境目
秋の気配が近づいているとはいえ、空気にはまだ夏の湿り気が残っていた。陽射しそのものは盛夏より幾分弱まっているのに、石壁と地面に籠もった熱が抜けきらず、風が吹いても肌を撫でるのは生温い空気ばかりだった。
僕は僕の任務で数日来れない予定になっており、その間の仕事をセランさんへ引き継いでいた。
庭の管理に必要な記録、聖女付きの者へ共有しておくべき予定、留守中に補充してほしい資材。渡すべき資料は一通りまとめ、最後に、資材室で必要になる引換証を手渡したところだった。
日陰へ入っているにもかかわらず、首筋にはじっとりと汗が滲んでいる。僕は手のひらでそこを拭い、紙の束を受け取るセランさんの横顔を見た。
聞くなら、今しかない。
ずっと気になっていたことだった。
「そういえば、イェルス家付きの従士に配属されるって……。すごいことですけど、大丈夫なんですか?」
セランさんは書類の束から顔を上げた。
僕はもともと、アスティ様――メイスン家の公女殿下に仕える小姓として育ててもらった身だ。拾われた経緯も、その後に受けた教育も、今の立場も、すべてメイスン家へ繋がっている。
これから正式に従士になったとしても、そのままメイスン家へ仕えるものだと考えていたし、周囲もそう思っているはずだった。
だからこそ、同じようにメイスン家の庇護を受けてきたセランさんが、別の家へ仕える道を選んだことは意外だった。
「もともとメイスン家に庇護された身なのに。問題ないんです?」
僕の問いに、セランさんは少しだけ目を細め、曖昧に息を吐いた。
「ああ。まあな。打診をもらった時は、俺も仁義としてどうかと思ったけど。そこにアスティ本人もいて、別に構わないって言うから」
アスティ様のことを、名前だけで呼ぶ。
僕には到底できないことだった。
幼い頃から近くに仕えてきたとはいえ、公女殿下は公女殿下だ。聞いているだけでも、背中の辺りが僅かに落ち着かなくなる。
けれど、セランさんにとってのアスティ様は、ただ庇護を与えた主家の姫ではないのだろう。上官であり、姉のような存在でもあり、ときには本気で殴り合えるほど近い相手でもある。
そういう距離にいることを許されてきた人なのだ。
そして、たぶん――リシェリアさんの傍へいるためには、それが一番都合のいい選択だった。
リシェリアさんは今、グラント様の婚約者という立場にある。その傍へ公然と仕え続けたいなら、イェルス家付きになる方が動きやすい。
そこまで考えれば、セランさんが選ぶ理由は分かった。
それでも、少しだけ胸の奥に隙間ができたような心地がした。
「そっか。残念ですね。もう同じ陣営じゃないなんて」
思ったままを口にした。
……嫌味じゃない。
僕はセランさんのことを、かなり尊敬している。兵士としても、人間としてもだ。恋愛に関する振る舞いだけは、評価を保留したいところが幾つかあるけれど、それを差し引いても、目標にできる人ではあった。
これからは帰る兵舎も違う。任務の組み合わせも変わり、以前ほど同じ場所で働くことはなくなるだろう。
庭へ来れば会えるし、聖女付きの仕事がある以上、完全に顔を合わせなくなるわけでもない。それでも、これまでのように同じ側の人間として、当然のように隣へ立つことは減る。
そのことを、僕は素直に惜しいと思った。
セランさんは少しだけ照れたように鼻の下を擦った。
「いや、グラント様もアスティも、今後メイスン家に出入りするのは自由だってさ。結局、俺はリシェの縁者って扱いだからな。……まあ、ちょっと気兼ねはするけど」
笑ってはいた。
けれど、その声の奥には、僕が感じたものと似た寂しさが僅かに混じっている気がした。
メイスン家は、セランさんにとっても長く身を置いた場所だ。初めから自分の家だったわけではないからこそ、離れる時には余計に気を遣うのかもしれない。
