暗点
留学先の貴族学院では、できるだけ良い成績を取るようにした。
研究熱心な遊学生として評価されれば、王城内の図書館や、外部へ開かれている浅い学術施設へ入る口実が増える。教授から紹介状をもらい、見学許可を取りつけ、学徒として同行できる機会もいくつか手に入れた。
そうして、ようやく王城へ足を掛けた。
降誕祭の交代式では、普段よりさらに城の奥へ入ることができた。警備の配置や使用人の動きから、リシェリアがいる場所と、彼女が使うらしい通路にも大まかな当たりをつけた。
あとは細心の注意を払いながら、人目を避けて王城の地理を覚えていくだけだった。
そして僕が、人知れずシルヴィナス王城の中を歩き回るようになってから、ずいぶん時間が経った。
欠伸を噛み殺している門兵の前を、異能で視線を逸らしながら通り抜ける。十分に離れたところで、つい独り言が零れた。
「……この国の防備も、思っていたより甘いな」
僕のような者が、これほど簡単に中枢近くまで入り込める。
千年の安寧と豊かな資源に慣れきって、きっと油断しているのだろう。
城内の見取り図を描いて持ち帰るだけでも、国へ戻れば褒賞をもらえるかもしれない。
それどころか、機を見てあの大樹へ火をかければ、シルヴィナスなど案外簡単に制圧できるのではないか。
……そんなことまで考えてしまうくらい、この国は暢気だった。
昼と夜。行事のある日と、何もない日。人の流れが変わる刻限。
少しずつ確かめながら、身体へ覚え込ませていった。
どこへ立てば視線が集まり、どこなら意外なほど誰も見ないのか。どの廊下は足音が響き、どの壁際なら人の記憶から滑り落ちるのか。
誰にも見つからず、誰の記憶にも残らないように。
いつか彼女と会うための場所を、僕は城のあちこちへ少しずつ作っていった。
けれど、どれだけ調べても、入らないと決めた場所がいくつかある。
まずは王族居住区だ。
あそこは論外だった。そもそも僕が近づく理由もない。
出入りする者の身分も限られているし、警備は厚い。
近寄るだけで、区画を隔てる内塀から、特別な異能による結界らしき気配を感じた。
万が一見つかれば、遊学生の不始末では済まない。ネーヴェリア辺境伯の子息が他国の王宮区画へ密かに侵入していたとなれば、それだけで国際問題になる。
それに、シルヴィナスでは原則として政教が分けられている。聖女は祭祀庁に属し、宮廷と直接交わる機会は、国事や祭礼などに限られているらしい。
リシェリアを探すために負う危険としては、見返りが少なすぎた。
次は祭祀庁本部。
あそこは、シルヴィナスにおける異能の総本山だ。
一般の職員ですら、最低限の異能を備えているという。誰がどの程度の感覚を持ち、何を見抜けるのか、外から眺めただけでは分からない。
姿だけなら隠せる。
けれど、気配や霊質の揺らぎを感じ取る者もいるかもしれない。空気の歪みから異能の使用を見抜く者や、こちらの視線や意図そのものを拾い上げる者がいても、おかしくはなかった。
……僕の異能が、あそこでどこまで通用するのか。
試してみたい気持ちはある。
けれど、失敗は一度も許されない。
まだ、その時ではない。
そして最後は、リシェリアが頻繁に出入りする聖女の裏庭だった。
草木が深く繁り、城の中枢に近い場所でありながら、人目にはつきにくい。葉や枝が光を遮り、足音や衣擦れも吸い込んでくれる。
本来なら、潜むには理想的な場所だった。
最初に見つけた時は、ここが一番だと思った。
……けれど、あそこには赤い犬がいる。
セラン。
あの男の縄張りだった。
城内や兵舎での噂から、嗅覚が異常なほど鋭いことは聞いていた。
ある日の夕方、リシェリアがいない裏庭で、もう一人の庭仕事をする少年とふざけ合っている姿を見かけた。
気を抜いているように見えた。
注意を逸らすものは、多ければ多いほどいい。今のうちに番犬の顔を、もう少し近くで見ておこうと思った。
「分かった。……てくる」
「えっ! ……ても困るんですけど」
二人のやり取りは、ずいぶん盛り上がっていた。
今なら大丈夫かもしれない。
僕は、木陰へもう一歩だけ踏み込んだ。
「……?」
その瞬間だった。
木立の陰へ輪郭を溶かし、呼吸を浅くして、物音を立てないよう身体の動きまで抑えていた。視界の中では、自分でもそこに誰もいないと思えるほど薄くなっていたはずだ。
それなのに、あいつはすぐに反応した。
急に動きを止める。
絡んでいた少年から身体を離し、立ち上がる。それまでとはまるで違う目で、僕のいる辺りを見始めた。
視線の置き方が明らかに違う。
偶然じゃ、ない。
