白銀
本編開始直後の時系列になります。
冷たく輝く銀色の髪は、我が国ネーヴェリアのある一族に由来する、特別な色だ。
他国には長く存在を秘され、その家について正しく知る者は限られてきた。雪に閉ざされる季節の長い我が国が、幾世代にもわたって繁栄を保ってこられた理由のひとつに、彼らの強い異能があったことは疑いようがない。
その髪を持つクレーデル家は、我が国が崇める聖岩に仕える神官や祭祀官を輩出し、岩神の信託によって鉱脈を探り当ててきた。雪と岩の国へ莫大な富をもたらした、まさしく神に選ばれた一族だ。髪は聖岩の鉱粉を思わせる銀灰色で、霜夜の月光のような冷たさと、磨かれた鋼にも似た硬質な輝きを持っていた。
けれど、そのクレーデル家の中でも、さらに特別な者がいた。
ごく稀に生まれる白銀の子は格別だった。雪そのものの純白と、霜柱のきらめきをまとい、髪は光を受けるたび細氷のように瞬く。顔立ちも例外なく整い、生まれた時からその代を象徴する宝として扱われた。
白銀の子が生まれれば、国中の名家から縁談が押し寄せる。
女児なら高い持参金と引き換えに有力家門へ嫁ぎ、男児なら幾人もの妻を娶らせ、少しでも多く白銀の血を残そうとした。
そうして縁は国中へ広がり、クレーデルの血は数多の家門に入り込んだ。彼らは神官家という本来の立場を越え、王国全体へ姻族としての影響力を伸ばしていった。
けれど、繁栄はやがて澱んだ。血統に甘えた者たちは祈りより政治と贅沢へ傾き、授かった力を私欲のために使うようになった。数代を経るうちに異能も衰え、聖岩と語らう者は減っていった。
今では没落寸前の旧家だ。かつての権勢も強い異能も失い、残されたのは美しい容姿の家門という名声ばかり。クレーデル本家では、白銀の子も数十年生まれていなかった。
白銀の血自体が途絶えたわけではない。王家の第三王女や、遠くクレーデルの血を引く家に白銀が生まれたという噂はあった。しかし、肖像画に描かれたような輝く美しい白銀の髪を、僕は一度も目にしたことがなかった
かつて国中へ披露された白銀は、今では隔離され、噂の中にしか現れなくなっていた。
そんなに美しいものを、なぜ誰にも見せず閉じ込めるのだろう。そのことが、僕にはひどく惜しかった。
それでも、まだ完全なおとぎ話として片づけるには早かった。
絵物語や古い肖像画に残る白銀の姫君たちは、どれも息を呑むほど美しかった。初めてその姿を目にした時、幼かった僕の胸には熱いものが走り、どうしても目を逸らすことができなかった。
「この方……とっても可愛い人だね」
幼い頃、伯母様の部屋に飾られていた家族の肖像画を見上げながら、僕はそう口にした。
絵の中央には、雪の結晶を束ねたような髪を持つ少女がいた。澄んだ眼差しがこちらを見返しているようで、目を離すことができなかった。
伯母様はかすかに微笑んだものの、すぐに目を伏せた。
「そうでしょう。皆、そう言ったわ。その方は私の双子のお姉様。ほら、隣にいるのが私よ。お姉様は、クレーデル家で最後の白銀の子だったの。……今のアルノーと同じくらいの頃に、亡くなったわ」
最後の言葉だけが、ひどく頼りなく震えた。
「少しだけよ」
伯母様は鍵の掛かった引き出しから、お姉様が遺したという一房の髪を取り出した。
掌の上で光を集める白銀は、肖像画の美しさが幻想ではなかったことを証明していた。
息を呑んだ。
おじい様も白銀だったが、老いによって艶を失ったその髪は、肖像画の中の雪のような白銀とはまるで違って見えた。
どうして死んでしまったのだろう。
……勿体ない。今の僕と同じほどの年なら、まだ何も終わる頃ではないはずなのに。
それ以上は尋ねられなかった。伯母様の横顔が急に遠く見え、僕まで胸の奥が詰まった。
――最後の白銀。
その言葉だけが、幼い胸へ静かに沈んでいった。もう、この人には会えない。
肖像画の中でしか見ることのできない、美しい人。
それから僕は、伯母様の部屋を訪れるたびにその絵を眺めた。本を読んでいても、ふとした瞬間に白銀の姫を思い出した。
生きていたなら、どんな声で笑い、髪はどんな光を返したのだろう。一度でいいから、絵ではなく自分の目で見て、雪のような髪に触れてみたかった。
