侍女の危うい物語
回廊の曲がり角を過ぎたあたりで、ちょうど使用人用の裏通路に向かうところだったサフィアの後ろ姿を見つけた。
この大事な用事を思い出したのは、今日の仕事終わりに、庭で合流したリシェがいくつもの本を抱えていたからだった。
調子の悪い樹木の原因を調べるため、さっきまで図書室へ行ってきたのだと言っていた。
作業で汚れないよう、汚れ除けを掛けて片隅へ置いた時、ちらりと見えた。
……他の本の並びに、似つかわしくないほどの大衆小説の装丁。
『葡萄園の秘密』
薄紫の艶紙へ金箔で蔓草と題が押され、どう見ても健全な本には見えなかった。
「くそ、また……!」
忘れてた。小説に文句を言わなけりゃならないんだった。
あいつ「面白くない」なんて俺に言っておきながら、自分でも借りて来てるのかよ。
俺が歯止めをかけなかったせいで、リシェが自分から仕入れるまでになっているとしたら、急がないとまずい。
……またとんでもない行動や発言をされかねない。
だから、リシェの恋愛知識に、わけのわからない娯楽の毒を盛ってくる張本人――。
サフィアの姿を捕まえたんだった。
「サフィア。ちっと、時間もらえないかな」
サフィアはふいに呼び止められても、動じる様子はなかった。相変わらずの落ち着いた笑顔で、手にしていた書類を脇に抱えながらこちらを振り返る。
「あらセランくん。どうかなさいました? 今日はリシェリア様からお言付けなどはありませんよ」
「いや。わかってる。単純に別の話」
言いながら廊下の人通りに目をやると、サフィアも気を利かせたのか、小さく手を上げて通りがかりの侍女に下がるよう指示を出してくれた。廊下の隅に移動し、俺と向かい合う。
「はい、なんでしょう? ……リシェリア様の私物はお渡しできませんよ」
真顔でそんなことを言い出すから、一瞬、こっちが面食らった。
「……いらねえよ。俺をなんだと思ってるんだ」
そんなものを、サフィアに頼んでまで手に入れるつもりはない。
思わず言い返した瞬間、サフィアは少しだけ首を傾げる。
「まあ、本当に?」
……?
サフィアが、何かを知っているような顔で意味ありげに微笑む。
「いいえ。ただ、以前リシェリア様の私物で紛失したものがあったことを思い出したものですから」
「俺は何も知らない」
「ふふ……そうですか。それで、御用はなんでしょう?」
問いかけに応じるその調子は、相変わらず柔らかいのに、なぜだか含むものでもあるように、からかいの色がある。
「……あのさ、リシェに変な本読ますのやめてくれないかな」
「変な本?」
少しだけサフィアの眉が上がった。
「あらあら、どの御本のことでしょう?」
とぼけた顔で返される。わかってて言ってるくせに。
「サフィア。揶揄ってるのわかってるから。実際にはどれでも良いんだ。リシェに、変な方向の情報が入りそうなやつ全部だ」
思わずこめかみに指を当てる。ちくりとした痛み。頭が重くなるような感覚。
「いえ、知識自体は必要なことですから。一見、要らなそうでも、知っておくことで、危険を避ける手助けになりますよ」
さらりとした口調のまま、サフィアは微笑を崩さない。その態度が、逆に腹立たしいくらいだ。
「逆に、どんな情報が不要だとおっしゃるんです?」
手強い。なんでだ。
サフィアもなんでそんなに執着してるんだ。
少し苛立った。
けど、女相手に怒鳴るのも乱暴だし、サフィアはただの使用人でもない。普段からリシェの世話を任せてる大事な存在だ。荒っぽく扱える相手じゃない。
ちゃんと、交渉するしかない。
「今日持ってたのは『葡萄園の秘密』とかいう、いかがわしい色の表紙だった」
「ああ、それは。別にセランくんが心配するような本ではありません」
「ほんとかよ。明らかによくなさそうな装丁だったぞ。ちゃんと中身を見て判断してくれ」
「ふふふ、なんて過保護なのでしょう。……あれは、エリシアナ様のご領地で起きた実話をもとにした小説ですよ。潰れかけた葡萄園を、元聖女であるエリシアナ様が、尽力なさって再建へ導いた道筋を描いたものだという事です。多少は物語風に脚色されていますが、本当に真面目なお話ですよ」
「……あ、そう」
紛らわしい表紙にしやがって。
そういえば、年末にエリシアナが庭へ来ていた頃、領地からそんな相談が届いているとリシェに話していた。
農業の名門であるヴェルセル家の知識を総動員しても、葡萄が青いまま萎れていく奇病が何年も収まらない。知識や経験だけで解決できないのなら、領地へ戻った後に自分で症状を確かめて、リシェにも詳しいことを知らせるから相談に乗ってほしいと言っていた。
それからも、リシェとは手紙のやり取りを続けていたはずだ。
功を奏して病が治まり、今年の新芽が無事に芽吹いたということだろうか。
……それなら、よかった。
「エリシアナ様を讃える意味で書かれたのでしょうから、装丁もエリシアナ様の趣向へ寄せたのでしょうね。私も献本をいただいて読みましたが、内容は実に真摯な奮闘譚でした」
