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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
28章 祝祭
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扉の向こうの眠り姫

今日の当番任務を終え、装備を納めながら大きく息を吐いた。


昼の熱はまだ石壁の内側にまで残っている。鎧を外しても、首筋を伝った汗が肌着へ吸い込まれ、背中にはじっとりとした不快さが張りついたままだった。剣帯を所定の場所へ掛け、籠手を外すと、ようやく肩の重みが少し抜ける。


このあとは自由時間だ。


街へ出てもいいし、リシェの庭へ行ってもいい。


もちろん、会えるなら庭一択だった。


ただ、今日はリシェの予定を今朝のうちに確認できていない。祭祀か、公務か、誰かとの面談か。今頃まだ塔にいるのか、それとももう庭へ下りているのかも分からなかった。


……まあ、先に汗を拭くか。


このまま会いに行って、汗臭いと顔を顰められるのは嫌だ。リシェは気にしないかもしれないが、こっちは気にする。


そんなことを考えながら、私室のある回廊へ足を踏み入れた。


すると、曲がり角の先で、見知った顔が落ち着きなく行き来しているのが見えた。


グラント様付きの侍従のひとりだ。


普段は足音まで整っているような男が、扉の前を行ったり来たりし、ときどき困り果てた顔で廊下の向こうを覗いている。


近づく前から、嫌な予感がした。


俺の足音に気づいた侍従は、振り返った途端、露骨に安堵した顔を見せた。


「セラン殿」


その呼び方だけで、ろくな話ではないと分かる。


事情を聞けば、グラント様がリシェをここへ連れてきてから、かなり時間が経っているらしい。


けれど、リシェはいっこうに部屋から出てこない。


夕刻の鐘が鳴る前には、聖女を正式に居所へ戻さなければならない。だが侍従には、主の許可なく従士の私室を開ける権限がない。


それでグラント様へ確認に行ったところ、あの人は何でもないことのように言ったらしい。


「部屋主に引き取らせておけ」


聞いた瞬間、血の気が引いた。


なんで。


どうしてそうなる。


何してる。


あの部屋には、見られて困るものが、それなりにある。

大したものではない。犯罪の証拠があるわけでもない。


けれど、リシェには見せたくないものがある。


俺は返事もそこそこに駆け出した。


石床を蹴る音が回廊へ響く。最後の角を曲がり、半ば滑り込むように扉の前へ辿り着いた。


「リシェ!?」


勢いのまま取っ手を掴み、扉を開け放つ。蝶番が鳴り、部屋の空気が一気に揺れた。


その奥。寝台の上。

リシェが、俺の寝台で、すやすやと眠りこけていた。


白銀の髪が枕の上へ柔らかく散り、身体は俺が残した沈み跡へ半分重なるように横たわっている。規則正しく上下する胸元も、力の抜けた指先も、あまりに無防備だった。


何をしているんだ、こいつは。


そう思うより先に、部屋の様子が目へ入った。

もともと物が多いわけではない。散らかしているつもりもなかった。

けれど、明らかに何かが違う。


机の上の筆記具は向きが揃えられ、地図の角もきちんと重なっている。床の隅に溜まっていた埃は消え、革の手入れ道具も種類ごとに並べ直されていた。


窓まで妙に明るい。


俺が適当に置いていたものが、全部リシェの基準で「整って」しまっている。


まあ、これはいい。

むしろ、ありがたいまである。


ただ、そこまで手を入れたということは。

視線が、部屋の隅へ向く。


ごみ箱。


中身が新しい袋へまとめ直され、燃やせないものだけ脇へ避けられていた。


見られた。

胸の奥が、嫌な形で冷えた。


あの中には、俺へ粉をかけてきた女からの手紙と、贈り物の包みが入っていた。


会った日の感想。また会いたいという誘い。

気のあることを隠そうともしない言葉。


リシェへ迷惑をかけた件については、自分なりにけじめをつけるつもりでいた。約束を曖昧にした女や、期待を持たせたまま放っていた相手とは、順に話をつけている。


別に、証拠を隠していたわけではない。

ただ、知られたくなかった。


後ろめたい部分を、勝手に剥がされたような気分になる。


しかも、贈り物そのものに罪があるわけではない。

食べ物は食べた。使えるものは使った。返せとも言われていない。


今も、髪紐を使っていた。


ちょうど以前の紐が傷んでいて、手頃だったからだ。使い始めた時は、誰からもらったものかなど、たいして考えていなかった。


けれど。


もしリシェが、あの手紙を読んでいたら。


リシェが知っているのは、花屋での不義理と、人との約束を軽く扱った程度の話だ。

あんなふうに、女と遊びに出たことや、また会いたいと書かれた手紙まで見られていたら。


あくまで、見られたかもしれない、というだけだ。

破かれた紙を、わざわざ繋げて読むようなことをリシェがするとも思えない。


仮に見ていても、気にしないかもしれない。

