その色は熟か、腐か
あれから、団内でのセランの振る舞いは少しずつ変わっていった。
以前なら断っていた飲み会にも、時折顔を出すようになった。輪の中心で騒ぐわけではないが、端の席で杯を傾け、誰かの馬鹿話を鼻で笑う。食堂で隣り合えば問いには答え、賭けで給金を失った兵には、自業自得だと言いながら酒を分ける。仕事と関係のない雑談にも、以前ほど露骨に面倒そうな顔をしなくなった。
訓練場でも、変化は見えた。
「セラン。独自の構えはやめろ。隊の基準を守れ」
乾いた土を踏む音と、木剣のぶつかる鈍い響きが重なる中で、セランだけが僅かに異なる構えを取っていた。重心を低くし、利き腕側の肩を引いて、相手へ見せる面を狭めている。個人で打ち合えば強い。だが隊列の中では、一人だけ異なる動きが、そのまま隣の兵への危険になる。
「すみません。気をつけます」
何の言い訳もなく構えを直したセランを見て、俺は思わず目を止めた。
以前なら、命令そのものには従っても、「この方が早い」「森ではこうしてきた」と、納得するまで食い下がったものだ。反抗したいのではない。自分の正しさを捨てる理由が分からなければ、従うことにも意味を見いだせなかったのだろう。
「ずいぶん素直になったもんだ。前なら『でも、この方が早い』なんて食ってかかっただろうに」
「いえ……言われるからには、何か理由があるんだろうなと。……思うようになったので」
不器用な答えだったが、それ自体が大きな変化だった。
以前のセランにとって、他人の言葉の裏はまず疑うものだった。利用するためか、足を引くためか、自分を押さえつけるためか。今は少なくとも、身内からの指摘には、自分の知らない理由があるかもしれないと考えられるようになっている。
「ああ、そうだ。型を同じにしないと友軍に当たり、連携が乱れる。個人としては慣れや利き腕の都合もあるだろうが、身内を守るための作法だと思え」
「はい。よく分かりました」
金色の目が真剣に細められた。
自分のやり方を押し通すのではなく、他人の言葉の向こうにある理由を考える。それは、剣の腕を上げるより、こいつにとって難しい成長だったのかもしれない。
もちろん、完全に丸くなったわけではない。
敵と定めた相手への苛烈さは変わらず、度を越して揶揄えば手痛い反撃が返る。とりわけ聖女のことを下卑た調子で口にする者には、怒鳴るより先に逃げ道を塞ぎ、相手が最も触れられたくないところを言葉で刺した。殴られた方がましだったと、後からぼやく者さえいる。
それでも、入隊直後のように、誰もが敵であるかのような警戒は薄れていた。背後へ立たれても即座に振り返らず、肩を叩かれても反射的に手を払わない。気の合う同僚に背中を小突かれれば鬱陶しそうに押し返し、水を奪われれば相手の昼食を横から取る。
荒っぽくはあっても、それは相手に害意がないと理解した上での応酬だった。
軍では、腕が立つだけでは長く生きられない。隣の男へ背を預け、命令の意図を汲み、自分と異なる考えを持つ者とも同じ方向へ進まなければならない。放っておけば一人で全てを片づけようとしたセランが、少しずつ他人の言葉を聞き、兵士たちの輪へ入れるようになったのなら、酒へ連れ出したことも、余計な口を出したことも、女の扱いまで教えたことも無駄ではなかったのだろう。
そう思っていた。
少なくとも、ラトリエから帰ってくるまでは。
ラトリエで聖女を守り、大怪我を負って帰還したセランは、その功績によって一般兵から従士へ取り立てられた。もはや俺の分隊で面倒を見る新兵ではない。訓練場や庁内ですれ違い、時折同じ任務に就く程度になった。
最初は縁故による抜擢だと疑った昇進も、今では当然だと思えた。ラトリエがなくとも、いずれ上がっていた男だ。それが早まったにすぎない。