「意外だったけど、ありがとな。ジェスがそんなに惜しむほど、俺を慕ってくれてたとは」
セランさんは調子を取り戻したように口元を上げた。
「まあ、別に庭でも詰め所でも普通に絡んできていいからな。対立派閥で争ってるわけでもなし」
妙に兄貴風を吹かせた言い方だった。
さっきまで少し寂しそうだったくせに、こちらが惜しんでいると分かると、すぐに得意げになる。
なんだろう。
この微妙な気まずさは。
僕ばかりが名残惜しがっているように扱われるのは、どうにも釈然としなかった。
だから、釘を刺す意味も込めて、軽く返した。
「いや、同じ陣営じゃないなら……カイルさんとセランさんのことは、今後は公平に扱いますね」
セランさんの顔が、即座にこちらへ向いた。
「はあ? ……別に今まで、何かしてくれてたわけじゃなかっただろ」
反応があまりに早い。
「一応、リシェリアさんとセランさんがくっつけばいいよねとは、薄々応援してましたよ」
「薄すぎだろ」
間髪を入れず返される。
けれど、その口元は笑っていた。
「遠征とかで不在の間に、セランさんの活躍をお伝えしておいたりしました」
「それは助かったけど、余計なことも言ってただろうが」
まあ。うん。何回かは……失言もした。
女の子にも人気があるとか、差し入れが届いてるとか、そのまま伝えてしまったこともあった。それは別に、悪い評判というわけじゃないし。
もちろん巷で流れていた女の子を泣かせたみたいな話は、別に言ってない。
そもそも長く音信不通になっていたセランさんにも、相応の落ち度はある。こちらだけが責められるのは、納得できない。
「基本的には、リシェリアさんへの受け答えも、セランさんが有利になるよう答えてたつもりですけど?」
真面目に言うと、セランさんは僅かに視線を逸らした。
すぐに反論するかと思ったのに、珍しく少し黙り込む。
それから、認めるのが癪だと言わんばかりの声で、ぽつりとこぼした。
「……それは助かってる。でもさ、痒いところに手が届かないんだよな。いてほしい時には、狙ったみたいに庭にいねえし」
一瞬かちん、ときた。
僕はそもそも、人員の穴を埋めるために交代で庭へ入っている。勤務日がずれて、セランさんと顔を合わせない時があるのは初めから決まっていたことだ。
それを、まるで自分に都合よく助け船を出すための係みたいに言われる筋合いはない。
僕はセランさんのために庭へいるわけではない。
そう考えた途端、少し意地悪をしたくなった。
僕はにっこりと微笑んだ。
「ふーん。そういうこと言っちゃうんだ」
セランさんの顔に、僅かな焦りが浮かぶ。
遅いよ。
「それじゃあ、今後はそういうお手伝いも控えさせていただきますね。特に、作業小屋へリシェリアさんを連れ込んでも、見張りはしてあげません。今後は、厳に控えていただけると」
言い終えた瞬間、セランさんの顔が一気に赤くなった。耳まで染めて。図星を突かれた時の反応として、これ以上分かりやすいものもない。
言われて恥ずかしいこと、してるんじゃないか。
「ばっ……なんでだよ! 今後も応援はしとけよ! 薄情者!」
張り上げた声には本気の焦りが混じっていた。
あまりに予想通りで、僕は堪えきれずに笑ってしまった。
「ぇー? だって、別に作業するだけでしょう? 扉を閉めなければ、見張りもいらないんじゃないかなって。あ、アスティ様に報告する方がいいのかな?」
わざと首を傾げてみせる。
「それとも……他人に言えないことをしてるんですか? 何をしてるかは知りませんけど」
「ひっ……! やめろ! アスティにだけは言うな」
「言うな?」
「言わないで、くれ。……ください!」
本当に、何をしているんだよ。
作業小屋の扉が閉まっていて、二人が中から出てきた時、妙に距離が近かったり、セランさんだけが不自然に機嫌よかったりしたこともあった。
いくらでも想像できてしまう。
リシェリアさんは何を許しているのか。
