金色の獅子のやり直し
オルシナから戻り、日常の喧騒へ再び埋もれ始めた頃だった。
任務の報告書が積み上がり、騎士団も祭祀庁も、ようやく通常の運営へ戻りつつある。そんな折、執務の合間に「依頼していた品が届いた」と、グラントの執務室へ呼び出された。
宝飾店への正式な発注は、オルシナ滞在中に済ませてある。メイスン家――いや、親王家としての依頼は最優先で扱われる。品はすでに届けられ、装飾品の点検も終えていた。
だから、追加で届く品に心当たりはなかった――はずだった。
ただ、一つだけ思い出した。カイルが騎士団本部へ送付すると言っていた品。それが届いたのかもしれない。
軽くノックして入ると、執務机の向こうからグラントがこちらを見た。
昼の陽光に照らされた金茶の瞳には、仕事の最中というより、どこか私を待ち構えていたような揺らぎがある。
「これを」
机の上に置かれたのは、二つの包みだった。布越しに触れただけでも、中身の質量と硬さが違うと分かる。
「一つはカイルの手配したものらしい。セラン宛てだ。本人を呼んで受け取らせてくれ」
淡々と告げたあと、グラントはわずかに間を置いた。
「もう一つは、私から君へ」
視線を一切逸らさず、当然のことのように言う。
贈答の儀礼を通り越し、個人として差し出すような温度だった。
「……あ、そう」
一瞬だけ、胸の内側が揺れた。
けれど、それを表へ出すわけにはいかない。私は公女であり、副総長だ。贈与は政治であり、贈られた品も、贈られたという事実そのものも、いくらでも弱みに変わる。
それを平然と行うのは、相手へ丸腰を見せるのと同じだ。
だからこそ、こちらも同じ強度で受け取るべきなのだろう。
包みを開くと、飾り気のない箱に収められた細工が目に入った。
先日依頼した装身具と対になるような、細い鎖の足飾り――アンクレット。繊細な黒金細工の間で、微細な黒曜の宝石が月明かりのように瞬いている。
私の好みに合わせてある。
その気遣いだけで、意図は十分に透けて見えた。
「ええ、いいわね。当日、併せてつけさせてもらう」
礼儀正しく、表情は崩さず、笑みの形だけで礼を述べる。
それで十分なはずだった。
「……それだけ?」
思いがけない一言だった。
本気で、心底がっかりしたような声音に、思わず眉を寄せる。
「素敵な装身具をありがとう。気に入ったけど?」
箱を机へ置き、腕を組む。
グラントは目に見えて落胆したように息をつくと、椅子から立ち上がった。そして迷いなく距離を詰めてくる。
揺れる黄金の髪が、私の頬へ影を落とした。
「雲の向こうでも、陽光の下でも、輝きを隠せない満月のような君を――沈んでしまわぬよう、どうかこの鎖で私の傍へ繋がせてくれ」
そう告げると、グラントは私の手を勝手に取り、こちらを見つめたまま甲へ唇を落とした。
昼の執務室で聞いてよい台詞ではない。
詩的で、少し芝居がかっている。けれど、これまでこの調子で女性を口説いてきたのだろうと考えると、笑いが込み上げ、必死に噛み殺した。
「慈悲を賜りたい」
「……」
金色の獅子の瞳が、こちらの反応を探るように細められている。
正直なところ、こういう浪漫的な場面は避けてきた。避ける以前に、自分がその中心へ立つことなどなかった。
さて、どう返してやろうか。
そう逡巡した隙に、グラントの指が顎へ触れた。
避けようと思えば避けられた。それでも、私は動かなかった。
唇が、ほんの少しだけ触れて離れる。
囁きのような口づけだった。
「まだ許可していない。不敬でしょ」
無表情のまま告げる。
公女への無断の接触は、相手がグラントであっても、言葉にして咎める必要がある。
「……殿下にしたわけではない」
グラントは、何かを堪えるような表情になった。
「そちらも殿下宛てではなくて、分かっているだろう」
不器用な言い回しだった。
本音を言葉にする術を知らない男の、ぎこちない告白。
「うん。……まあ」
言いたいことは理解している。
だから、行為そのものを糾弾したわけではない。ただ、それだけで絆されるつもりもなかった。
「これも、口説き文句も綺麗だけど……私に足枷はつけられない」
箱の蓋を指先でなぞる。
「もう分かっていると思うけど」
「先ほどのは言葉の綾だ。本当にそうするわけではない。これは……ただ、似合うだろうと思ったんだ。君が走る時に」
グラントはそう言い、私の手へ静かに自分の手を重ねた。
「初心に返って、定石から進めることにした」
なるほど、と喉の奥で思う。
背筋を伸ばし、その瞳を正面から見返した。
「それなら、口づけしてくるのは早くないかしら?」
「……聖女殿の任期には限りがあるからな。好機の女神は拙速を尊ぶ」
「調子のいいこと。まあ、品に免じて許してあげる。そのうち、つけて見せてあげるわ」
