屈折
交代式前後、最初の”赤と黒”騒動の時系列での裏側です。
降誕祭の交代式は、城内の大礼拝堂を開いて執り行われる。正式に参列できるのは王族と祭祀庁、それから特別に選ばれた者だけ。年に一度しかない、厳粛で大きな式典だ。
けれど僕にとっては、それ以上に大切な意味があった。
白銀の姫を、すぐ近くで見られる。
おそらく今の僕にとって、最初で最後かもしれない機会だった。
幸い、父はネーヴェリア辺境伯として、シルヴィナスとの外交窓口を担っている。これまでの功績と、僕が積み上げてきた「異能研究を目的とする遊学生」という立場も役に立ち、一般参列者の席を一つ手配してもらうことができた。
だから、その日に向けて準備を始めた。
聖女蒐集会の一員は、城内にも少なくない。
城勤めの平民たちは信心深く、それと同じくらい噂好きだった。純粋に聖女の教えを広めたい善良な者もいれば、城内の醜聞を何より楽しみにしている者もいる。
どちらにしても、性質さえ分かっていれば、火をつけるのは簡単だった。
赤と黒。
あの二人の噂へ、ほんの少し言葉を足せばいい。
「赤と黒、どちらが有利だと思います? 賭けてみませんか。たとえば、赤と黒の薔薇を聖女様に選んでもらうとか。好きな男の色を、つい選んでしまうかもしれませんよ」
「高貴な聖女様が、兵士なんかと親しくしているのはどうなんでしょう。あの男、町で何人も女性に恥をかかせて泣かせているそうですよ」
「あの担当官が治癒嘆願を却下したせいで、父さんは……。あんな人が聖女様の傍にいるなんて、おかしいと思いませんか」
ある者には、黒が聖女と特別に親しいらしいと持ちかける。別の者には、赤の素行が怪しいと囁く。
黒への恨みも、赤の悪評も、本当である必要はない。
それらしい理由を作り、反対側を持ち上げる。
噂好きの放蕩な令息ぶって、少し小金を握らせて、状況を教えてくれと頼めば、話はさらに広がった。誰かが尾ひれをつけ、その次の誰かがもっと面白く歪める。
噂を金に変えられると最初に教えてやれば、あとは彼らが勝手に続けてくれる。
賭けがどんどん猥雑になり、城内で問題にされるほど育てば、なお都合がいい。
市井にも流しておいた。
学生講堂で、学友と少し大きめに話した。下町の茶店で女の子たちの傍で異能で顔を隠して囁く。
城の外まで広がった噂は、簡単には消せない。何より、始まりが僕だとは誰にも分からなくなる。
もし醜聞によってリシェリアが聖女の座から降ろされるなら、それでも構わなかった。
市井へ降りてきた白銀を、僕が先に迎えればいい。
傷ついた彼女を慰め、保護し、誰にも手出しをさせない。僕が最初に見つけさえすれば、それだけで彼女の世界は変えられる。
けれど、狙いはそれだけではなかった。
城内で警備を強めさせること。
折よく、蒐集会にいる城勤めの男から、聖女の衣装を汚したという騒ぎが起こり、警備が厳戒態勢に入ったと聞いた。
男は、これでは姿を眺める楽しみも減ると嘆いていた。
僕は残念そうな顔をして聞きながら、胸の内では笑っていた。
警備が増えれば、守るべき場所が分かる。
兵の配置を見れば、どこを通るのかも見えてくる。
そして迎えた交代式の日。
式典の最中、僕は初めて白銀の姫を間近に見た。
声も、佇まいも、床に落ちる影さえ綺麗だった。
彼女が息をし、歩き、礼をする。その一つ一つを見ているだけで、胸の中の欠けていたところへ、温かなものが満ちていくようだった。
やっぱり、間違っていなかった。僕が探していたのは、この人だった。
今すぐ手を取って駆けだしたい気持ちにはなったけれど、父も同じ会場に参じている。父の前で顔を潰すわけに行かない。
ましてや彼女の晴れ舞台。僕に晴れ着で歌う姿を見せてくれたのだから最後まで見届けてあげたいと思ってしまったのも事実だった。
けれど、見惚れているだけでは駄目だ。
僕は式の間やその前後も、城内を注意深く見た。