かつての部下の出世なら、祝うべきことだった。
問題は、その後だった。
元々、顔の悪い男ではない。若く、腕が立ち、媚びも飢えも見せない。そこへ女性への最低限の気遣いまで身につけば、女が寄ってくるのは当然だった。
狙っていない顔で獲物を引き寄せる、歩く罠のようなものだ。
久しぶりに同じ酒席へ出た時、それを嫌というほど思い知らされた。
「綺麗な赤毛だね。この辺の人じゃないみたい」
酒場へ入って間もなく、女がセランへ声を掛けた。
「どこらへんの生まれ?」
「ん、すげえ田舎」
「どんなところ?」
「森の近く」
「えー気になる。他にはなんかないの?赤毛の人が多いの?」
気取らず、聞かれた以上のことは話さない。だが、何も隠していないようでいて、肝心なところは残す。その曖昧さへ、別の娘が食いついた。
「今、巷で噂の“聖女様の赤と黒”って、赤毛の騎士がいるっていうけど……まさか」
「そういう話、あったな。でも、あんなの全部、噂に尾ひれだろ。どうなんだろな」
肯定も否定もしない。噂の英雄らしい高潔さを見せるでもなく、生身の若い男として酒を飲んでいる。それがかえって、そうかもしれないという余韻を残し、女たちの興味を煽っていた。
宴が進んだ頃、店の外で酔漢が暴れ、居合わせた俺たちが軽く押さえることになった。セランは拳を振り上げた男の懐へ迷いなく入り、腕を捻って地面へ伏せさせた。誰も怪我をせず、騒ぎはすぐに収まった。
戻れば、もう独壇場だった。
「セランって腕が立つんだね。かっこいいね」
「あの、助けていただいて、ありがとうございました」
「お酒、強いんでしょ。負けたら奢ってよ」
「こっちの卓で飲んでいかない?」
セランは気が向けば目を合わせ、興味の薄い相手は軽くいなす。無愛想で切り捨てもしなければ、愛想を振りまいて期待を煽りもしない。
少なくとも、本人はそのつもりなのだろう。
「ねえ。今夜、泊まっていかない?」
手洗いへ立った先で、直截な誘いを受けているのが聞こえた。
「安く売ってるんだな。そういうのは買う気しねえ」
少しも動じず、損得でも測るように返した。
断ったことに、なぜか胸を撫で下ろした。
成人した男のすることだ。俺が口を出す筋合いはない。それでも、聖女が自分へ傾かないことに不貞腐れていた男が、別の女を慣れた調子であしらっている。妙に裏切られたような心地が残った。
一足飛びに進みすぎている。
英雄として見られるようになり、図に乗ったのか。それとも、俺たちが教えたことを妙な方向へ覚えたのか。
誰がこうなれと言った。
俺か。
気づけばセランは自分の会計だけ済ませ、店から消えていた。誘っていた女は別の卓で他の男へしなだれかかっている。示し合わせて出たわけではないらしい。
また胸を撫で下ろしながら、しばらく様子を見るべきだと思った。
だが、事態はすぐに面倒な方へ転がった。
グラント総長と聖女の婚約が発表されたのが契機だったように思う。
聖女に並ぶことになったのは金の獅子。ならば、赤の騎士の隣は空いたのではないか――そう思ったのかもしれない。
「セランは次、いつ来るのかな?」
馴染みの酒場や飯屋で、そう尋ねられることが増えた。
「私が、聖女様の代わりに大事にするのにな」
「聖女ちゃんを忘れさせてあげる」
「他のひとと婚約したんだから、もういいんじゃないかって」
そんな言葉まで出るようになった。
伝えた時のセランの顔は、露骨に苛立っていた。次に同じ店へ行き、その娘から話しかけられた時には、完全な初対面として応じた。
もっと厄介なのは、詰め所まで入り込んでくる女たちだった。
「もっと会いたい」
「次の休みはいつ?」
