巡る知識
――休日。
久しぶりに、朝から夕方までを自分だけのために使える日だった。
最近は誰かと行動を共にすることが多く、ひとりで腰を据えて調べ物をする時間がほとんど取れていない。ようやく以前から続けているリシェリアのルーツ探しへ戻れると思うと、自然と足は図書室へ向いていた。
机の上に並べたのは、「ネーヴェリア史」「鉱石学」「ネーヴェリア海域図」「ネーヴェリア語辞書」。
どれも、先日手掛かりになりそうだと考えた天青石と、その産地に関わるものばかりだ。辞書を片手に語源を辿り、地図と文化誌を見比べながら、読めない箇所を一つずつ解いていく。
もともと、新しいことを学ぶのは好きだった。
分からなかったものが、ある瞬間に一つの形へ繋がる。その感覚は何度味わっても飽きない。知らない土地の言葉、海図の細かな記号、古い言い回し。それらを解きほぐし、自分の知識と照らして書き留めていくうちに、少しずつ血肉になっていく。
もちろん、いくら考えても理解できず、眉間へ皺を寄せて首を傾げることもある。
だが、その「分からない」も嫌いではない。時間をかけて分解し、丁寧に咀嚼していく過程そのものが、俺にとっては一種の嗜好だった。
舌の上で飴を転がす。
図書室では飲食禁止だが、飴なら本を汚す心配はない。疲れた頭へ糖分を入れながら、天青石が海路を通じてどこまで運ばれ得るのか、地図の上で可能性を追っていく。
……その時だった。
視界の端で、光が揺れた。
中庭を挟んだ向かい側の窓。その向こうに、見慣れた銀色がある。
見間違えるはずもない、俺の喜びそのもの。
リシェリア。
次の瞬間から、記憶は飛び飛びだった。
見られていたことに気づき、慌てて身なりを整え、彼女のいる側へ回ろうとして息を切らし、そのうえ反対側へ回り込んだ彼女に悪戯までされる。取り繕おうとした姿も、口元に飴をつけたまま狼狽する姿も、すべて見られてしまった。
それでも、彼女は笑ってくれた。
そして。
「……せっかくだから、午後はご一緒させてもらっても良いでしょうか。私の夕の祭祀の時間まで」
願ってもない言葉を、彼女の方から口にしてくれた。
そのまま二人で、個室の閲覧室へ移ることになった。
四人ほどが入れる小さな部屋だった。扉を閉めて照明を灯すと、長く閉ざされていた空気が揺れ、舞い上がった埃が窓から差す光の中で雪のように明滅した。
席へ着く時、俺は迷わず向かいではなく隣を選んだ。
「何かあっても教えられるように」と理由をつけたが、本心は別にある。
隣の方が、彼女の横顔を盗み見やすい。ふとした時に香りも感じられる。
……手が触れることだって、あるかもしれない。
ここには侍従もいなければ、周囲の目もない。それだけで、胸の奥が静かに浮き立っていった。
ふと、先ほどの飴を思い出す。
俺は荷物を開き、もう一つ包みを取り出した。
「先ほどの件はこれで、内密に頼むよ」
包みを解き、飴を手のひらへ載せて差し出す。この場で食べてもらわなければ賄賂にならない、という形にして。
「賄賂というやつですね」
リシェリアは真面目ぶった声音で言った。
けれど、その目には明らかな悪戯の色がある。
「うん。そう……あ」
肯定し終えるより先に、リシェリアがそっと顔を寄せた。
指でつまむのではなく、俺の手のひらから直接、飴を口へ含む。
柔らかな唇が、触れたのかどうかも分からないほど近くを掠めた。
……まるで口づけを落とされたようだった。
受け取ったのは飴だけなのに、手のひらに残った感覚は別の何かに思えて、思考が一瞬途切れた。
「ふふ、おいしい。共犯ですね」
唇をわずかに緩めて、柔らかく笑う。午後の光を受けたその顔が、痛いほど綺麗だった。
最近のリシェリアは、以前より俺に遠慮しなくなった。
特に夏前後、俺が想いを告げてから、こうして不意に距離を詰めてくることが増えた気がする。
年頃の少女らしくなった、というだけでは足りない。
これは、これまでセランだけが当たり前に受け取っていた距離だった。彼女が俺にも同じように触れ、甘え、悪戯を仕掛けてくれる。そのことが、どうしようもなく嬉しい。
