邂逅
夏休みが明けると、城の中にもようやく普段の流れが戻ってきた。
少し長く休暇をいただいた分、戻った直後は大変だった。書類も、祈祷の申請も、面談の予定も、待っていたと言わんばかりに積み上がっていて、皆で手分けをしながら大急ぎで片づけた。
ようやくそれも落ち着き、今日からまた、いつもの行程へ戻ったところだった。
そして今日は、ちょうどカイルが休日で、執務にいない日でもある。
日勤の祈りや巡回、記録の確認を終え、カイルの不在を代行する補佐官への引き継ぎも済ませた午後。私は静かな回廊を、一人で歩いていた。
通常は、その日のお仕事が終われば、あとは自由時間になる。
カイルがいる日は、なぜか完全な自由にはならないことが多い。
少しでも時間があけば、何かしら用事を作られたり、談話へ呼ばれたり、次の日の行程を前倒しで済ませることになったりする。予定にはなかったはずの予定が、いつの間にか一つか二つ増えていたり。
ヘンリクが眉間にしわを寄せて、カイルが掴もうとした書類を取り上げて切り上げさせようとすることもある。
やるべきことをどこからか生み出しては、片端から片付けようとしてしまうのは、カイルの異能なんじゃないかなと思ったりする。
「ええと……昨日の朝にいただいた時点では、予定表にあった案件がなぜか、すべて処理済みになっていますね。……今日は早いですが、これで終わりましょうか」
補佐官がそう言って、今日の執務が終わってしまった。
「この後、使用人室に寄って侍女に迎えに上がるよう伝えますので、リシェリア様はこのままお待ちください」
「ああ、いいえ。それでしたら、このまま図書室に行くことにしますので、夕の祭祀の時間になったらそちらに迎えにきてくれるように言づけていただけますか」
庭の手入れは、暑い白昼にするものでもないし、部屋へ戻って寛いでもよかったけれど、取り寄せていた書物が来ていたと連絡が来ていたのを思い出した。それに、新しく植えた樹木について、少し調べたいこともある。
せっかく空いた時間なのだから、城の大図書室へ立ち寄ることにした。
「リシェリア様は勤勉ですね。承知いたしました」
そうして執務を終えて、回廊にでた。
この城へ来てから、もうずいぶん経つ。
限られた生活範囲であれば、護衛や侍女を伴わずに移動することも増えていた。
大図書室は、高等な専門書やあまり流通しない様な書物が沢山あるから、決まった曜日には、申請した市民が来ることも許可されている。
私が出入りすると騒ぎになるということで、一般市民の利用日は、近寄ることを避けるように言われているけれど、それ以外の曜日は静かで落ち着いているから、一人で過ごす場所としても好きだった。
今では、私一人でも気兼ねなく訪れられる場所になっていた。
中庭に面した閲覧席には、木々の影がゆっくり揺れている。午後の光も柔らかく差し込み、紙の白さを眩しくしすぎない。
特にお気に入りの席。
本を部屋まで持ち帰らず、少しだけ読むのもいい。
気になる挿絵を見つけ、そこから別の本を探したり、意味が分からないまま眺め続けたり。何かを学ぶためではなく、ただ気の向くまま本を渡り歩く時間も、楽しい。
いつもの席へ本を置き、ゆっくりと頁を開く。
しばらく読み進め、頁をめくる指先へ紙の乾いた匂いが馴染んできた頃、私はふと顔を上げた。
中庭を挟んだ向こう側の窓辺に、見覚えのある姿があった。
……カイルだ。
向こうは、こちらに気づいていないらしい。
いつもとは違う、ゆったりとした衣服を身につけている。椅子へ少し深く背を預け、気怠そうに何かを読んでいた。
髪も普段のようには整えられていない。適当に流しただけのようで、額の辺りに少し乱れてかかっている。
別人みたいだった。
……何を読んでいるのだろう。
カイルは普段、姿勢も所作も驚くほどきっちりしている。
指を一本動かす時にさえ、何か理由があるのではないかと思うくらいだ。
休日であっても、きっと規律正しく過ごしているのだろうと思っていた。
けれど、あの様子なら、もしかすると大衆紙でも読んでいるのかもしれない。
その時、カイルが小さく口を開いた。
……あ。
今、あくびをした。
しかも、飴まで舐めている。
図書室は飲食物の持ち込みが禁止なのに。
つい見つめ続けてしまい、口元が緩んだ。
こんな姿を見るのは、初めてかもしれない。
夏の午後の静けさへ沈んだ図書室で、カイルは本と向き合っていた。
頁を読んでは眉間へ皺を寄せ、理解できないと言いたげな顔をする。しばらくすると、何か腑に落ちたらしく、姿勢を起こして几帳面に書き取りを始める。
その繰り返しが、なんだか可笑しかった。
休日を一緒に過ごす時のカイルは、私の前ではもっとしっかりしている。
しっかりしている、というより、しっかりしようとしているのかもしれない。
少し格好をつけて、崩れたところを見せないようにしている。
こうして肩の力を抜き、誰にも見られていないと思って過ごしているカイルを見るのは、本当に初めてだった。
もう少し、このまま見ていたい。
そんなことを考えながら眺めていると、ふいにカイルが顔を上げた。
