扉の向こうの眠り姫
今日の当番任務を終え、装備を納めながら大きく息を吐いた。
昼の熱はまだ石壁の内側にまで残っている。鎧を外しても、首筋を伝った汗が肌着へ吸い込まれ、背中にはじっとりとした不快さが張りついたままだった。剣帯を所定の場所へ掛け、籠手を外すと、ようやく肩の重みが少し抜ける。
このあとは自由時間だ。
街へ出てもいいし、リシェの庭へ行ってもいい。
もちろん、会えるなら庭一択だった。
ただ、今日はリシェの予定を今朝のうちに確認できていない。祭祀か、公務か、誰かとの面談か。今頃まだ塔にいるのか、それとももう庭へ下りているのかも分からなかった。
……まあ、先に汗を拭くか。
このまま会いに行って、汗臭いと顔を顰められるのは嫌だ。リシェは気にしないかもしれないが、こっちは気にする。
そんなことを考えながら、私室のある回廊へ足を踏み入れた。
すると、曲がり角の先で、見知った顔が落ち着きなく行き来しているのが見えた。
グラント様付きの侍従のひとりだ。
普段は足音まで整っているような男が、扉の前を行ったり来たりし、ときどき困り果てた顔で廊下の向こうを覗いている。
近づく前から、嫌な予感がした。
俺の足音に気づいた侍従は、振り返った途端、露骨に安堵した顔を見せた。
「セラン殿」
その呼び方だけで、ろくな話ではないと分かる。
事情を聞けば、グラント様がリシェをここへ連れてきてから、かなり時間が経っているらしい。
けれど、リシェはいっこうに部屋から出てこない。
夕刻の鐘が鳴る前には、聖女を正式に居所へ戻さなければならない。だが侍従には、主の許可なく従士の私室を開ける権限がない。
それでグラント様へ確認に行ったところ、あの人は何でもないことのように言ったらしい。
「部屋主に引き取らせておけ」
聞いた瞬間、血の気が引いた。
なんで。
どうしてそうなる。
何してる。
あの部屋には、見られて困るものが、それなりにある。
大したものではない。犯罪の証拠があるわけでもない。
けれど、リシェには見せたくないものがある。
俺は返事もそこそこに駆け出した。
石床を蹴る音が回廊へ響く。最後の角を曲がり、半ば滑り込むように扉の前へ辿り着いた。
「リシェ!?」
勢いのまま取っ手を掴み、扉を開け放つ。蝶番が鳴り、部屋の空気が一気に揺れた。
その奥。寝台の上。
リシェが、俺の寝台で、すやすやと眠りこけていた。
白銀の髪が枕の上へ柔らかく散り、身体は俺が残した沈み跡へ半分重なるように横たわっている。規則正しく上下する胸元も、力の抜けた指先も、あまりに無防備だった。
何をしているんだ、こいつは。
そう思うより先に、部屋の様子が目へ入った。
もともと物が多いわけではない。散らかしているつもりもなかった。
けれど、明らかに何かが違う。
机の上の筆記具は向きが揃えられ、地図の角もきちんと重なっている。床の隅に溜まっていた埃は消え、革の手入れ道具も種類ごとに並べ直されていた。
窓まで妙に明るい。
俺が適当に置いていたものが、全部リシェの基準で「整って」しまっている。
まあ、これはいい。
むしろ、ありがたいまである。
ただ、そこまで手を入れたということは。
視線が、部屋の隅へ向く。
ごみ箱。
中身が新しい袋へまとめ直され、燃やせないものだけ脇へ避けられていた。
見られた。
胸の奥が、嫌な形で冷えた。
あの中には、俺へ粉をかけてきた女からの手紙と、贈り物の包みが入っていた。
会った日の感想。また会いたいという誘い。
気のあることを隠そうともしない言葉。
リシェへ迷惑をかけた件については、自分なりにけじめをつけるつもりでいた。約束を曖昧にした女や、期待を持たせたまま放っていた相手とは、順に話をつけている。
別に、証拠を隠していたわけではない。
ただ、知られたくなかった。
後ろめたい部分を、勝手に剥がされたような気分になる。
しかも、贈り物そのものに罪があるわけではない。
食べ物は食べた。使えるものは使った。返せとも言われていない。
今も、髪紐を使っていた。
ちょうど以前の紐が傷んでいて、手頃だったからだ。使い始めた時は、誰からもらったものかなど、たいして考えていなかった。
けれど。
もしリシェが、あの手紙を読んでいたら。
リシェが知っているのは、花屋での不義理と、人との約束を軽く扱った程度の話だ。
あんなふうに、女と遊びに出たことや、また会いたいと書かれた手紙まで見られていたら。
あくまで、見られたかもしれない、というだけだ。
破かれた紙を、わざわざ繋げて読むようなことをリシェがするとも思えない。
仮に見ていても、気にしないかもしれない。
それなのに、自分の中だけが急速に沈んでいく。
裏切ったような感覚。