だが時折、その仕草には、ただ可愛らしいだけでは済まないものが混じる。
寄りかかるような動き。甘えるような目。無防備な接触。
俺自身の邪な感情が勝手に意味を与えているのか、それとも彼女が無意識に放っているものなのか、分からなくなる。
今のような行動を挑発だと受け取って、本能のまま噛みついてしまったら、彼女はどうするつもりなのだろう。
……いや。
これは彼女なりの信頼だ。罠ではない。
勝手に引っかかってはいけない。
それでも胸をかき乱されるたび、どうしても思い出してしまう。
あの夜、俺の部屋へ現れた“彼女”。曇天のような青を宿した、あの瞳を。
机の中へしまったままの、天青石の色。
あの存在とも、もう一度対話する方法を見つけたい。
リシェリアは、草木の本や土壌学の図鑑を何冊も積み上げ、熱心に頁をめくっていた。その横に、一冊だけ場違いなほど甘い装丁の本がある。
『葡萄園の秘密』
……サフィアが読ませている恋愛小説の続きだろうか。
もしまた、あの手の戯れを俺へ仕掛けてくれるのなら、内容は知らないでいたい。事前の種明かしだけは避けたい。
俺はその本からそっと視線を外し、別の書物へ集中するふりをした。
「図書室に来たのは、何か調べものが?」
顔を上げたリシェリアが問いかける。
「ええ……庭の木で調子が悪いのがあって。原因や症例なんかを探していました」
不思議だった。
木一本なら、彼女の力で触れるだけでも癒せる。以前より健やかに蘇らせることさえできるだろう。
それでも、わざわざ原因を調べている。
疑問が顔へ出ていたらしい。リシェリアはそのまま続けた。
「できれば、頼らず解決したくて」
そう言って、俺の手へ触れる。
その瞬間、指先に小さな痛みが走った。紙の端で切っていたらしい。自分でも気づかなかった傷を、リシェリアが指でそっとなぞる。
痛みも痕跡も、一瞬で消えた。
「癒すことはできます。でも、同じことが起きるのは防げません。
そうなった原因をわかって、予防できれば防げますし……根本を改善できたら、前よりも強くなれます。
……これは、カイルが教えてくれたことですよ」
彼女は目を伏せ、自分の手を見つめていた。
照れているのか、誇らしいのか。その柔らかな表情に、胸の奥が熱を持つ。
「私は一人しかいないので、できる範囲が限られます。最近は外遊や公務も増えてきて、庭に下りられないことも多くなってきました。……だから、こういう知識を増やして、共有したいと思いました。私も知識を蓄えて、経験や得た情報を誰かにお返ししたいなって思っています。そういう想いや命が巡っていて……本や図書室って、素敵だと思います」
一つずつ、感謝を渡すように語ってくれる。
「祭祀庁も。カイルも」
……素敵と言われた。
胸の内へ、静かな灯がともる。
この数年、折に触れて伝えてきた考えが、彼女の中で形を変えながら息づいている。価値観が重なっていくことが、ただ嬉しかった。
「そうしたらいつか、力……異能とかも。色々仕組みがわかって、とるに足らない単なる技術になって。誰でも使えるようになればいいな……なんて」
小さく紡がれた願いに、深く頷く。
国も民も、彼女の力へ依存せずに済む未来。彼女が、ただの少女として生きられる未来。
それは、俺がずっと望んできたものでもあった。
「うん、すごくいいことだ」
驚くほど素直に言葉が出た。
知識は力になる。特別な肉体や才能がなくとも、学び、鍛えれば身につけられる。
俺のように、役に立つ異能を持たない人間でも。
その考えを彼女が受け取り、肯定してくれたことが、胸の奥を静かに温めていく。
そしてもし、リシェリアが聖女でなくても生きていける、ただの少女になれるのなら。
その未来では、俺が隣に立つことも、今よりずっと現実に近づく。
教育はすべての民へ届くべきだ。それが国を強くする。
そんな日頃の持論まで、つい熱を込めて話してしまった。途中で気づき、少し声を落とす。
せっかく彼女と二人きりの午後なのに、なぜ俺はこんな堅苦しい話をしているのだろう。