緩んでいた灰紫の目が、真っ直ぐ私を捉える。
一呼吸。
カイルの口が、声にならないまま「あ」と動いた。
中庭を挟んでいるから声など聞こえないのに、なぜか聞こえたような気がした。
こちらから見えるのだから、向こうからも見えるのは当たり前だった。
もう少し観察していたかったな。
少し惜しく思いながら、私は気取らず片手を上げた。
カイルはすぐに周囲を確かめ、慌てて立ち上がった。
衣服を整え、髪へ手をやり、椅子へ背を預けていたせいでできた皺を払う。けれど、当然ながら服そのものは変えられない。
その一部始終が、こちらからはよく見えていた。
……全部見えちゃってるよ、カイル。
手早く荷物をまとめた彼は、こちら側へ回ってこようとして、席から姿を消した。
つまらない。
そう思った私は、少し考えてから、反対側へ大きく回ってみることにした。
それなら、途中ですれ違うこともない。
カイルが先ほどまで座っていた席へ着くと、机の上にはまだ何冊か、本が置かれたままになっていた。
「ネーヴェリア史」
「鉱石学」
「近圏海域図」
……ふんふん。難しそうな本ばかり。
あれだけ眉間へ皺を寄せていたのも、少し分かる気がする。
頁へ視線を落としていると、足音が近づいてきた。
なるべく音を抑えようとしているのに、急いできたことはすぐに分かった。
顔を上げると、カイルがわずかに肩で息をしながら立っている。
……一周してきたんだ。
ごめんね。
胸の内で謝りながら、私は小さく笑った。
悪戯は成功したらしい。
「リ、リシェ……リシェリア……なんで……」
小声ではあったけれど、必死に私の名を呼んでいる。
口の端には、きっと見つからないよう慌てて噛み砕いたのだろう、飴の小さな欠片がついていた。
なんて可愛い人なのだろう。
その姿を見た瞬間、胸の奥へ、柔らかなものが広がった。
「ご機嫌よう、カイル。休暇は読書ですか?」
たった今ここへ来て、偶然見つけただけのような顔をして挨拶する。
「いや……うん。さっき、向かいにいたよね……?」
まだ息が整っていない。
瞳の中を、混乱と、どうにか平静を取り戻そうとする色が行き来している。
「え? そうでしたか?」
何も知らないふりをして、首を傾げてみた。
面白い。
もう少しだけ続けてみたくなった。
「なんで……嘘をつく……? 手を……振ったよね?」
カイルは、本当に理由が分からないという顔で私を見た。そんなことをする意味が理解できないらしい。
さすがに、からかいすぎたかもしれない。
そろそろ終わりにしよう。
「だって、カイル」
私は手を伸ばし、彼の口の端についていた飴の欠片を、指先でそっと拭った。
小さな欠片が人差し指へ乗った。
「せっかく見なかったことにしてあげようと思っていたのに……これ」
証拠を、わざとカイルの目の前へ見せる。
それから、言い訳をされる前に、そのまま彼の口へ押し戻した。
「あ、それは……んぐっ」
何か言い始める前に、証拠ごと飲み込ませる。
ほんの一瞬、私の指先がカイルの唇へ触れた。
彼の肩が、びくりと揺れる。
「隠滅できましたね」
そう言いながら、私は思った。
いつも完璧であろうとするカイルよりも、こうして少しだけ抜けたところを見せているカイルの方が好きだ。
無防備で、隠しているものが少しだけ覗いてしまう瞬間。
そういう時の方が、私は彼を近くに感じられる。
白と黒が忙しく入れ替わるように表情を変えているカイルの頬へ、私はそっと人差し指を添えた。
「駄目ですよ。……お静かに」
図書室の静けさの中で、彼の息だけがわずかに乱れていた。
「ふふ。すみません。悪戯したくなっちゃって……慌てているのが可愛くて」
あまりにも困っているように見えてきたので、素直に謝っておく。
少しからかうだけのつもりだったのに、思っていたよりずっと動揺してしまったらしい。
頬が赤くなり、息が乱れ、視線が落ち着いていない。
「あ、うん……ここでもなんだから。奥の閲覧室に行こう。迷惑だから」
頬へまだ赤みを残したまま、カイルはどうにか態度を整えようとしていた。真面目で、誠実で、必死に大人らしく振る舞おうとしている。
そういうところまで、やっぱり可愛い。
私は頷き、自分が読んでいた本をまとめて抱えた。
「……せっかくだから、午後はご一緒させてもらってもよろしいでしょうか。私の夕の祭祀の時間まで」
個室の閲覧室なら、少しくらい話をしても迷惑にはならない。
せっかく空いた時間なのだから、二人で静かに本を読むのもいい。
それに、本当はもう少し、こういうカイルを見ていたかった。
いつものきちんとした姿ではない、力の抜けたカイルを。
「喜んで。何かわからないことがあったら、何でも聞いてほしい」
カイルは、私の内心など少しも知らないまま、本当に嬉しそうに微笑んだ。
仕事中の、無表情に近い静かな顔とはまるで違う。
柔らかくて、油断していて、心から零れたような笑みだった。
胸の奥が、かすかにくすぐられる。
やっぱり、こういうカイルの方がずっと素敵だと思う。
そう思いながら、私は彼の後ろを歩き、奥の閲覧室へ向かった。




