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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
間章 実が熟る道程
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熟せぬ末生り

「……セラン。ラファに迷惑をかけているの?」


「あ。う。……そうらしい」


振り返った先で、リシェはまっすぐ俺を見ていた。


声は穏やかだった。責め立てるような強さも、問い詰める鋭さもない。ただ、その静けさの底に、聞き流すつもりはないという硬さがある。


どこからだ。


どこから聞かれていた。


俺がレフへ礼を言ったところからか。女と何度も会えば期待させると説明されていたあたりか。それとも、ユーリという名前が出た直後だけなのか。


横目でレフを見ると、あいつの顔も目に見えて青ざめていた。


当然だろう。


レフは俺よりずっと器用に立ち回ってきた男だ。誰にでも気安く接し、相手の気分を損なわず、その場を楽しませながら、決定的な約束だけは残さない。俺が失敗したような距離の取り方も、関係の終わらせ方も、あいつなら初めから知っていたはずだった。


それでも、ラファと正式に付き合う前には、関係を整理しなければならない女が二人いた。あれだけうまくやれる男でさえそうなのだから、俺の知らない過去はもっとあるのだろう。


今ここで俺の話が掘り返され、そこから芋蔓のようにレフの過去まで引きずり出されたら、あいつも困る。


レフは口元だけを動かさず、目だけでこちらへ訴えてきていた。


ここは穏便に済ませろ。


そう言いたいらしい。


なら、まずお前がうまくやれ。


俺が視線を返すと、レフはわずかに顎を引き、いかにも今思いついたような顔で口を開いた。


「えっと、ラファ。聞いててくれたよな。ユーリちゃんの話……セランにも、ちゃんと“ツケ”を払いに行けよって言っておいたから。安心していいよ」


ツケ。


誰が何をしたと露骨に口にせず、うまい具合に話を包んだ。


約束を曖昧にしたまま放置し、相手に余計な手間と期待を負わせた。そのまま逃げていたつもりはないにしても、払わず残したものがあるという意味では、確かにツケだしな。


……レフも場数を踏んでるな。


褒められたことではないが。


「あ、はい。そうみたい、ですね。……ありがとうございます」


ラファは困ったように瞬きをしながらも、レフの言葉を受け取った。


声の端に、僅かな引っかかりがあった。俺とレフの間で何かをごまかしていると分かっているのかもしれない。それでも、隣にリシェがいるためか、深く踏み込もうとはしなかった。


「ちゃんと行くようにする。悪かったな、ラファ」


俺も間を置かずに謝った。


余計な説明を足さず、まず謝る。こういう時は、それが一番いい。正しさを並べ、誤解だと言い張り、こちらの事情を語るほど、相手の怒りを増やすことがあると、もう知っている。


ラファは、ユーリから直接事情を聞いているはずだった。


ユーリが何を期待し、俺の行動をどう受け取り、どんな言葉で泣きついたのか。俺自身は、その内容をほとんど知らない。それなのに、俺よりラファの方が、俺とユーリの関係を詳しく知っている。