それなのに、自分の中だけが急速に沈んでいく。


裏切ったような感覚。


最近のリシェは、以前より感情を表に出すようになった。

好きだ、嬉しいとか好意的な言葉を口にしてくれることも増えた。


……もしかすると、今なら少しくらい嫉妬してくれるのかもしれない。


そんな考えが一瞬だけ頭を過ぎる。


いや。自分への好感度と天秤にかけて手に入れる嫉妬など、嬉しくも何ともない。


それに、もし傷つけたのなら、それはただ俺が馬鹿だっただけだ。


急に髪へ触れているものが気持ち悪くなった。俺は紐を引き解き、髪を下ろす。

そのままごみ箱ではなく、口を縛った袋の奥へ押し込んだ。


二度と目につかないように。


あとは見られて困るものは、もうない。


……はずだった。


そう思いながら、寝台へ視線を戻した。


その時だった。


視界の端で、リシェの手元が見えた。


「……っ!」


指が、何かを強く握り込んでいる。

見覚えのある、古い布。枕の下に隠していた俺の宝物が。


それを認識した瞬間、頭の中が真っ白になった。


リシェの手に握られていたのは、手巾(ハンカチ)だった。


俺が、リシェの洗濯籠から、盗んで持ち去った手巾。


取り戻そうと手を伸ばしかける。

けれど、指はしっかり閉じられていた。無理に引けば、確実に起こしてしまう。


登城前。俺が兵士訓練所へ入り、リシェが聖女選定試験へ向かうため、しばらく別々に暮らすことが決まった頃。

洗濯に出される籠の中へ、あの手巾が入っているのを見つけた。


……魔が差した。それ以外に、言いようがない。


あれは俺の母、エナがリシェへ渡したものだった。


サリーナでの苦しい日々も、旅の間も、リシェはずっと懐へ忍ばせ、大事にしていた。

何度も涙を拭き、汗を拭い、寒い夜には握り締めていた布。


長い年月を経た手巾には、リシェの匂いが濃く残っていた。


……欲しくなった。


リシェの生活は、支給品だけで十分だった。

だから、一枚くらいなくても困らないだろうと思ってしまった。


俺は先に兵士訓練所へ入る。あとで気づかれても、もう問い詰められない。

どうせリシェは、どこかで失くしたのだと諦める。

そんなふうに、都合よく考えた。


実際、サフィアは気付いているのかもしれない。

……あの時も、それとなく探るようなことを言ってきた。


あの頃は、俺だってリシェと離れるのが寂しかった。


訓練所の宿舎は狭く、夜になると急に静かだった。誰かの寝息は聞こえても、リシェの呼吸ではない。

そんな時、手巾を取り出して匂いを嗅ぐと、少しだけ落ち着いた。


やる気も出た。大切に持ち歩いた。


……正直に言えば、性欲の糧にしたこともあった。


今となっては、何をどう言い繕っても無駄だ。

怒られて当然だし、見つかった以上は没収されるだろう。


……仕方ない。


諦めるしかない。

頭の中で何度も覚悟を回し、ようやく腹の底へ落とす。

それから、改めて寝台の上のリシェを見た。


それにしても、どうしてここで寝ているんだ。


白銀の睫毛は微動だにせず、唇はわずかに開いている。白い首筋も、衣服の襟元も、何の警戒もなく晒されていた。


俺の寝台。俺の匂いの中。

そんなところで、こんなふうに眠られたら。

まるで、こちらへ誘いをかけているようにしか見えない。


視線を逸らした。


見続けていたら、本当に吸い込まれる。


いかん、理性だ。

あのカイルを見習え。あいつだって、眠っているリシェへ手を出さずに耐えた。寝込みを襲うのだけは、絶対にだめだ。


いや、もう起こそう。

余計なことを考え始める前に。


「リシェ、リーシェ。起きろ」


肩へ手を置き、軽く揺する。


柔らかい。


そんなことまで意識してしまい、指先へ余計な力が入らないよう気をつける。


けれど、リシェの反応は鈍かった。


「ん……やだ……まだ」


力の抜けた、眠たげな声が返ってくる。

久しぶりに聞く、寝起きのリシェの声だった。


聖女らしさなど、欠片もない。


こんな顔を知っているのは、たぶん俺と、サフィアたち侍女くらいだろう。


そう思うと、胸の奥に妙な優越感が湧く。

同時に、今すぐ起こさなければならない現実が面倒になる。


「リシェ、起きないと飯抜きだぞ」


さっきより強めに揺する。


身体が動くたび、視覚的にも柔らかいものが揺れた。

つい目を取られて、追ってしまう。


……目に悪い。


けれど、揺すっている以上、仕方ない。いや、本当に仕方ない。


手巾もまだ離さなかった。

指の間へ挟み込み、しっかり握っている。試しに端を少し引いたが、駄目だった。


くそ。どれだけ執着してるんだよ。


いや、それを言える立場ではない。

俺の方が何年も盗んで隠していた。


「リーシェー。まだじゃねえ。もう夕方だ」


少し強く言う。

それでようやく、リシェの睫毛が震えた。


「えっ!?」


次の瞬間、リシェが勢いよく飛び起きた。

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