とりわけ警備が不自然なほど厚い場所。
兵が何人も立ち、使用人さえ自由に近づけない通路。
そこはきっと、リシェリアへ繋がっている。
彼女が移動する道であり、平時の城では完全に塞ぎきれない穴でもある。
僕は一つ残らず目に焼きつけ、あとで記録へ起こした。
いずれ、彼女のもとへ行くために必要な下調べ。
降誕節の間、聖女に就任したばかりのリシェリアは、王宮内の国事に追われていた。一般の前へ姿を見せる機会は、ほとんどなかった。
僕も学生として新年休暇に入っていた。実家からの帰省の問い合わせを無視して、祝祭期間のシルヴァルドに居座り続けても余り意味もなかった。
公務を終えた父と合流して、一度帰国の途についた。
「確かに。あれは、まごうことなき白銀の子だった」
父はゆっくり頷き、母や兄にはっきりと言った。
父が認めた。つまり、もう、僕の確信だけではない。
家や国が動く理由になる。
「引き戻す手筈を考えねばなるまいな」
長兄はわずかに眉を上げたものの、静かに父の言葉を受け止めた。
次兄は面白そうに口笛を鳴らし、僕の顔を覗き込んできた。
「探せばいるもんなんだな。アルノーは先に見たんだろ、よかったな」
「ええ。すごく綺麗な子でした。早く僕も、父様みたいにお話ししてみたいです」
素直に憧れているだけの弟らしく笑って、本心を口にした。
嘘じゃない。ただ、全部は言っていないだけだ。
ここで胸の内を見せるのは危ない。これからは兄たちにさえ、白銀への憧れ程度だと思わせておく必要がある。
熱は隠さなければならない。
「珍しい獣かのように言うのはおやめなさい。クリフォード」
母様が無作法な次兄を軽くたしなめたあと、声を落として言った。
「本当に落胤だとして……。お兄様はどう動くかしら。先代の耳に入れば、どうなるか……」
一瞬、部屋の空気が冷たくなった。
母様の言いたいことは分かる。
先代が起こしたクレーデル家の醜聞。それが結果として新しい白銀を生んだと知れば、幽閉されている彼が再び何を始めるか分からない。
母様は第二夫人から生まれた嫡出の娘だが、先代が残した異母兄弟姉妹は、貴族から平民まで数え切れないほどいる。
母様自身も、実の父親である先代当主を憎み、もう父と呼ぶことすらない。
先代当主は、伯母様の双子の姉――最後の白銀の子を失ってから、おかしくなった。
新しい白銀を生ませるため、多くの女性へ手を出した。
高貴な家の娘。
家臣の妻。
使用人。
最後には、たまたま目についただけの市井の娘まで。
権力と財力を使い、拒むことを許さず、子を産ませようとしたらしい。
それでも白銀は生まれなかった。
増えたのは、普通の髪色をした庶子ばかり。
自分で増やしておきながら、白銀でないと分かれば不要だと捨てた。母子を屋敷から追い出し、暮らせなくなっても放っておいた。
すべて揉み消すこともできず、最後には訴えられて国会で断罪された。
弁論の場でも、誰もが耳を疑うようなことを平然と言い続けたという。
それでも、処刑されなかった。
クレーデル家の異能と、白銀の血への信仰。
ただそれだけのために、奥地への幽閉という温情が与えられた。
今の当主は母様の兄だ。
伯父上は、先代が残したものの後始末に追われた。捨てられた庶子や母親たちへ補償を行い、異能を持つ者を家へ戻し、失われた名誉を少しでも取り返そうとしている。
もう白銀だけを追い求める家ではないと示そうとしてきた。
そんな伯父上が、今になって新しい白銀を迎え入れようとするだろうか。
むしろ率先して国に保護を願い出るだろう。
所領のどこかに先代当主を幽閉しているのも伯父上だ。
もしどこからかその話が先代当主へ知られれば、リシェリアを手に入れようと画策するかもしれない。
白銀の姫を、自分の血統を作り直すためだけに使いかねないと懸念するだろう。
父は静かに締めくくった。