まだ、僕を見つけてはいない。誰がいるのかも分かっていない。
けれど、何かがいると気づいている。
石畳なら、足跡は残らない。
けれど庭の土は柔らかい。踏めば沈み、草は揺れ、葉へ触れれば露が落ちる。
これ以上、踏み込めない。
一歩ごとに僕がそこへ入った証拠が残り、戻って消そうとすれば、余計に痕跡が増える。
何度も同じ違和感を与えれば、こいつはいつか、この匂いを僕という個体へ結びつけるかもしれない。
そうなれば動きにくくなる。嗅ぎつけられ、追われるかもしれない。
……薄汚い獣め。
そう思った。
悔しかったけれど、諦めるしかなかった。
あの裏庭も、今はまだ近づくべき場所ではない。
本来はリシェリアのための庭なのに、あの男が自分の縄張りのように居座っている。
それでも、無理に踏み込んで警戒されれば、彼女へ近づく道そのものを失ってしまう。
彼女の私室の場所は、見つけてある。
王城で働く者なら誰でも知っている、祭祀庁区画の双子の塔。そのどちらかだ。
もちろん王族居住区に劣らない厳戒警備が敷かれているし、僕は紳士だから、姫の寝室に最初から忍び込んだりはしない。
だから僕は、別の死角を探した。
そうして見つけたのが、一般にも開かれることのある図書室や大礼拝堂、職員食堂だった。
どこも人の出入りがあり、完全には閉ざされていない。
その代わり、警戒する視線も一か所には集まらなかった。
誰かがいること自体が、不自然にならない場所だ。
図書室は特に都合がよかった。
書架が高く、通路も入り組んでいる。角を一つ曲がれば視線が途切れ、棚と棚の間には、人一人が立っていても気づかれにくい場所がいくつもあった。
本を読む者は、文字の中へ沈んでいる。
司書、研究者、学徒、外部から許可を得た客。立場の違う者が混ざり合うため、少しくらい知らない気配が増えても、誰かが移動した程度にしか思われない。
もしリシェリアが本を探しに来たなら、同じ棚の向こう側へ立てる。
彼女が取ろうとした本へ、先に手を伸ばすことだってできる。
大礼拝堂では、反対に空虚さが味方になった。
儀式のない時間帯は、広い堂内に人影がまばらに散っている。小さな足音も衣擦れも、天井の高い空間へ吸い込まれて曖昧になる。
祈っている者は、みんな目を伏せている。
隣に誰がいるのかより、自分の願いや罪の方を見ている。
そこでは、存在していても見られない。
彼女のすぐ後ろで祈っていても、きっと誰も不審には思わない。
職員食堂は、もっと俗だった。
噂話と食器の音、湯気や料理の匂いが満ちている。皆の注意は、目の前の皿か隣の者との会話へ向いていた。
毎日同じ顔ばかりではない。勤務の違いで入れ替わりも多く、少し前に誰がどこへ座っていたかなど、誰も正確には覚えていない。
僕が一つ席をずらしても、誰も気にしない。
彼女の食べるものも、好む席も、いつか知ることができる。
三つの場所に共通しているのは、開かれていることだった。
開かれているからこそ、完全には管理されていない。
特別な許可も、目立つ身分も必要ない。
ただそこにいるだけで成立する。
感知に長けた者も、赤い犬の嗅覚も、こういう雑多な場所では僕一人を絞り込みにくい。
人も匂いも多すぎるからだ。
僕はそれらの場所で、時間ごとの人の流れを確かめた。
どの刻限に書架の奥が空くのか。
大礼拝堂の祈り手が最も少なくなるのはいつか。
食堂で、誰も他人へ関心を持たなくなるほど混み合うのはどの時間か。
死角と死角が一瞬だけつながる時を覚え、不審に思われず留まれる距離を身体へ染み込ませていった。
いつか彼女が現れた時、最初から待っていたようには見えないように。
僕が彼女を探し続けていたことも、城内を歩き回り、何度も同じ場所で立ち止まっていたことも、何ひとつ悟られないように。
ただの偶然として、彼女の前へ現れる。
彼女が本を取ろうとした時。
祈りを終えて顔を上げた時。
食事を終えて、一人で席を立った時。
その瞬間に、たまたま僕がそこにいる。
彼女はきっと驚くだろう。
そして、運命みたいだと思うかもしれない。そう思ってほしい。
いや、運命にするんだ。
本当は僕が、何度も同じ場所へ通い、彼女と出会う日のためにすべてを整えていた。けれど、そんな準備をひけらかせば、せっかくの出会いが作り物に見えてしまう。
彼女には、知られなくていい。
そのために重ねた準備も嘘も、彼女が運命だと信じてくれるなら、何一つ間違いではない。
これは、もうすぐ訪れる美しい偶然のための下地なのだから。
キャラクター情報3の項目にアルノ―の情報を追記しました。