そういうことを知りたいと思ってしまうのは、まあ、僕も年頃なので……許して欲しい。
僕の言葉に、セランさんはさらに明らかな動揺を見せた。
「何してるかなんて……。大したことしてねえって。でも頼む。週に一回でいいから! いや、月に一度でいいから、大目に見てくれ……!」
先ほどまで兄貴面をしていた人が、急に懇願し始めた。
月に一度。
そこまで具体的な回数が出てくる時点で、大したことがないという主張には説得力がない。
「つーん。知りません。してほしければ、僕の扱いにも改善を求めます」
僕はわざと顔を背けた。
もちろん、本気で見張りをやめるつもりがあるわけではない。リシェリアさんの安全や立場に関わることなら、必要な範囲では目を配る。
ただ、セランさんの都合だけで当然のように使われるのは面白くなかった。
背を向けた僕の後ろで、セランさんが小さく呻く。
「なんでだよ……可愛がってるだろ?」
その言葉と同時に、肩へ重い腕が回ってきた。
次の瞬間には、ぐい、と横へ引き寄せられる。
加減をしているつもりなのだろうが、セランさんの腕力でやられれば、こちらには十分痛い。
「いたたたた! 乱暴なんですよ!」
身を捩って逃れようとしても、腕はびくともしない。
可愛がるという言葉と、実際の扱いがまったく噛み合っていない。
「分かった。そういや、お前、背の小さい女子が好みだったっけな。誰か見つけてくる」
「えっ!」
思わず声が裏返った。
「え、え。セランさん目当てで来た人を紹介されても困るんですけど」
本当にやりかねない。
本人は善意のつもりで、酒場や町で知り合った女の人へ、僕を紹介するかもしれない。しかも、こちらの気持ちや相手の事情をほとんど考えず、背が小さいから条件に合うだろうくらいの雑な判断で。
「!……?」
セランさんが、不意に動きを止めた。
ふざけ合っていた空気が、一瞬で途切れる。
肩に回していた腕が外れ、そのままゆっくりと立ち上がると、庭の木立の方へ鋭い視線を向けた。
剣呑というより――獲物の気配を探る獣のような目だった。
視線は僕を通り越し、その向こうを静かに探っている。
ちょうどその時、風もないのに木立の葉がかすかに擦れ合い、小さく音を立てた。
「え、あの?」
僕もつられて振り返る。
そこには、いつもの庭があるだけだった。
誰もいない。
「……? ねずみでも走ってました?」
「…………いや」
しばらく木立を見つめたまま、セランさんはゆっくり息を吐いた。
「なんか、嫌な感じがしただけだ」
そう言いながらも、視線だけはまだ木々の奥を離れない。
何かを探している。
いや、探しているというより――確かめようとしているようだった。
けれど結局、小さく首を振る。
「……気のせいか」
自分に言い聞かせるように呟くと、ようやくこちらへ向き直った。
と言うより、言葉にできるものでもないのかもしれない。
……なら、僕も聞かないでおこう。
セランさんは、本当に大事なことならきっと教えてくれる人だ。
「木立の先の部屋に知らねえ子供が見えたから、迷子かと思ったら、窓に映ったお前だった。ちっさいせいで、見間違えたな」
「はーあ!? いいでしょう、絶交ですよ!」
僕がわざと大きな声を上げると、さっきまでの警戒が嘘だったみたいに、セランさんは喉の奥で笑った。
「おい、器もちっさくなってどうする!」
再び肩へ腕を回される。
僕は振りほどこうとしながら笑い返した。
さっきまで少し寂しそうに、仕える家が変わる話をしていたことなど、もう忘れてしまったような顔だった。
周囲から見れば、きっと何の深刻さもない光景だった。
兄弟のようにも見えたかもしれない。
あるいは、昔からこうしてじゃれ合ってきた悪友同士のようにも。
これから所属が変わり、任務も兵舎も離れていく。
それでも、たぶん、この距離まで変わるわけではないと信じていたい。




