分別を語る物たち
偽物とはいえ、婚約者として。
私はグラント様のご予定が許す限り――おおよそ月に一度、小さな茶会が設けられている。公務の場で同行することはあっても移動中ですら彼は別の仕事を処理している。だから私とグラント様が本当に気兼ねなく私的な情報交換ができる、数少ない場だった。
主な話題は、アスティやセランについて。とはいえ、誰かを詮索するためというより、互いの知らない時間を少しずつ埋めるような、ただのお喋りに近い。
保養邸で過ごした数日の間に、私はまた、ほんの少しだけグラント様と親しくなった。以前より彼の気配が柔らかくなったからなのか、私がようやく遠慮しすぎるのをやめたからなのか。どちらが先だったのかは、自分でも分からない。
グラント様は、アスティへの求婚に本腰を入れるつもりだと教えてくださった。
おそらく、本気で。
その話になった時、私はきちんと告げた。
「グラント様。私は、アスティの味方です。もしアスティが本当にお断りすると決めた時は、御力にはなれません」
それに対して、グラント様はあっさり笑った。
「ははは、いいんだ。それで構わない。だが、素のアストリットを知っているのは、この城では君とサフィアくらいだからね。そしてサフィアは口が堅い」
さらりと「サフィアは」と続けられたことで、私の方は口が滑りやすいという含みを持たされてしまった。
「まあ。私も口を堅くしなければいけませんね」
私は、ほんの少しだけむくれてみせた。
グラント様は悪びれることもなく、冗談めかして続けた。
「いや、失礼した。こちらには取引として交渉の余地がある、という意味だ。君が協力してくれるたびに、セランの食事へ肉を一切れ増やそう」
「ふふふ。どうしましょう。お肉ばかり食べすぎないようにしないとと思っていたんですよ」
思わず笑って答えると、グラント様も肩を揺らした。二人で顔を見合わせて笑う間に、庭から吹き込んだ風が、草の青い香りを運んでくる。
その延長のような流れで、グラント様は言った。
「ああ、せっかくだ。すでにセランも部屋を移している。当家での待遇について、ぜひ確認していきなさい。苦情や改善の希望があれば、まとめてくれれば善処する」
私はすぐに首を横へ振った。
「いえ、そんな。すでによくしていただいています」
けれどグラント様は、ゆるく肩をすくめただけだった。
「アスティからは、彼の待遇に注意するよう言われているからな。まあ、普通に見ていくだけでいい」
そう押し切るように微笑まれてしまった。
そして今――私はひとりで、セランの部屋にいる。
扉は、グラント様が侍従へ命じて開けさせた。けれど侍従は鍵を開けるとすぐ持ち場へ戻り、グラント様も別の用があると言って去ってしまった。
グラント様にとって私は、偽の婚約者である以前に、セランの家族として扱われているらしい。
そうでなければ、本人のいない私室へ、こんなにも無造作に通されるはずがない。
『帰りは、侍従か、その辺の文官へ声をかけてくれればいい』
そう言い残され、私は開いた扉の前へひとり取り残された。
……そう言われても、私にはいまだに、その「その辺」の感覚がよく分からない。
ここはイェルス家の敷地内。
セランがグラント様の従士として配属され、新しく与えられた私室だった。一般兵だった頃の部屋よりは、明らかに広くなったと聞いている。
私は以前の部屋を知らない。
セランいわく、「ちょっと広い棺桶」だったらしい。その時は唇を引き結んだものの、思い返すたびに、つい少し笑ってしまう。
たぶん、思えば、以前からセランの部屋へ入ろうと思えば入れたのだとは思う。
公に禁じられていたわけではない。
けれど兵舎に属する者の私室へ女性が入るとなれば、密室で過ごすことは不適切とされ、扉を開けておく義務や、立会人についても厳しく定められていたし、目立ってしまう私が出入りしてしまうのはきっとあまりよくない。
私はセランへ迷惑をかけたくなかった。
気まずくさせるのも、噂を立てられるのも、彼はきっと嫌がるだろうと思っていた。
私たちは庭で毎日のように会っていたし、それで十分だった。
それに、セランも私の暮らす塔の部屋へ来ることは許されていなかった。
……それが、今では。
グラント様は私とセランの関係へは干渉しないと明言してくださっている。
だから、この敷地の中では、私がセランの部屋を訪ねても誰にも咎められない。