「……じゃあ、なんでリシェが図書室から持ってきてるんだ」
「リシェリア様が、図書室を通じて購入を依頼しておられたのです。本の売り上げの一部が葡萄園へ還元されると聞いて、献本ではなく、きちんと購入して手元へ置きたいと仰っていました」
邪推だった。
……少し気まずい。
いや、誰がどう見ても健全な農業に関する物語なんかには見えないだろうが。カイルだってみれば眉を顰めるはずだ。
いや、その本はいいとして。
「……じゃあ、それはいい。それの前に読ませてた娯楽小説のことだ」
直接火種になった奴を例に出した。そもそも本の題名なんて聞いたことがなかった。
「白い結婚とか……愛人とか。許されない関係とか……なんかそういうのが出てくるやつだよ」
本当はそれに限らず、恋愛もの全般、あんまりリシェに入れたくない。
俺とリシェの間には、二人で積み重ねて育てていきたいんだから。
けど、それを言っても何の説得にならないから言ってもいい事はない。
せめて。せめて、純愛ではなく第三者が混ざってくるような、くだらない筋書きだけは止めておこう。
「あらあら。それは、“返せぬ婚約”シリーズですね。最近、市井で人気なのですよ。社交の場でも、よく話題になりますし」
「リシェにそういうのいらないって」
本気で、そう思う。いらねえよ。リシェにとって“普通”がなんなのか、よく考えたら俺にも分かんねえけど。
「でも、知識としてそういうものを持っていないと、社交の場で素知らぬふりをした悪い殿方からの、変な誘いにうっかりついていってしまいますよ?」
「そういう場にはカイルがいるだろ。あいつが虫除けしないならなんのためにいるんだよ」
我ながらすごい理屈だと思う。けど、それくらいにはあいつに“盾”になってもらわないと割に合わねえ。
「随分、カイル様を信頼なさってるんですね」
「……んなことねえよ」
即答したけど、サフィアの微笑みは崩れない。
「ふふ、そういうことにしておきましょう。でも、どうしてダメなんですか? 恋物語の感想を囁き合って胸をときめかせるのは、普通の女の子の嗜みだと思いましたが」
「ぐっ……」
……普通の女の子。
それを言われると、少し詰まる。
リシェには――
普通を、楽しんでほしいと思ってる。
けど、“普通の女の子”ってなんだ? 恋やうわさ話に浮かされることか?
……いや、違う。そうじゃねえ。
好きで楽しんで読んでるならともかく。
「リシェも面白くはないって言ってたから」
ぽつりと本音を落とすと、サフィアの表情が一瞬だけ揺れた。
「そう、ですね。確かに。そんな反応ではありました」
ようやく、彼女の肩がわずかに落ちた。やっぱりあれ、サフィアの趣味だったんじゃねえか。
「もう少しだけ待ってください。ここから周囲の反対を押し切って駆け落ちするクライマックスが来るんです。偽の毒薬を使って自殺を装おうとしたところへ、事情を知らない二人の兄が駆けつけて、間違って――」
「待った待った。絶対にやめてくれ! ……やめてください!」
急に熱量が上がった。なんでそんな情熱かけてんだよ!
というかそれ、絶対にだめなやつだ。
思わず両手を上げて制止する。
浮気とか愛人とかそういう段階をすっ飛ばしている。毒とか自殺とか、そっちの方がよっぽど危険だ。
また『やっぱり恋愛って危ないから、消してしまおう』とかリシェが言い出したらどうしてくれんだよ。
「わかったよ。恋愛小説はいい。リシェが自分からもうやめたいって言うまでは好きにやっててもらって。……だけど、刃傷沙汰とか身投げするとか、あまりに酷い目に遭うような奴はだめなんだ。やめてくれ。……本当に」
真面目に、真摯に。頭を下げて、頼んだ。
「そういうのは魘されたりする原因になりかねない」
声が自然と低くなった。
「せめて、もうちょっと軽い話題のものにしてくれ、……ください。まだ、あいつも俺も、学も常識も足りないから。ひと世代下の子供へ教えるくらいの段階だと思って、選んでほしい、です」
つっかえながらも、敬語でお願いする。年上の、リシェの守り手としてのサフィアに。
「そう言われてしまうと……確かにそうですね。私も至らない点がありました。お詫びします。ここまで読んだ分は、結末だけあらすじでお伝えしましょう。続巻をお渡しするのはやめておきます」
「……譲ってくれてありがとう、サフィア」
「しかし残念ですね。アスティ様はそういったものをお読みにならないですし、ラファや他の侍女の流行は男装の麗人ものに傾倒していますし。お願いを聞く代わりに……セラン君、読んで感想を聞かせてくれませんか?」
読むわけねえだろ。
「いや、すみません……悪いけど、読んでる時間はないです」
心底そう思った。
なんとか説得して、その危ない本と、懸念の危ない要素だけは外してもらうように、念を押して別れた。
危なかった。本当に。
少なくとも、リシェが偽毒や身投げを恋が引き起こす悪い作用だと思い込む前には、間に合った。




