まだ青いまま見つめる先
下町の花屋。
つい先ほど聞いたばかりの言葉だ。
「あ、へえ。大変だったな。それが、なんで裏庭へ来ることになったんだ?」
なるべく何でもないことのように尋ねる。
リシェの身体には、僅かな緊張があった。首筋にうっすら汗が浮いている。だが鼓動は速くない。体温も少し低く、匂いも薄い。
これは、動揺ではない。
……怒っている。
いや!大丈夫だ。
同じ花屋とは限らない。下町に花を扱う店など幾つもある。
「その人は、見に来るって言ってたのに来ないし。買う確約じゃなかったから、他に売っていいかどうかも分からないって、どうしたらいいか困っちゃって。つてのある人、ラファに相談してたみたいだね。でも、その人は任務でいないんだから、ラファだって連絡をつけようもなかったんだろうけど。それとも、気を使って私に言えなかったのかな。……ねえ、セラン?」
「……はい」
やはり、俺だった。
聞けば聞くほど心当たりしかない。
リシェは怒っている。
俺が約束を反故にし、店の人間へ迷惑を掛けたことに。
だが、胸の奥では僅かに安堵していた。
これは恋だの愛だの話ではない。
ユーリが俺をどう思っていたかではなく、客として果たすべき約束を放置したことを怒っているだけだ。
それならいい。
悪かったと認め、頭を下げ、必要なら苗を買い取れば済む。振り下ろす頭なら幾らでもある。
「忙しくて、忘れてた。俺が悪かった。……時間が空き次第、詫びに行ってくる」
「特別だから、本当なら他に高く売れるのに、セランが大樹の聖女様……私と親しいから、贈られるのかもしれないなら、花屋として光栄だからって、売れないでいたんだって」
「……」
安堵が止まった。
リシェと親しい人間だから。
信仰する大樹の聖女へ贈るものになるかもしれないから。
俺は名乗っても、聖女の身内だと言いまわったり断言したりはしなかった。それでも、特徴や会話の端々から確信されていた。特に、……ユーリが花屋だったのもあるだろう。
そして俺個人への信用だけではなく、リシェの名まで理由にして、店は苗を残していた。
「植物は生きてるんだよ。世話した人の真心だってあるんだから。そういうの、傷つけたりしないで」
「ごめん」
それ以上の言葉は出なかった。
当然だった。
俺が聖女の身内としられた上で、約束したことを放置したなら、俺一人の不義理では済まない。リシェの名で信用を得ながら、その信用を踏みにじったことになる。
さっきまで、ただの客同士の行き違いだと軽く考えかけていた。
きちんと反省しなければならない。
そう思ったところで、思考が止まった。
おかしい。
なぜ、リシェがここまで詳しく知っている。
先ほどのラファは、ユーリの件をリシェへ打ち明けていない様子だった。俺の名が出た時も、隣のリシェを気にして深く追及しなかった。
それなのに、この秋海棠はすでに
庭へ植えられている。
誰かが事情を知り、買い取り、ここまで運ばなければ、ここにあるはずがない。
「これ、どうしたんだ。話を聞いて、俺の代わりにリシェが買い上げたのか?」
「うん。申し訳なかったからね」
「ラファは……リシェが知ってるとは思ってなかった、みたいだけど」
「そうだね。別の人に聞いたから。……さっき、ユーリアさん? 花屋さんの話をしてた時に、同じ話なんだって分かったよ」
リシェは葉から目を離し、俺を見た。
「私がお話を聞いたのは、そのユーリアさんのお父様。花屋の店主さんだけど、もともとは高名な植物学者さんでね。テラリウムの中に不思議な芽が出たから、相談するためにお伺いして知り合ったの」
嫌な予感が、形を持ち始めた。
「へ、へえ。どんな植物が生えたんだ?」
「セラン。今、その話してないよ」
「……」
逃げ道を探したことまで、あっさり見抜かれた。
リシェの声は低くない。怒鳴ってもいない。ただ、今は話を逸らすなと、静かに押し戻された。
「お父様がね、お話の合間に、ユーリアさんが持て余している苗のことを教えてくれたの。花の約束を反故にした男性客が、最近、町でふらふらして評判が悪いと噂の人と風貌が似てるし、名前も同じだから、騙されたんじゃないかって心配してた」
「リシェ。ちょっと待て」
