銀色の糸口
彼女が夕の祭祀へ戻っていくと、閲覧室には再び静寂だけが残った。
閉じた扉の向こうへ足音が遠ざかり、やがてそれさえ聞こえなくなる。橙に染まり始めた光が、机と積み上げた書物の上へ斜めに差し込んでいた。
隣の椅子には、少し前までリシェリアが座っていた気配がまだ薄く残っている。広げていた本の位置も、触れられた指先の感覚も、意識すればすぐに思い出せてしまう。
だが、今は見ないことにした。
今日の休暇を、ただ幸福だったというだけで終わらせるわけにはいかない。俺は小さく息を整え、積み上げた本へ視線を戻した。
まず、今日までに分かった確かなこと。
天青石は――シルヴィナスでは、ほとんど出土しない。
調べられる範囲では、主な産地はネーヴェリアの鉱山に偏っている。産地の限られた鉱石であれば、流通経路を辿ることで、少なくとも国までは絞れる。
まして、原産地でもない海辺で、幼い子どもが偶然拾えるような石ではない。
天青石そのものは、特別に高価な宝石でもなかった。質によっては、使われている地金の方が高くつくほどだろう。道端で拾った安石を、わざわざ研磨し、貴金属を使って首飾りへ仕立てるとは考えにくい。
それでも装身具にしたのなら、売るための品ではなく、作った者にとって何か意味があったのかもしれない。
誰かが意図して石を選び、加工し、首飾りとして仕立てた。
そして、それが幼いリシェリアの手へ渡った。
確定ではない。
だが、生き別れる前の両親が彼女へ与えたものだと考えるのは、自然な帰結に思えた。
今も残っている、唯一の物証だ。
重要なのは天青石であることだけではない。石が首飾りという形にされ、彼女の身につけられていたこと、そのものにも意味がある。
イェルス領のオルシナは、ネーヴェリア東部の海洋都市ゲルダポートと、海路を通じて交易がある。
ゲルダポート近郊か、その内陸部には、天青石を産出する鉱山があるはずだ。そして鉱山の周辺には、採れた石を選別し、加工する工房や職人の集落も形成されている可能性が高い。
オルシナの宝飾職人も言っていた。
天青石を研磨する職人は、シルヴィナス国内にはいない、と。
ならば、幼いリシェリアへ首飾りを与えた人物は、ネーヴェリアの職人か、少なくとも職人に近しい人間だった可能性がある。
探すべきは、鉱山の所有者だけではない。
鉱山街にある工房。徒弟制度。屑石の払い下げ先。過去の職人名簿。石を加工できた者と、その周囲で暮らしていた人々。
人の記憶は曖昧になる。証言も年月とともに変わる。誰かの都合で歪められることさえある。
けれど、石は嘘をつかない。
どこで掘られ、どのように加工され、誰の手を経て運ばれたのか。完全ではなくとも、その履歴は必ずどこかに残る。
職人の技術は国家の財産だ。
特に特産品へ関わる技術者の流出を、国が嫌うのは当然だった。職人の移動や技術の継承が厳しく管理されているなら、国外に詳しい情報が出回っていないのも納得できる。
シルヴィナスで読める書物に、加工地や職人の情報がほとんど載っていないことも不自然ではない。
次に必要なのは、鉱脈の分布をさらに細かく調べることだ。
出土から選別へ。
選別から加工へ。
加工から出荷へ。
それぞれの経路を地図の上で重ねれば、首飾りが作られ得た地点を、ある程度まで絞れるはずだ。
ネーヴェリア国内の勢力図も調べる必要がある。
良質な資源は、領地争いの原因になる。鉱山が有力貴族の所領にあるのか、あるいは王家の直轄地として管理されているのかによって、残されている記録も、辿るべき窓口も変わる。
そこまで加味すれば、地図の上ではかなり狭い範囲まで迫れるだろう。
……ただし。
正確に確定するなら、最後は現地へ足を運ばなければならない。
書物や地図だけでは、土地の呼び名の変化や、記録に残らない小さな工房までは拾いきれない。職人同士だけで通じる習慣や、土地に残る古い話もあるだろう。