考えてみれば妙な話だった。


俺はただ、リシェが好みそうな園芸店へ立ち寄っただけだ。


そこで花の話をし、土の扱いや苗の育て方を聞いた。珍しい植物を種から育てており、出荷できる状態まで整えているというから、育ったら見せてもらう約束をした。


リシェが気に入るようなら、買ってやろうと思っていた。


それだけだ。


その直後に国境への遠征が決まり、連絡を入れないまま王都を離れた。約束を放置したことは事実だが、どこに恋愛として誤解する要素があったのか、今でもよく分からない。


「ええ。ちゃんとしてくださいね。……セランさん」


ラファは普段より僅かに強く、俺の名を呼んだ。


怒ってはいるのだろう。


それでも、リシェの前で俺を責め立てることまではしないでいてくれるらしい。その配慮に甘えてよいものではないが、今はありがたかった。


「……それだけで、大丈夫? ラファ」


リシェがラファの顔を覗き込む。


自分のことを問い詰めるより先に、ラファが困っていないかを確かめている。その横顔を見ただけで、胸の内側に重いものが沈んだ。


「え、ええ。大丈夫です。それよりも、早くしないとお庭の時間が減ってしまいますよ。秋も近いですから、日が陰ってしまいます」


ラファは話を切り替えるように、庭の方角へ視線を向けた。

俺も全力で、それに乗る。


「そうだ。リシェ、こいつらこれから逢瀬だって話だから、あんまり引き留めるな。終わるのが遅れてたんだろ」


「あ、そうだね。ありがとう、ラファ。セランもいるから、ここで大丈夫だよ。いってらっしゃい。ラファをよろしくね、レフォード」


「勿論です。ありがとう存じます」


「ありがとうございます。本日はこれにて失礼いたします」


レフォードは姿勢を正して礼をし、ラファもスカートの裾を摘まんで身を沈めた。


「大樹のご加護を」


二人はそう唱和し、回廊の先へ歩き出した。


並んで離れていく背中のうち、レフだけが一度こちらを振り返る。顔は動かさず、目だけで露骨な言葉を投げてきた。


『うまく切り抜けろよ!』


……他人事だと思いやがって。


ぐずぐずしていたら、自分の過去や素行も掘られる可能性がある。逃げていったに等しい。


「じゃあ、私たちも庭に行こうか」


「ん」


リシェが先ほどの話を続けなかったことに、僅かに息が緩んだ。


いつものように腕を差し出す。リシェは何も言わず、俺の腕へ手を添えた。


薄い手袋越しの重みは、普段ならそれだけで気持ちを浮き立たせる。自分から差し出した腕をリシェが選び、身体を預けてくれる。その事実を、何度繰り返しても嬉しいと思う。


だが今は、その温度を素直に受け取れなかった。


手を添えられているのに、距離があるように感じる。


怒っているのか。


軽蔑したのか。


それとも、まだ事情を知らないだけなのか。


庭にジェスがいてくれたら助かったのにと思った。


あいつは、良い意味でも悪い意味でも害のない虫のような存在だ。気づけば近くにいて、どうでもいい話を挟み、時には場を和ませ、時には少し邪魔になる。


普段なら二人きりの時間へ入ってこられれば鬱陶しい。


だが今日は、いてほしかった。


あいつがいれば、リシェの注意が少し逸れる。作業の話へ持ち込むこともできる。俺が言葉を探して黙り込んでも、不自然にはならない。


しかし、庭へ入ってもジェスの姿はなかった。


いないものは仕方がない。


どこまで聞かれていたのかを確かめ、必要な説明だけして、すっきりさせよう。


俺は誰かと恋人になる約束をしたわけではない。身体を重ねたわけでも、リシェの代わりを求めたわけでもない。結果として相手を困らせたことは悪かったが、それ以上に後ろ暗いことをしたつもりはなかった。


「リシェ。さっきの……」


「後にして。日が陰らないうちに、夜盗虫除けの薬を撒いちゃいたい」


「……はい」


真っ当に断られた。


声は普段と変わらない。だが、話を避けたのではなく、今は作業を優先すると明確に決めている。ここで食い下がれば、余計に印象を悪くするだけだ。


仕方なく、俺も庭仕事へ意識を向けた。


薬を水へ溶き、葉の裏や根元へ丁寧に撒いていく。虫に食われた跡を探し、傷んだ葉を摘み、土の乾き具合を指先で確かめる。リシェが反対側の畝を進み、時折、薬の濃さや撒き残しを確認する声を掛けてくる。


作業へ集中しているうちに、胸の中で絡まっていた焦りは少しずつ解けていった。


結局のところ、先ほど考えた通りなのだ。


一つずつ、目の前のことをこなしていくしかない。


急いで答えを得ようとしても、うまくはいかない。必要な時に話し、悪かったことは認め、直すべきところを直す。


庭と同じだ。


そうして一通り作業を終え、腰を伸ばした。


空はいつの間にか暮れかけていた。城壁の向こうへ傾いた光が庭の端だけを照らし、木々と小屋の影が濃く伸びている。


撒き残した畝がないか見回した時、その薄暗がりの中に、見慣れない一画があることに気づいた。


遠征へ出る前にはなかった。


王都へ戻ってからも気づかなかったほど、物置小屋の陰へ隠れるように作られている。


「なんだ、あれ」


近づいてみると、そこだけ色彩が異様だった。


鮮やかな緑や赤の茎。青みがかった葉、銀の斑が浮く葉、黒く沈んだ葉。どれも背は低いが、形は妙に歪み、普通の草花には見えない。


毒々しい。


知らない者が見れば、触れることさえ躊躇う色だった。


「毒キノコじゃねえだろうな」


「あ、やっと気づいた? 凄く面白いでしょ。根茎の秋海棠っていう植物なんだって。観葉っていって、葉っぱを楽しむ種類。毒も薬効もないよ。少し暗くて、湿気のあるところが好きみたい」


リシェは先ほどまでの硬さを少しだけ緩め、葉の一枚へ視線を落とした。


珍しい植物を見せる時の顔だった。


「へえ。リシェが食い物にも薬にもならないものを育てるとはな。いつの間に、こんなものを仕入れたんだ?」


「お庭に植えたのはね、セランが謹慎中」


「あ、そう」


国境から帰り、夏の休暇を終えるまで、俺はほとんど庭へ出られなかった。戻ってからも、人目につかない小屋の陰へ植えられていたため、気づかなかったらしい。


知らない間にリシェの庭へ新しいものが増えていた。


それ自体は当然のことなのに、なぜか少しだけ気まずかった。俺がいない間にも、リシェの時間は進み、庭も変わる。責められたわけでもないのに、そこへ立ち会えなかったことを突きつけられた気がした。


「でも、仕入れられたのは二か月くらい前かな。セランが国境に行く直前」


「ふーん?」


リシェは葉の表面へ触れないよう、指先を近づけながら続けた。


「下町のお花屋さんがね、珍しい種類が流れてきたからって、種から一生懸命育てていたみたい。気になるって言ってたお客さんが、良さそうなら買うって言うから、お世話して準備してたんだけど、ある時から連絡がつかなくなっちゃったんだって」


声が妙に丁寧だった。


リシェは、自分の努力や物事の経緯を、必要以上に語る方ではない。結果だけを簡潔に伝え、自分がどれほど手間を掛けたかは口にしない。


それが今は、誰が育て、誰が約束し、どこで連絡が途絶えたのかまで、一つずつ並べている。


嫌な気配がした。


根茎の秋海棠は、この世界における根茎性ベゴニア(レックス・ベゴニア)です。

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