公女として静かに立つ姿ではなく、走る姿を想定したというのなら。
それは、彼が私を飾るための置物ではなく、動き続ける一人の人間として見ているということだ。
だったら、見せてやってもいい。
「こういうことをするということは、まだ勝負から降りないんだ?」
言葉にしてしまえば、他愛のない挑発にすぎない。
けれど、私とグラントの間に横たわるものは、もはや軽口の応酬だけでは済まなくなっていた。
赤と黒の賭け。
もとはリシェリアの恋を巡る火種だったはずなのに、いつの間にか形を変え、その主題はグラントと私自身へ移りつつある。
賭けられているのは彼女ではない。
互いの自尊心。
そして、これから先の人生の在り方までもが、暗黙のうちに賭けへ含まれていた。
前回は、圧倒的な優位で私が打ち払った。
グラントはその敗北を、当然の帰結のように受け止めながらも、決して退かなかった。だからこそ、今日の贈り物がある。
「ああ。私の勝ちは見えている。賭け代のことは、勝ってからゆっくり請求すればいいからな」
傲慢に吐き捨てるような声音だった。
その自信は、虚勢ではない分だけ質が悪い。
勝った後で、私に何でも言わせればいい。
そう判断しているのが、言葉の裏へ透けて見える。
「そうね。負けるつもりはないけれど、泣きながら飲み明かすために、最高級の酒でも準備しておくわ」
皮肉を返すのも、もはや儀礼だった。
書面へ記した賭約でもない。ただ、互いに言質を取られないようにしながら、曖昧な一線の上で遊んでいるだけだ。
それなのに、その曖昧さへ甘えることなく、私はつい本題を突いてしまう。
「それにしても……奇特よね。というか、面の皮が厚くて驚く。私が次官として、今までどれだけあなたの色恋沙汰を処理してきたか、忘れた?」
言葉を投げた瞬間、何年分もの記憶が鮮明に蘇った。
副総長になる前は近衛隊で、それ以前の頃から、私は彼の後始末へいいように使われてきた。
高位貴族で、高官で――そして、女だから。
私の肩書と立場なら、どんな愁嘆場へ入っていっても、余計な憶測を呼びにくい。相手が高位の令嬢でも、貧しい女でも、軍の男を差し向けるよりは穏便に話を聞ける。
だからといって、何も知らされていない私へ、問題が起きてから処理を押しつけてよい理由にはならない。
外交の席でも軍の交渉でも、譲歩を引き出すために淡い色仕掛けを使うことは、グラントにとって珍しくなかった。公務に付随する案件だけなら、まだ理解できる。
社交界で出会った一夜の女から、軍部へ手紙が届くことなどざらだった。待ち伏せへ遭遇し、執務へ向かう途中の私が巻き込まれたことも、一度や二度ではない。
男ばかりの遠征で部下を連れて娼館へ行き、提出された帳簿に胡乱な経費が紛れていたこともある。酒場で意気投合したという女と、そのまま夜の街へ消えたこともあった。
緊急の呼び出しで所在がつかず、仕方なく踏み込んだ先で、女を抱いていたらしきグラントと鉢合わせた時には、地面へ小手を叩きつけた。
……もっとも、その時は悪事の裏取りのために潜入し、相手の思惑へ乗ることで、関係者を引きずり出そうとしていたらしい。
事情を知れば、行為そのものを責めることはできない。
だからこそ、腹が立った。
最初から必要な情報を渡していれば、私だって相応の準備と協力ができた。何も知らせず、現場で私に判断させ、後から事情を明かす。その手順を、私は何度も押しつけられてきた。
中には、グラントが何をしたわけでもなく、一方的に惚れ抜かれ、執着されていただけのこともある。
列挙すれば、きりがない。
すべてを糾弾することもできなければ、すべてを看過することもできなかった。
「そんな私が、あんな口説き文句で心を動かすと?」
皮肉を込めた一撃を与えると、グラントは冷水を浴びせられたように視線を逸らした。
「その点について、言い繕う言葉はない」
気まずさを隠す余裕もない。
本気で忘れていたのか。それとも、都合よく目を逸らしていたのか。
「あなたが今まで選んできた女たちの中に、私と似た者なんていないでしょう」
美しく着飾った女たち。
たおやかで、優しく、光の中で揺れる花のような女たち。
誰一人として、私と似た性質を持つ者はいない。身体の特徴も、雰囲気も、価値観も。
そんな中で、今さら私を得ようとするのなら、それは私自身ではなく、どこよりも高みに咲く花であるという一点しかない。
容易には手に入らないという価値へ惹かれているだけではないのか。
「今までの嗜好も何もかも度外視して、私を選びたいというのなら――目当ては王家の血じゃないの」
イェルス家へ王家の血を入れたい。
彼の家門の立場や、先祖代々の思惑、周囲から寄せられる期待。沈黙を貫いてきた家門が、とうとう王政へ深く進出したくなったのだと考えても、不自然ではない。