それでも、手掛かりのない捜索ではなくなった。
闇雲に国中を探すのではない。
鉱山と加工地を辿れば、少なくとも納得できる結論へ近づける。その手応えが、ようやく見えてきた。
一方で――リシェリアが流れ着いたという浜辺の特定は、ほとんど至難だった。
セランの出身地、トルニカ。
こちらも、現存する地図には載っていない集落だ。どの国に属していたのかさえ曖昧で、正確な位置はまだ掴めていない。
あまりに小さな村や、定住しない遊牧民の集落は、根の天蓋にも反映されない。王城に保管されている大地図にも、名が残されていないことは珍しくなかった。
各領主の古い帳簿まで当たれば、徴税や人口の記録から分かる可能性はある。
だが、王命でもない限り、祭祀官であり一領主にすぎない俺へ、他領の古い台帳が開示されるはずもない。
せめて、おおよその地域だけでも絞らなければならない。国土全体をしらみつぶしに調べることなど、現実的ではなかった。
赤毛に金の瞳。
セランの容貌は、純粋なシルヴィナス人に多い形質ではない。両親だけでなく、村の人間にも赤毛が多かったという話は、折に触れて本人から聞いている。
ならば、シルヴィナス国内でも他国の血が濃く入った辺境か。
あるいは、カルナーンか、アルハンドアとの国境に近い土地。
先に、リシェリアが遭ったという大波の記録を調べた方が早いのかもしれない。
国内で起きた災害であれば、祭祀庁か各領の記録に残っているはずだ。大規模な波害なら、複数の地域に被害報告がある可能性も高い。
そこから年代と地域を照合すれば、トルニカの候補地も見えてくる。
理屈では、そう分かっている。
だが、そこへ踏み込むことは、セランとリシェリアの過去を丸裸にするように感じられた。
本人たちが多くを語らず、形のないまま抱えてきた記憶を、俺が勝手に記録へ変え、外から暴くことになる。
必要な調査だとしても、まだ着手する気にはなれなかった。
仮にトルニカの場所を見つけたとしても、その先がある。
リシェリアを連れてきたと目される、流れ者の集団。
彼らがどこから歩いてきたのか。
どの土地を通り、なぜ幼い彼女を連れていたのか。
そもそも、その集団が本当に実在したのかさえ分からない。村人の記憶が作った物語かもしれず、複数の流民が一つの集団として語られている可能性もある。
調べ始めれば、果てしない道のりになるだろう。
それでも――。
分かることから一つずつ確かめればいい。
違ったのなら、候補から外す。
残ったものをさらに調べる。
そうして可能性を絞り込むことこそ、調査の基本だ。
知識も、人も、一つの場所だけで生まれ、留まり続けるものではない。
草原を越え、海を渡り、誰かから誰かへ受け継がれていく。
あの天青石も。
リシェリアも。
いくつもの土地と人の手を経て、今ここへ辿り着いた。
なら、その痕跡も必ずどこかに残っている。完全に消えてしまうはずはない。
俺がまだ、見つけられていないだけだ。
胸に溜めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
その時、廊下の向こうから小さな鐘の音が聞こえてきた。司書が閉架を知らせながら、図書室の中を回っているらしい。
「皆さま。まもなく閉架の時間となります。貸し出しが必要な方は手続きをお早くお済ませになり、退室していただけるようにお願いいたします。……繰り返します。まもなく……」
声が少しずつ近づいてくる。
「おっと。……出よう」
思った以上に時間が経っていたらしい。俺は静かに本を閉じた。
掌へ伝わる表紙の重みが、今日得たものの確かさを伝えてくる。
答えには、まだ遠い。
だが、進む方向は見えた。
橙色の光の中で、俺は本を一冊ずつ重ね直した。