「どう動かすにせよ、水面下で穏便に進める。……かの国は今年、千年祭を迎える。誰もが注視している時に、ことを荒立てるのは得策ではない」
僕は静かに頷いた。
穏便に。父の言う通りだ。
騒ぎになれば、余計な人間まで彼女へ手を伸ばす。ならば誰にも気づかれないまま、赤も、黒も、メイスン家も、祭祀庁も、彼女を囲うものを一つずつ退かせ、最後に僕だけが残ればいい。
僕が彼女へ惹かれた理由は単純だ。
白銀だけは、理屈より先に愛さずにはいられない色だった。
僕も白銀に近い髪を持って生まれたが、本物ではない。褒められ、珍しがられ、欲しがられても、同じ色を持つ者は一人もいなかった。だから本物の白銀なら、特別であることの孤独も、見られながら誰にも理解されない空しさも、僕と分かち合えると思っていた。
髪だけを見た身勝手な思い込みだということは分かっている。
けれど、彼女を見た瞬間、胸は答えを出してしまった。
この人だ。
ようやく見つけたのだ、と。
彼女が僕を知らず、まだ愛していないことなど、ただ順序が違うだけだ。出会い、共に暮らせば、価値観も習慣も少しずつ馴染んでいく。彼女の好きなものを覚え、嫌うものを遠ざけ、僕の傍で生きやすい形へ整えていけばいい。
本来なら、彼女はもっと早く僕の隣にいるべきだった。
知らない土地で苦しみ、見知らぬ者に守られ、赤や黒へ心を向ける余地まで与えられたことの方が間違っている。僕が迎えに行き、あるべき場所へ戻してあげなければならない。
それに、僕は白銀という色だけを愛したわけではない。
伯母様の部屋にあった肖像画と、繰り返し聞かされた双子の姉の思い出の中で、僕はずっと前から彼女を知っていた。
勝気で、自由で、自然を好み、城を抜け出しては石や花を拾って帰ってくる人。そんな話を聞くたび、僕も同じ景色を見て、隣で同じ時間を過ごしたかったと思った。
僕があの時代に生まれていたなら、彼女を守れたかもしれない。閉じ込められる前に手を取り、死なせずに済んだかもしれない。
けれど、間に合わなかった。
リシェリアが伯母様の姉とは別人であることくらい分かっている。顔も声も、歩んだ人生も違う。
それでも、白銀の髪も、自然を愛する気質も、自由な魂も、あまりによく似ていた。
同じ魂が、今度こそ僕と出会える時代へ戻ってきたのだと考えれば、すべてが繋がる。幼い頃から恋をしていた白銀の姫が、リシェリアという名と身体を得て、僕の前へ現れたのだ。
彼女が覚えていなくても構わない。
二人分、僕が覚えている。
もう子供のように野原を駆け回ることはできない。その代わり、花畑へ連れて行こう。鉱石を見せ、珍しい鳥を贈り、二人だけの思い出を増やしていけばいい。
古い記憶が霞むほど、たくさん。
赤い男と過ごした日々も、黒い男から教わったことも、必要なくなるくらいに。
急いではいけない。
初めから閉じ込めれば、彼女は驚いてしまう。だから、自分から外を手放したくなるようにすればいい。
僕の傍が最も安全で、僕の声が最も心地よく、僕の腕の中でしか眠れないと思えるまで、優しく満たしてあげる。
扉に鍵を掛ける必要はない。
外へ出たいと思わなければ、それは閉じ込めたことにはならないのだから。
目にする花も、耳に届く声も、手に触れるものも、すべて僕が選ぶ。僕を愛することが呼吸と同じほど自然になり、僕なしでは何を選べばよいか分からなくなるまで、彼女の世界を僕で満たしていく。
誰にも触れさせない。
白銀の髪の一本も、涙の一滴も、笑う時に細くなる目元も、すべて僕だけが知っていればいい。
最初は嫌がっても、いつか分かってくれる。
僕ほど長く彼女を待ち、深く愛せる者はいない。
だから最後には、必ず僕を選ぶ。
逃げれば連れ戻す。忘れれば思い出させる。嫌われても、その憎しみが尽きるまで愛し続ける。
彼女の中から僕以外のすべてが薄れ、僕の界だけで幸せになれるまで。
大切に閉じ込めて、一生、愛する。