「でもユーリアさんは、庭の知識もそれなりにある、聖女様の身内だと信じてるって。だから、私に、秋海棠の話は聞いてるかとか、セランは本当はどういう人なのかって聞かれたの」
胸の内側が、急に冷えた。
考えれば、分かったことなのかもしれない。
俺たちは家族の縁が遠く、一緒に住んでいない。王都では、誰が誰の家族で、誰の友人で、誰と働いているかを、見ただけで知ることはできない。
だが、トルニカでは違った。
見える範囲はほとんど知り合いで、誰かを傷つければ、その横にも後ろにも、怒る家族や友人がいることを、考えるまでもなく知っていた。
王都でも同じなのだ。
見えないだけで、人は一人ではない。
俺が無碍にした相手にも、心配する父親がいる。泣きつける友人がいる。その中にラファがいて、さらにリシェへも繋がっている。
「リシェ。リーシェ、違うんだ」
「少なくとも、花の約束をしたのは、聞けば聞くほどセランなんだなって思った。だから、お話を聞いていたことにして、急な任務だったってお詫びして、私が買わせていただいたよ。でも、町の人の話は、ちょっと分からない」
リシェの指が、服の裾を僅かに掴んだ。
「……もし、その、お友達との約束を守らないとか、無視して逃げたりするような噂の人が、似てるだけじゃなくてセランだったら、私、どうしていいか分からない」
その顔を見た瞬間、喉が塞がった。
悔しさを堪えている。
泣きたいのを押し殺している。
だが、それは俺が求めていた嫉妬ではない。
他の女と会っていたことを嫌がっている顔ではない。俺を誰かに取られたくないと思っているわけでもない。
誇りを汚された顔だった。
「私の知ってるセランは、約束を守るし、いつだって逃げたりしない。ちょっとだらしないし、怠け者の時もあるけど。真面目だし、頼りになって優しいし……」
何も言えなかった。
謝ることも、認めることも、すぐにはできなかった。
リシェは、俺の評判が落ちたことを嘆いている。もしそれが事実なら、そんな人間になった俺へ怒っている。
俺を信じたまま、その信頼と目の前の話が噛み合わず、苦しんでいる。
その思いを踏みにじったのは、他でもない俺だった。
「セランなの?」
これは、家族を貶された怒りだ。
リシェは、俺のために怒っている。
そして、これはきっと、ユーリの父親が娘のために抱いた怒りでもある。
今まで俺が軽く扱い、面倒になれば離れればいいと思っていた者たちにも、同じように信じ、心配し、傷つく家族や友人がいる。
俺は、それを見ようとしなかった。
自分が何も約束していないことだけを理由に、相手が受け取ったものまで無かったことにしていた。
……未熟だった。
人より遅れて、ようやく他人との関わりを覚え始めた。
少し話せるようになり、好かれるようになり、物事が滑らかに進むようになっただけで、自分が成長したつもりになっていた。
だが、まだ何者にもなれていない。
形だけ膨らみ、熟しきらないまま枝へ残った末生りだ。
それでも、ここから成熟したいなら、越えなければならない。
逃げずに、自分がしたことを認めなければならない。
「うん。……実は、それも俺なんだ」
リシェの目が揺れた。
「なんで、そんなことしたの」
家族ではなく、リシェの番いになりたかった。
男として見てほしかった。
そのために他人との付き合い方を覚え、女の扱いを学び、少しは以前よりましになったと思っていた。
それなのに今、男として選ばれるどころか、家族としてさえ見損なわれようとしている。
「ちょっと、調子に乗ってた。……ラトリエでやったことを褒められて、いい気になってた。多分」
それだけが理由じゃない。
リシェに会えない時間を埋めたかった。知らないことを知りたかった。誰かに好かれることが、自分の成長の証のように思えた。
だが、どれも言い訳だった。
「今も、してたりしない?」
「してない。ちょっと前にやめたんだ」
そもそも、続けるつもりはもう失っていた。
意味もなく相手の気を引き、暇潰しのために関係を育てるような真似は、もうしない。
「お休みの最初の日、変わるって言ってたよね。変わりたいって」
リシェは裾を掴んだまま、俺から目を逸らさなかった。