「セランがいないのに……いいのかな」
ぽつりと呟き、扉の内側から部屋を見渡す。
確かに少しだけ、ためらいはあった。けれど同時に、知りたいとも思っていた。
私たちは長く一緒にいて、お互いのことを何でも知っているつもりでいた。けれど今は、彼について知らないことが増えている。
私の知らない時間。暮らし。人付き合い。私へ話さない思い。
少し寂しい。
けれど、たぶんそれが正しいのだろうとも思う。
先日、セランが城下での人付き合いから騒動を起こし、評判を悪くしていたという話を偶然に聞いた。
私は小言を言い、セランも最初は反省してくれた。けれど、私が言いすぎたのか、最後には反発されてしまった。
私たちは、もう子どもじゃない。
たとえ家族でも、何もかもを管理し、すべてを共有し合う関係ではないのだと、ありありと思い知らされた出来事だった。
「悪いことをさせたくなければ、見張ってろ」
最後にそう言ったのは、私がセランの不始末だと決めつけ、勝手に肩代わりしたことを怒っていたのかもしれない。
悪いことをして、その責任まで私が引き受けてしまったのなら。
それは、セラン自身が背負うべきものまで奪ったことになる。
彼の誇りを傷つけたのかもしれない。
思い返すうちに胸が重くなり、私はそっと部屋の中へ足を踏み入れた。
なるべく何にも触れないように。
彼の匂いや気配を乱さないように。
セランは鼻が利く。
きっと、私がどこへ触れたのかも分かってしまう。
だから指先は浮かせたまま、目だけを動かして部屋を見回した。
荷物はほとんどなかった。
必要最低限のものだけが、簡素に並べられている。
机の上には教本と地図、筆記具。
アスティからもらった、私とお揃いの石筆と、新しい羽根筆。
衣類と洗濯物。剣の手入れ道具。
冬用なのだろうか、なめしただけの毛皮が何枚か重ねられている。
そして。
椅子の背には、脱いだままの寝着が掛けられていた。
寝台には、眠った時の形そのままに、わずかな沈み跡が残っている。
――セランの形だ。
……ふふ。
そこにいないのに、すぐ傍で寝息を立てているような気配がして、私は思わず笑ってしまった。
声には出さず、ただ口元だけを緩める。
見ているだけで懐かしくて、胸の内側が温かくなる。
なんだか、少し悔しいくらいに。
「あ……いけない」
ぽつりと口をついて出たその言葉は、誰に届くでもない、小さな後悔の囁きだった。
触らないでおこうと思っていたのに。
指先がつい、癖のように動いていた。セランの脱ぎっぱなしの寝着――洗いざらしで、どこか懐かしい匂いのするそれを、私はいつの間にか畳んでしまっていたのだった。
……もう、取り返しはつかない。
なら。
私はひとつ息を吐き、考え方を切り替えた。
手慰みに来たのではない。監督に来たのだ。
グラント様の命を受けて、待遇を確認するために来た。これは、ある意味では職務。そういうことにしてしまえばいい。
もう一度深く息を吸い、部屋の空気を胸へ入れる。
涼しい風が差し込む部屋は、兵舎よりは格段に整えられている。けれど、それでも生活の場らしい匂いが、薄く満ちていた。
使い込まれた革。剣油。洗剤。靴底から落ちた土。
そして、そのすべてへ染み込むように残る、セラン自身の気配。
気づけば、私の手は床を掃き始めていた。
隅へ溜まった埃を払い、小さな木屑や紙屑を一つにまとめる。それから窓の曇りが気になり、布を探してガラスまで拭き上げた。
昼の光が反射して、少し眩しい。
「やっちゃったな……」
気づけば、待遇を見るだけという範囲をとうに越えていた。
本人がいないのに、よくない。
そう思ってはいる。
けれど散らかったものを見ると、放浪していた頃と同じように、身体が先に動いてしまった。
少し始めたら、久しぶりの家事が楽しくなってしまったのだ。
アスティに保護されてからは、侍女たちが何でも整えてくれるようになった。すっかり遠ざかっていたけれど、私は刺繍や読書より、身体を使う家事や庭仕事の方が、たぶんずっと好きなのだと思う。
次に手を伸ばしたのは、部屋の隅に置かれたごみ箱だった。
ここまで来たのなら、と開き直り、掃き集めたごみを入れようとして中を覗く。
ビリビリに破かれた紙――手紙だった。達筆な筆跡。女性の書く流れるような文字だとすぐに分かる。文面は読み取れないけれど、整った線と角度に、贈り主の心がこもっていたことは見てとれた。
