


あの人は、どういうわけかアスティに関してだけは手も足も出ない。

戦場じゃ冷酷なくらいに判断が早いくせに、恋となると信じられないくらいピュアだ。


いや、他人のことを笑えるか。

俺も似たようなものだ。

相手が惚れた女なら、そりゃまともに頭も回らなくなる。


とにかく、事情はだいたい理解できた。


「事情はわかったけどさ、グラント様も昼寝していけとは言わなかっただろ……」


思わず軽口が出る。


「そ、そうね。ごめん」


リシェはバツが悪そうに目を伏せた。

白銀のまつ毛が頬に影を落とし、ほんのりと赤らんだ顔を隠すように視線を逸らす。

けれど、その視線の先は、俺の寝台だった。


しわの寄った布。枕の沈み具合。寝台の片側に凹んだ俺の形。

今日は直さずに出てきたから、そのままの痕跡が残っていた。


「セランが、そこにいるみたいで、なんか安心しちゃって」


そう続けて、ぽつりと漏らすように言った。


その横には、リシェの体温の残る窪みもある。

並んだ寝皺が、まるでさっきまでふたりで寝てたみたいだ。


つい、色々な絵が脳裏に浮かぶ。


「どうかした?」


リシェが不思議そうに俺を見上げた。

つぶらな瞳が俺の反応を探している。

研究者のようでいて、純粋さも抜けていないその視線が刺さる。


また、物好きにも、俺が恋してる顔ってやつを……観察してるんだろうな。


でも、正直今はいかがわしい表情になっている自覚がある。

……恥ずかしいから、あんまりじろじろ見ないで欲しい。


……リシェって、もうそろそろ流石に、俺のことを男として意識、してるよな?


今どのくらいなんだ。


聞きたい気持ちが喉まで出かけるのを飲み込んだ。


気持ちの純度が。温度が。

良い感じに近づいてきたんじゃないか。


深い口付けだって、謹慎明けの再会でも自分から提案してきたし。拒まれるどころか、前向きだろ。

そのうえ今この部屋は密室。

庭の小屋みたいに隠れてるわけじゃない。イェルス家の屋敷の中、自分の私室だ。

だから、ほんのすこし身体も少し近づいたって罰は当たらないだろ。


ちょっとだけ、だめ押ししてもいいよな。


「なぁ、リシェ。……こないだの。貯めといたお返し、しといてくれよ」


おまじないと称してもらえる頬へのキス。

“充填”じゃなくて全然いいんだ。

お礼のかたちで、何気ないふれあい。


「うん? いいよ。……そしたら今日のもおまじないもして」


リシェが嬉しそうに答えて、俺の胸にしなだれかかってきた。

猫のようにやわらかく。ぴたりと耳を寄せ、心音を感じている。

そのまま目を閉じて、俺の口付けを待っている。


そっと、瞼に唇を寄せて。

ひとつ、ふたつ。


リシェの夢が安らかでありますように。


そんな願いを込めた、いつものやり方。


「ありがと。じゃあセランにもお礼。2回分、ね」


リシェが顔を上げる。

その手が頬に伸びてきた。口もとが近づいてくる。


……あれ?