最近のリシェは、以前より感情を表に出すようになった。
好きだ、嬉しいとか好意的な言葉を口にしてくれることも増えた。
……もしかすると、今なら少しくらい嫉妬してくれるのかもしれない。
そんな考えが一瞬だけ頭を過ぎる。
いや。自分への好感度と天秤にかけて手に入れる嫉妬など、嬉しくも何ともない。
それに、もし傷つけたのなら、それはただ俺が馬鹿だっただけだ。
急に髪へ触れているものが気持ち悪くなった。俺は紐を引き解き、髪を下ろす。
そのままごみ箱ではなく、口を縛った袋の奥へ押し込んだ。
二度と目につかないように。
あとは見られて困るものは、もうない。
……はずだった。
そう思いながら、寝台へ視線を戻した。
その時だった。
視界の端で、リシェの手元が見えた。
「……っ!」
指が、何かを強く握り込んでいる。
見覚えのある、古い布。枕の下に隠していた俺の宝物が。
それを認識した瞬間、頭の中が真っ白になった。
リシェの手に握られていたのは、手巾だった。
俺が、リシェの洗濯籠から、盗んで持ち去った手巾。
取り戻そうと手を伸ばしかける。
けれど、指はしっかり閉じられていた。無理に引けば、確実に起こしてしまう。
登城前。俺が兵士訓練所へ入り、リシェが聖女選定試験へ向かうため、しばらく別々に暮らすことが決まった頃。
洗濯に出される籠の中へ、あの手巾が入っているのを見つけた。
……魔が差した。それ以外に、言いようがない。
あれは俺の母、エナがリシェへ渡したものだった。
サリーナでの苦しい日々も、旅の間も、リシェはずっと懐へ忍ばせ、大事にしていた。
何度も涙を拭き、汗を拭い、寒い夜には握り締めていた布。
長い年月を経た手巾には、リシェの匂いが濃く残っていた。
……欲しくなった。
リシェの生活は、支給品だけで十分だった。
だから、一枚くらいなくても困らないだろうと思ってしまった。
俺は先に兵士訓練所へ入る。あとで気づかれても、もう問い詰められない。
どうせリシェは、どこかで失くしたのだと諦める。
そんなふうに、都合よく考えた。
実際、サフィアは気付いているのかもしれない。
……あの時も、それとなく探るようなことを言ってきた。
あの頃は、俺だってリシェと離れるのが寂しかった。
訓練所の宿舎は狭く、夜になると急に静かだった。誰かの寝息は聞こえても、リシェの呼吸ではない。
そんな時、手巾を取り出して匂いを嗅ぐと、少しだけ落ち着いた。
やる気も出た。大切に持ち歩いた。
……正直に言えば、性欲の糧にしたこともあった。
今となっては、何をどう言い繕っても無駄だ。
怒られて当然だし、見つかった以上は没収されるだろう。
……仕方ない。
諦めるしかない。
頭の中で何度も覚悟を回し、ようやく腹の底へ落とす。
それから、改めて寝台の上のリシェを見た。
それにしても、どうしてここで寝ているんだ。
白銀の睫毛は微動だにせず、唇はわずかに開いている。白い首筋も、衣服の襟元も、何の警戒もなく晒されていた。
俺の寝台。俺の匂いの中。
そんなところで、こんなふうに眠られたら。
まるで、こちらへ誘いをかけているようにしか見えない。
視線を逸らした。
見続けていたら、本当に吸い込まれる。
いかん、理性だ。
あのカイルを見習え。あいつだって、眠っているリシェへ手を出さずに耐えた。寝込みを襲うのだけは、絶対にだめだ。
いや、もう起こそう。
余計なことを考え始める前に。
「リシェ、リーシェ。起きろ」
肩へ手を置き、軽く揺する。
柔らかい。
そんなことまで意識してしまい、指先へ余計な力が入らないよう気をつける。
けれど、リシェの反応は鈍かった。
「ん……やだ……まだ」
力の抜けた、眠たげな声が返ってくる。
久しぶりに聞く、寝起きのリシェの声だった。
聖女らしさなど、欠片もない。
こんな顔を知っているのは、たぶん俺と、サフィアたち侍女くらいだろう。
そう思うと、胸の奥に妙な優越感が湧く。
同時に、今すぐ起こさなければならない現実が面倒になる。
「リシェ、起きないと飯抜きだぞ」
さっきより強めに揺する。
身体が動くたび、視覚的にも柔らかいものが揺れた。
つい目を取られて、追ってしまう。
……目に悪い。
けれど、揺すっている以上、仕方ない。いや、本当に仕方ない。
手巾もまだ離さなかった。
指の間へ挟み込み、しっかり握っている。試しに端を少し引いたが、駄目だった。
くそ。どれだけ執着してるんだよ。
いや、それを言える立場ではない。
俺の方が何年も盗んで隠していた。
「リーシェー。まだじゃねえ。もう夕方だ」
少し強く言う。
それでようやく、リシェの睫毛が震えた。
「えっ!?」
次の瞬間、リシェが勢いよく飛び起きた。