その傍には、贈り物の包み紙の破片。
そして……使い捨てられた鼻紙、乾きかけの血がついた包帯。
一瞬、手が止まる。
けれど私は、何も見なかったことにして、それらを静かに纏め、袋に入れて捨てた。
……共にいた頃とは、違うのだ。これはセランの私生活。
外の世界の中で彼が出会った人たちとの、彼だけの関係。
血が出るのは、悲しい。けれど彼は兵士なのだ。多少の怪我や無茶をすることもある。事情はわからない。私には、もう全てを知るのも、口を出す権利もないのだと思う。
そうじゃなきゃ、本当に見張っていなければならなくなる。
……それはきっと、お互い苦しい。
寝台に視線を戻す。枕と掛け布を整えようと手を伸ばしかけて――ふと、枕の端に何かが挟まっているのに気づいた。
光の加減でちらりと覗いた、それは――見覚えのある布だった。
「え、うそ……」
思わず手を伸ばし、そっと取り出す。
それは、私の手巾だった。
なくしたと思っていた、あの、古い手巾。
セランの母、エナがくれたもの。かつてサリーナに売られたとき、私はこれを肌着の下に縫い付けて、身を守るように持っていた。
辛いとき、泣くとき、必ずこれで涙を拭いた。放浪の夜も、冷たい雨も、飢えも、恐怖も……この布に染み込んでいる。
旅の間、ウルの毛を包んで守り袋にしたこともある。
いまは別に、その毛は抽斗の奥に仕舞ってあるけれど。
この手巾が、なぜ――ここにあるの。
私は確かに、アスティの屋敷から出立する時になくしたのだ。洗濯物と一緒に預けたまま戻ってこなかったのだと、そう思っていた。
だから、見つかって嬉しかった。
けれど、嬉しさのすぐ後に、じわりと別の感情が膨らんでくる。
セランは、この手巾の由来を知っている。どれほど私がこれを大事にしていたかも、知っている。
それなのに。
見つけたなら、なぜ返してくれなかったの。
いくらでも機会はあったはずなのに。
裏切りもの。
私は、内心でそう罵っていた。
わずかに歯を食いしばりながら、けれどすぐにその気持ちも揺らぐ。
……でも。
セランにとってもこれは、“母”の記憶。
セランには、もう思い出と呼べるものが、ほとんど残っていない。トルニカを出てきたときに着ていたエナの手編みの衣類くらい。その服だって、あの旅のどこかで、失ってしまった。
だったら、これを手元に置きたくなったとしても……責められないのかもしれない。
でも、でも。
――言ってくれたら、貸してあげるのに。
そう、思ってしまう。
不満と、憐憫と、それから得体の知れない寂しさで、気持ちのやり場が見つからない。
私は、思わず寝台に倒れ込んだ。
枕の上ではなく、ほんの少し横。
ちょうどセランが眠っていた、沈み跡のすぐ隣。
顔を横に向けると、そこには彼の形があった。
以前、添い寝していたときのように。
「あれから、添い寝してもらってない……」
ぽつりと呟いてみても、返事はない。
たかだか二月も経ってないくらいのことだけど、もうしないと言われてしまったから、惜しくなっていた。
だって。
放浪の間、ほとんど毎晩そうしていた。背中を寄せ、温もりを分け合って眠った。
すべてが共有されていた時間だった。
それが、城に来て。
男女だの、格式だの、分けなければならないものが増えていって。
初夏のころ、セランが寝ぼけて私を噛んだあの事件から、添い寝は禁止された。
――セランの自主的な判断で。
人生が“分けられる”というのは、こういうことなんだと思った。
セランは、私にとって、温かい故郷だった。
言葉のいらない、夜をともに越える体温だった。
私もセランも、狼だったなら。
死ぬ以外で引き離されることなんて、なかったのに。
私たちが“人”として生きるためには、こうして、同じだったものを一つずつ分けなければいけないんだろうか。
……そもそも。
なんで、分けなきゃいけなかったんだっけ。
なんで、私たちはこのお城に来たんだったっけ。
ぼんやりと思考が揺れていく。
昼下がりの陽だまりの温度が心地よくて。
すぐそばから漂う、馴染み深いセランの匂いが、記憶の奥にある安らぎを呼び起こす。
それは、焚き火の煙と乾いた草の匂い。獣の毛並みの温もり。眠る前に聞こえた低く短い息遣い。
それらが全部、すぐそこにある気がして。
……いつしか私は、まどろみの深みに沈んでいった。