もっと別の話がしたいはずなのに。
けれどリシェリアは、にこにこと耳を傾けていた。
その笑みが言葉以上の肯定に思えて、また胸が緩んだ。
「それで、お休みを使ってカイルは何を?」
穏やかに問われ、心臓が一度だけ強く打った。
本当は、彼女の出自の手がかりを調べていた。
天青石、海流、方言、地層、歴史書。繋がりそうな糸を片端から引いているが、まだ何も形にはなっていない。
……中途半端な期待を抱かせたくはなかった。
だから、話を少しずらす。
「先日の港町で交易品を見て興味がわいたんだ。アスティの生誕祭に、隣接領のノード公も来るらしいからね。……せっかくなら色々と聞ければと思って、話の種を拾い集めていたんだ」
半分は本当で、半分は煙幕だった。
ネーヴェリア。雪と石の国。
まだ彼女へ示すには早いその名から、目を逸らすように答えた。
リシェリアは疑うことなく、静かに頷いた。
「そういえば、土壌か。……我が国の土壌についてなら、俺が少し調べてまとめたものがある。良ければ持ってこようか」
思い出した言葉が、そのまま口をついた。
「大したものじゃないけど……」
地域ごとの地形と地層、植生分布。数年分の気候変動と、過去の災害記録。文書と呼ぶには雑だが、確かにまとめたものがある。
「家族を土砂災禍で亡くした後にまとめたものなんだ」
あれは俺なりの、小さな鎮魂だった。
二度と同じことが起きないように。似た地形で防ぐ方法はないかと、必死で調べた。
今では領地管理を家令へ任せているが、その資料も多少は役立っている。自然を人の思うままに御し切ることはできない。それでも、誰かの助けになればと願って作った、拙い研究だった。
そこまで話すと、リシェリアの顔が曇った。胸の奥を押さえるような、痛ましげな表情だった。
そういえば、俺は自分の来歴をほとんど彼女へ話していない。
公務へ関係しない重い私事を、文脈もなく語ることにためらいがあった。
だが彼女は、わずかな言葉だけですべてを察してしまった。
「……そんな大切なもの。簡単に渡されていいものじゃないです」
「いや、そんな重く考えないでいい」
知識は流れて循環することこそが意義だ。そう言おうとした俺を制して
リシェリアは両手で、俺の手を包んだ。
「いいえ。借りるんじゃなくて、……もし差し支えなければ、写本させてください。そして、その大切な知識で、カイルが守りたいものについて、教えてくれたらもっと嬉しいです」
声がわずかに揺れていた。
俺のために泣きそうな顔をしている。
家族を失った夜、泣くことのできなかった俺。神を呪うように紙へ、石へ、土へ状況を書きつけていた幼い俺を、今になって彼女が悼んでくれている。
「ありがとう。そんな顔しないでいいんだ。過去は戻らないよ」
そう言っても、彼女の表情にはまだ薄い悲しみが残った。
だから、少しだけ空気を変える。
「そうだな……今年は交代式もないし、降誕節前なら休みもとりやすいと思う。よかったら、我が家に遠慮なく読みにきて役立ててほしい。その知識が巡って誰かを救えるなら、それが一番なんだから。それに……我が家なら、ここと違って読書しながら甘いものを食べても、誰にも注意されないからね」
わざと軽く、冗談めかして誘った。
「まあ。だめですよ。別室でちゃんと休憩なさらないと。サンクレイ様にも怒られますよ」
リシェリアはようやく、ほっとしたように柔らかく微笑んだ。
「それではお先に失礼します。お休みの所、色々ありがとうございました。……また、明日」
夕の祭祀の刻限が迫り、リシェリアの迎えの侍女が図書室に来た。
ひらひらと手を振り、彼女は閲覧室を出ていった。
本当は執務室まで送るつもりだったが、「カイルは今日はお休みなのだから」と頑として譲らなかった。
彼女の几帳面な気遣いは、時々こちらの出鼻を軽やかにくじく。
俺も、そこまで強引に押し通すことはできず、その場で見送るしかなかった。閉じた扉をしばらく眺めてから、ようやく机の上の本へ視線を戻した。