今まで何度もこうしてきたのに、今日はなんだか違う。

心臓がうるさい。耳の奥で響いて、落ち着かない。直視ができない。

強張りそうな顔を隠すように、思わず目を閉じた。


「セラン? どうかした?」


近くから聞こえる声に、どきりとする。

やばい、顔が近すぎる。


「な、なんだ? 勿体ぶるなよ。さっさとしろ」


そう答えて、なんとか強がる。

それ以上の言葉が出てこない。


リシェは黙ったまま、顔を寄せた。


ちゅっ。


左の頬に、やさしい一つ。


嬉しい。

それだけで十分に満ち足りる。


もう一つも、約束されている。

あと一回。

右か。唇か。……いや、額とか瞼もあり得るか。


餓鬼か、俺は。

そんなことを期待してる自分に気づいて、苦笑しそうになる。

初めて、リシェを好きだと自覚した時と似た気持ち。

それがぶり返してくる。


「……?」


けれど。次のご褒美がくるまでが妙に長かった。


腕の中にいる。顔もすぐそば。

なのに、気配が変わった。


「……リシェ?」


呼吸が深く、遅くなっている。

規則正しい。


「まさか。寝てんじゃねえだろうな」


ぱちりと目を開けた。


「!」


「残念、はずれ」


瞬間、鼻を押された。


「なにすんだよ」


そこにあったのは、間近すぎる距離でのリシェの顔だった。

ふわりと香る息、細い影を落とす睫毛。

心臓が掴まれたみたいに跳ねあがった。


「ふふ、せっかち」


悪戯っぽい笑みが、ほんの指先ひとつぶんの距離で、俺を見ていた。

きっと本人にとっては成功というだけの、軽いやりとりなんだろう。


ただの小さな悪戯。


でも俺にとっては、甘すぎる。


感情がまとまりきらず、怒り声で誤魔化そうとした。


「いい加減に、……ん」


言い切る前に、リシェがふわ、と近づいて。

柔らかな唇が、俺の唇にそっと触れた。


ほんの軽い、ふにっとした当たり。

静かに、逃げ場もなく、押しつけるでもなく。

落ちてきたみたいな接触。


リシェが目を細めて閉じた。


まただ。

また不意打ちだ。


庭の小屋から数えて、これで四度も不意打ちしやがって。

これだけいちゃついて、まだ恋人じゃないなんて嘘だろ。本当に、意味がわからない。


数えてる自分は気持ち悪いかもしれないけど、仕方ない。

どうしようもなく好きなんだから。

一回一回を、大事に刻まずにはいられない。


国境の朝焼け、あの日の深い口付け――あれは愛を交わすみたいで、心も体も全部持っていかれた。

脳まで焼かれるような、今でも忘れられない一瞬。


早く恋人になって、あれをまたしたい。


「……?」


……いつまで、してるんだよ。


何秒か経つのに、リシェの唇はまだ離されていなかった。


ずっと触れたまま、時間が止まったみたいに、リシェの体が動かない。

頭の中が甘さで溶けて、思考がゆっくり崩れていく。


離れなきゃ、まずいのに、腰が抜けて動ける気がしなかった。

もはや、自分を抑えることしかできない。必死で本能に押し流されないように、体を強張らせた。


早く、リシェから離れてくれ。

頼むから、そうしてくれ。


「んむ?」


変な声とともに、ようやくリシェが唇を離した。

ほんの少し、不思議そうにした顔で。


危なかった。理性が死ぬところだった。


「……なんだよ。長えよ。やっぱ寝てるのかと思った」


苦情を口に出した。これでも精一杯だった。


「あ、ううん。……えっと。“充填”してあげようかなって思ったけど。どうしたらいいか、わからなかった」


リシェが頬を染め、目を丸くして、視線をそらした。

俺から少しだけ体を離す。


心臓が裏返るような衝撃が走った。


「……!?」


声にならない声が頭の中を埋め尽くした。


「難しいね」


あの誘惑に落ちるまいと、俺は必死で唇を引き結んでいたってのに。それがリシェのことまで閉め出して、進めなかった。


そんな馬鹿な。


「……教える、練習しよう。もう一回、こっちこい」


「え? でも……」


「する。するったらする」


俺は我慢したんだ。

だけど、リシェからしてくれようと行動したんなら話は別なんだよ。その意味が恋か親愛かどうか、今はどっちでもいい。


もらえるものはなんだってもらう。


いや、もう押し倒してしまおう。

ここ、俺の部屋だし。寝台の上だし。

シーツの二人分の皺を一つにして、めちゃくちゃに可愛がって、溶け合って――


聖女の任期が終わるまで一線は守ると誓ったけど。

今日は仕事終わりで、心も体も限界で、理性が緩んでる。

一線こえなけりゃ、つまみ食いくらいなら、いいよな。


いいだろ。


熱に浮かされて、俺の中の野獣が目を覚ます。

今日のは、黒くて醜いあの破滅的な獣じゃなくて。

愛嬌はあるけど、聞かん坊で頭が悪い。毛並みは、たぶん白い。


なんとなく、ウルの顔が浮かんだ。


ゆっくり手を伸ばす。

この後は、腰を抱いて支えて、肩を柔らかく押す。

そうすれば、次の瞬間には無理なく相手は押し倒されている。


その直前――


こんこんこん。ノックが響く。

どうやら俺までもが戻ってこないのを心配した侍従が来たらしい。


「あ。ほら、セラン」


無視だ無視。

ひと舐めだけでもしなきゃ気がおさまらねえ。


こんこんこん。


間髪いれず、二度、三度。


「はあい」


俺の伸ばした手は空を切った。

リシェが俺が答えないからか、答えて立ち上がってしまった。


はあ、と大きく息を吐く。


溢れかけた衝動を仕方なく噛みつぶす。


……でも。


リシェが、俺の部屋に来る。

そんなことが、現実に起きた。

城に来て離れていた時間を、少しだけ取り戻した気がした。


滅多にないだろう。

けれど、これから先も、こんな日があるかもしれない。

そう思った瞬間、胸の奥に確かな火が灯った。


自分の家を持ちたい。

それは、リシェが”帰って”来る場所だ。


いつか、リシェとの家と庭を持つ。


そんな未来を、はじめて現実的な夢として思った。

セランが数えているのは、リシェリアからしてくれた回数だけです。

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