そんなことばかり考えていた。
けれど、現実にはもういない。
その後も、大人たちの会話に白銀という言葉が出れば、僕は耳を澄ませた。けれど聞こえてくるのは、隔離されている、表には出せない、人目につかぬよう育てられているという話ばかりだった。
白銀は今もどこかに生まれている。それなのに僕が求める白銀は、肖像画か噂の中にしかいない。きっと一部の者が囲い込み、血や政治のために利用しているのだと、確かな根拠もなく信じるようになった。
存在するのに会えない。
その事実は、完全に途絶えたという話よりも、かえって僕を飢えさせた。
絵の中の白銀の姫こそ、僕の初恋だった。
若く美しい白銀の女性へこれほど心を引かれたのは、僕自身も白銀に近い髪を持って生まれたからだ。
クレーデル譲りの銀灰色に、生まれつき色素の抜けた白い髪が混じっている。艶に乏しく乾いた色ではあるけれど本物を知らない社交界の者には十分な白銀として映ったらしい。
容姿にも異能にも恵まれた僕は、第三子でありながらアドラー家の後継候補ともみられ、おじい様からはクレーデル家への婿入りを求められていた。
僕こそが美しい妻を迎え、白銀の子をもうけ、クレーデル家の栄光を立て直す。幼い頃からそう言い聞かされ、僕自身も当然の未来として受け入れていた。
誰よりも美しい妻を迎え、白銀の子供を持ち、アドラー家かクレーデル家を継ぐ。僕なら、きっとそのどれも上手にできる。
だって、皆がそう言うのだから、間違いがあるはずはない。
そしていつか、絵や噂の中にしかいなかった白銀を、この手で現実へ取り戻す。そうすれば、幼い頃から胸に残り続けた空白も、ようやく埋まるのだと思っていた。
だから、隣国に銀髪の聖女が現れたと知った時、胸が震えた。
肖像画と噂の中にしかいなかった白銀が、初めて手の届く現実へ現れたのだ。
僕のために神が用意した、雪の祝福をまとう花嫁。
迎えに行かなくてはならないと、少しも疑わなかった。
シルヴィナスの次代の聖女候補に銀髪の少女がいる――そう聞いたのは、ある春の日の食卓だった。
「父上。次の大樹の巫女の候補者に、銀髪の娘がいるそうです」
シルヴィナスとの国境を治める父、ランバルト・アドラー。その食卓で、何気ない報告のように話題を出したのは長兄だった。
父は遠くクレーデルの血を引き、母様は先代当主の実娘だ。僕たち兄弟は白銀の再来を期待されて生まれていた。
銀器が手から滑りかけ、どうにか指先で受け止めた。
銀髪。
……その髪は、白く輝く銀なのか。
続きを急かす声を押し込み、僕は父と長兄の会話へ耳を澄ませた。
「何だと? 巫女……聖女か。」
父は深い皺の刻まれた眉を上げ、声を低めた。
「忍ばせていた者からの報告です。かなり、白いという事です。……一族の末裔でしょうか」
「聖女となるなら、異能は確実にあるということか。……先代は相当に思い詰めていたと聞く。どこかに産ませた落胤かもしれぬな」
先代クレーデル当主。晩年には見境なく女へ手を出し、白銀の子を求めたという醜聞の残る人物だ。
それが母方のおじい様だと、僕は知っている。
僕にはいつも優しく、髪を撫でながら「お前こそクレーデルを蘇らせる子だ」と言ってくれた。だから、父たちが語る醜聞の人物と、僕の知るおじい様が同一人物だとは、どうしても実感できなかった。
その失態を恥じ、現当主は家門を閉じ、慎ましく暮らしているはずだった。
それでも、落胤の存在までは否定できない。
「いかがなさいますか。我が国の稀血であるなら、他国に吸い上げられるのは許し難い。上へ報告し、必要ならば国へ引き戻すべきかと」
長兄の進言に、僕は胸の内で強く頷いていた。
そうだ。すぐに連れ戻してあげた方がいい。
知らない国で、たった一人で聖女にされるなんて、きっと困っているはずだ。
けれど、父の判断は違った。
「まだ白銀と決まったわけではない。かの国の降誕祭には招かれている。そこで目にし、直に判断する」
「そんな」
気づけば、声が漏れていた。
食卓の空気が一瞬で凍りつき、皆が僕に振り向く。僕自身も息を呑んだ。