「それは、こういうこと? 私、何を変えようとしているのか、ちゃんと聞いてなかった。セランはどうなろうとしているの。こういうことを、やめるってことでいいの?」
「……」
違う。
その決意はあの時、感嘆したカイルへの尊敬、至らなくてどうしようもない俺への悔恨から来ていて、リシェの明るい人生を守ってそばにいるためには、獣の本能のままじゃいけない。自分で御し、考え、選べる「人間」になろう。
……そう思った決意のことだ。
それとこれを一緒にしたくない。汚したくない。
「教えない」
口をついて出た言葉に、リシェの眉が寄った。
こんなくだらない愚行を繰り返さないための誓いじゃない。
思い直す。先の行いは反省した。するべきではないとも。
それでも俺は、これからもする時がくればするだろう。
「今回の件は、反省はしてる。これからは意味もなく遊び半分で誰かを傷つける真似はしない。それだけは約束する」
ユーリや、他の奴ら。それぞれにも時間のある時にけじめはつけに行く。二度と、遊び半分に相手の気を引き、面倒になれば放置するような真似はしない。
そこで一度、息を継いだ。
「でも、それとこれとは別だ。二度としないなんて言わない。いや、これからもきっとする」
「ちょっと……!?」
リシェが絶句する。
きっと俺が、最後には素直に折れ、リシェの望む言葉を口にすると思っていたのだろう。
それじゃ、嘘になる。
「リシェが危なけりゃ、他の誰も彼も放って捨ててく。不義理だろうが、裏切りだろうが、必要ならする」
俺の世界では、いつだってリシェが一番だ。
リシェの命や幸せを奪うものなら、たとえそれが誰かの大切な人間であっても、たとえ誰かの大切な人でも殺してやる。
……そこまで口にはしない。だが、それは動かせない。
リシェを独占したいと叫ぶ俺の内側の獣の欲望とはまた違う、これは俺自身の固い意志だ。
そのためなら、リシェが誇ってくれる俺の名誉もいらない。
「セラン。……そういうのは嫌だって」
「知らねえ。お前は俺の何だ? お袋か?」
言ってから、自分でも子供じみていると思った。
だが、家族だからといって、何もかも言う通りにする奴がいるか。
もしリシェが、俺の番いで、恋人だって言うなら多少は聞く耳はある。
だが、それだってまだ繋がれてもいないのに、都合のいいように御させてたまるか。
「ねえ。……何で、急にそんなに駄々こねるの。反省する流れだったでしょ」
リシェは根負けしたように肩を落とした。
怒り続ける気力まで削がれたのか、声には呆れが混じっている。
ふん。体力や気力で俺に勝てると思うな。
「……反省はしたさ。詫びにも行く。でも、俺は何もかも理想通りに動く、お前の尻尾じゃない」
しゃがんでいたリシェへ手を差し出し、そのまま引き上げた。
身体が浮き、スカートの裾が薄暗い空気を払うように広がる。勢いのまま近づいた身体を受け止めると、胸元へ柔らかな重みが触れた。
「俺は、英雄でも聖人でもない。お前が思ってるような素晴らしい人間でもない」
「そんなこと、ない」
即座に返された言葉が、今は腹立たしかった。
「舐めるな。ちゃんと見ろ」
肩を支えたまま、逃がさないように目を合わせる。
「お前だって、俺のいろんな顔を見たいって言ったんだろうが」
俺は、リシェが俺が恋している顔を見たいと言ってタチの悪いからかいをしたのを忘れてない。グラント様と結婚して俺は愛人にしてあげるなどと、言い放ったあれ。
許したわけじゃねえからな。
「話がちょっと違うじゃない……?」
「いーや。根っこは同じだね」
俺を見ろ。理想化された兄じゃなく、ここにいる現実の生身の俺。
「だから、お前の思う悪いことをさせたくないなら、首輪を掛けて、手綱を持って見張ってろ。そうしてたらちゃんと言うことを聞いてやる。……簡単だろ?」
頭が悪くて、育ちも悪くて、わがままで、どうしようもない。愛する女にだって、こうして噛み付いて反抗することを忘れない、手のつけられない男。
「俺から目を離すなよ。よそ見して後ろを向いた瞬間、喰ってやるからな」
だからそんな狂犬を、飼い慣らしたいなら、さっさと俺に決めろ。
そんで、……牙があったことを忘れるくらいに、愛してくれ。
カイルとセランのダメ男エピソードを終わり、本編に戻ります。