それらの影がちらつくのは、私が過剰に疑っているからではない。
むしろ、当然の警戒だった。
「違う。そんなことではない」
むきになった返答だった。
反射的で、どこか子供じみていて、少なくとも嘘をついている声音ではない。
「じゃあ、今までの放蕩こそが嘘だったの? 仕事ができるのに、女には弱い。そういうところだけは人並みだと、下の者たちへ親近感を湧かせるための演出だったのかしら?」
グラントは口を閉ざした。
痛いところを突かれたというだけではない。何かを言いかけ、その言葉を自分で封じたようにも見えた。
否定しない。言い訳もしない。
ただ、私へ渡せない事情の向こう側へ、また一人で退いていく。
そうやって、いつも自分だけで抱え込む。
私に話したところで何もできないと、初めから決めつけているかのように。
「仕事だったからといって、何をしても帳消しになるわけではないでしょう」
言葉を重ねながら、ふと、リシェリアを傷つけたセランへ下した裁きを思い出した。
あれと、成人同士が承知の上で結んだ関係は同じではない。
けれど、聖女を傷つけた時だけ政治的な大罪となり、名もない民の心なら踏みにじっても構わないという理屈も、私は認めたくなかった。
力のある側が相手の弱さを利用したのなら、その責任は立場にかかわらず残る。
「相手の立場や感情を利用したなら、その後まで始末をつけるのもあなたの責任よ。彼女たちだって、あなたが守るべき民でしょう」
「そうだな。その点については反論しない」
グラントは声を低くし、わずかにうなだれた。
その姿を見て、ようやく追及の手を緩める。
「まあ、いいわ。少し大きく言いすぎた。成人した者同士が合意の上で関係を持ったのなら、私がとやかく言うことではないもの」
半目になり、ため息交じりに告げながら、問い詰めすぎたことを少しだけ反省する。
恋愛は、当人同士の合意によって成立する。
第三者――ましてや副総長である私に、私生活まで裁く権利はない。
だからこそ、最後に軽く肩へ手を置いてやった。
「それじゃ、次の手札も楽しみにしているわ。頑張ってね」
「……」
少し苛めすぎたのかもしれない。
恨みがましくこちらを見上げるグラントの肩は、いつもよりわずかに小さく見えた。
「あはは。これは嫌味じゃないよ」
苦笑を含んだ声は、どうしようもない親友へ向けるものだった。
グラントと気まずくなるつもりは、最初からない。
あの男はああいう性質で、私は私で、必要な応酬をしただけだ。むしろ、気まずさを抱えたままでは仕事にならない。
切り替えの早さこそ、私が自分で誇れる資質の一つだ。
用件は終わったと判断し、私はそのまま執務室を出た。
扉が閉まる瞬間に訪れた静けさが、ようやく自分の空気へ戻った合図のように感じられた。
廊下を歩きながら、思考は自然と次の作業へ滑っていく。
セラン宛ての包みには、王都でも名の知れた宝飾店の封蝋が押されていた。貴金属類を扱う品である以上、誰彼に運ばせるわけにはいかない。
近くにいた下士官へ声をかける。
「セランに、私の執務室へ出頭するよう伝えて」
すぐに返事があり、下士官は軽く敬礼すると足早に去っていった。
セラン本人に受け取らせるほかない。雑に扱ってよい品ではないし、紛失でもすれば騒ぎになる。
だが、問題はそこではなかった。
何を頼んだのかは知らない。
それでも、イェルス家の従士になったとはいえ、セラン個人の俸給で到底手が出せる額ではないだろう。
セランには、最初の登城時に聖女付きとしての支度金が与えられている。住み込みの兵だった頃は生活費を国が負担し、細かな雑費については、後見人である私が処理してきた。
イェルス家付きになってからは、必要経費の多くをそちらが賄っている。遠征の報奨金で多少の蓄えもできただろうが、それでも、名のある宝飾店へ正式に品を依頼するとなれば話は別だ。
手が出せるとは思えない。
となれば、考えられるのは一人だった。
注文を代行したと言っていたカイルだ。
最近の二人は、気味が悪いほど仲がよい。
あれはもう恋敵というより、戦友、あるいは奇妙な同盟者のようですらある。
だが、同じ女を想う相手へ金を貸すだろうか。
しかも、現状ではセランの方が圧倒的に優位に立っている。
カイルが勝てるとしたら、知識や社会性、生活の設計、安定した未来――セランだけでは与えにくい部分のはずだった。
それを、みすみすセランへ譲り渡すような真似をするだろうか。
諦めたのか。別の武器を見つけたのか。
あるいは、勝敗の基準そのものが、すでに変わり始めているのかもしれない。
赤と黒。
本当の賭けの行方は、きっと私たち三人が考えているより複雑で、思っているよりもずっと深く絡み合っている。
そして、まだ一筋縄ではいかない。