そんなに待っていたら遅い。
大樹の聖女候補なら、きっと年頃の娘だ。正式にお披露目される頃には、多くの王侯貴族が彼女を目にする。その中の誰かに見初められ、奪われてしまうかもしれない。
僕の花嫁となるべき白銀が、他人の手へ渡る。
それを想像しただけで、吐き気に近いものがこみ上げる。
我が国の王侯貴族でさえ、手をあげるかもしれない。
「アルノー。まーた、お前の白銀狂いが始まった」
歳の近い次兄のクリフが横から軽口を挟んだ。
僕は彼を睨みつけた。自分が場を乱したことは分かっていたが、それでも黙ってはいられなかった。
「……別にいいでしょう。白銀の異能がネーヴェリアの宝であることは事実です。一刻も早く、救いに行くべきではありませんか」
「救いに行くぅ?」
「やめよ、クリフフォード。アルノルト。子供が口を出すな」
長兄が制止し、次兄は呆れたように肩をすくめて黙る。
そして父は話を打ち切った。
「成人前の子供に聞かせる話ではない。ラルフリート。続きは別室で聞く」
子供。
そう言われることが、ひどく腹立たしかった。
僕だってクレーデルの血を引いている。白銀に近い髪を持ち、異能だってある。それに、いずれはクレーデル家を立て直すのだと、皆から期待されている。
それなのに、どうして僕だけが話から外されなくてはならないのだろう。
父は淡々と席を立ち、長兄だけを伴って部屋を出ていった。
残された僕は、胸のざわめきを抑えられないまま、食事へ戻るしかなかった。
どうせ後で兄から聞き出せる。
父が去ったあとの食卓は、秩序を崩した。食事へ戻ったふりをしていたが、先ほどの話題を意識していることは明らかだった。銀の器が触れ合う小さな音まで、妙に落ち着きを欠いて聞こえた。
僕は一刻も早く、その銀髪の少女について知りたくて黙々と進めた。
「諦めろよ、アルノー。たとえ本当に白銀でも、王家か公爵家が持っていく。うちに回ってくるわけがない」
次兄が、匙を動かしながら現実を突きつけてきた。
正論だ。
けれど、そんなことを言われて、はいそうですかと諦められるはずがない。
「分かってる。だから……早く助けに行かなきゃ駄目なんだ」
父の慎重なやり方では遅い。公に姿を現せば、僕より先に誰かが手を伸ばす。
嫌だった。
白銀はいつも、肖像画の中、噂の向こう、閉ざされた屋敷の奥にいた。今度こそ、同じように失いたくなかった。
「お前も、白銀だけじゃなくて他へ目を向けろよ。せっかく自分も悪くない色に生まれて、縁談だって山ほど来てるしさ」
次兄は哀れむように僕を見た。その視線が髪へ落ちた時、僅かな妬みが混じった。
「羨ましいよなあ。好きなだけ並べられるんだから。数で我慢しろよ」
領地を継ぐ見込みも、有力な婿入りの話もない兄にとって、弟の僕がクレーデルの色を濃く受け継ぎ、後継候補として扱われることは、昔から棘だった。
だから、そんなことを言って、僕にも何かを諦めさせたいのだけのくせに。
「僕は何人もの夫人を抱えるような暮らしはしない。その人だけがいればいい。純度の高い、愛のある結婚をする」
政治や血統のために幾人もの女を抱えるのではなく、絵の中の姫のような、汚れのないただ一人と求め合いたい。
銀髪の聖女も、きっと同じことを望んでいる。白銀に近い僕だけが、周囲に将来を決められる彼女を、一人の女の子として愛してあげられる。
「愛、ね。そんなことがしたいなら、家を出て、自分で相手を見つけてから言え」
次兄は不快そうに吐き捨て、杯の水を一息に飲み干して食堂を出て行った。
けれど、その言葉だけが、僕の胸の内に妙な光を残した。
――家を出て、自分で相手を見つける。
名案じゃないか。
幸い、我が家の領はシルヴィナスと国境を接している。入国することは容易ではないけれど決して不可能じゃない。
僕自身が行けばいい。
父の許しも、兄たちの判断も待たず、誰より早く本物か確かめる。
長く、絵の中にしかいなかった白銀が、今度こそ現実にいるかもしれない。
白銀に近い僕なら、彼女の孤独を理解し、知らない国から救い出せる。
迎えに行こう。
神が僕へ与えた、白銀の花嫁を。