「母が、ご飯を食べさせてあげるから……連れてきなって」
一度きりではなく、何度か酒を飲み、街へ出た相手なのだろう。セランにそのつもりがなくとも、向こうが関係を深めたと思うのは無理もなかった。
部外者は立入禁止だと告げて追い返し、あまりにしつこければセランを呼び、きっちり縁を切らせた。城門へ贈り物や手紙を持ってくる娘まで現れた。
兵舎では、こうした話は半ば武勇伝として扱われる。上へ告げ口する者はいない。上官に見咎められても、せいぜい軽く締められる程度だ。
それでも、火遊びは必ず影を落とす。
俺たちは知っている。
セランが聖女を妹のように構い、恋人のように見つめ、いつか隣にいると決まっている女のように語っていたことを。それを本人が、少しも隠しきれていなかったことを。
言わねばならないと思った。
「おい、セラン。最近お前宛てが多すぎるぞ。詰め所は待ち合わせ場所じゃないんだ」
「ウォーレス。あー……。迷惑をかけて悪い。今後気を付ける」
「それはまあ、元上官の誼だ。別にいい。だが……商売女はともかく、普通の娘に粉をかけるな」
「……ただ、声を掛けられたから友達になって、話したり、少し遊びに行ったりしただけなんだけどな。けど、匙加減を失敗したみたいだな」
言い訳を聞けば、最悪の食べ散らかしをしているわけではなさそうだ。その点にはわずかに安堵し、同時に少しだけ同情もした。
もしかしたら婚約の報を受け、セランもやるせない思いを持て余して、内心では腐っているのかもしれない。
あれが恋情だけで結ばれた婚約ではないことくらい、俺にも察しはつく。それでも、俺たち下の者たちが異議を唱えることも、止めることもできない。
「あまり、よそ見して、聖女さんに顔向けできない真似をするな」
そろそろ遊ぶのをやめて、鍛錬に専念したらどうだと助言するつもりだった。
一日でも早く騎士になれば、婚約者でなくとも今よりよっぽど近くで支えられる。もちろん生半可な道ではないが、後ろ盾や能力からして、こいつなら騎士爵だって目指せると思った。
「? よそ見なんてしていない。一度もしたことがない」
絶句した。
……狂犬め。
その発言は、どう考えても破綻している。
次に口に出す用意をしていた、励ましの言葉を思わず呑み込んだ。
それでも、リシェリア様の前にいるセランは、酒場で女をあしらっていた男とは、まるで別人だった。
そしてセランの前にいるリシェリア様も、ただの聖女ではない。王城へ来る以前からともに育った、幼馴染の顔をしていた。
大怪我をしたセランの病室へ甲斐甲斐しく通った姿は、たちまち城内へ広まった。回廊ですれ違えば、リシェリア様は俺たちへ会釈するだけでなく、セランを見つけて柔らかく微笑む。
「ご機嫌よう、皆さま」
花が綻ぶような笑みの後で、必ず一言が続く。
「セラン。皆さんにご迷惑かけてないよね? ……ないでしょうか」
「そういうこと言うなよ……保護者じゃねえんだぞ」
口では文句を言いながら、声には隠しようもなく嬉しさが滲んでいた。
田舎から出てきた素朴な二人。出世しても、王城の中にいても、その空気だけは変わらない。
その場にいた兵がリシェリア様へ鼻の下を伸ばせば、彼女の姿が見えなくなった直後、セランに足を払われる。俺は何度も見た。
兵舎の若い連中が何を思っているかなど、聞くまでもない。
聖女様に対して不実だ。
遊ばれている街の娘が哀れだ。
あいつばかり女を集めるな。
俺と同じように、よくないと思っている者も多かった。
それでも、誰も聖女様には言わない。
言えないのだ。
かつて、それをやらかした者がいた。
まだセランが着任したばかりで、兵舎にも今ほどの緊張がなかった頃。潔癖な士官、聖女への憧れをこじらせた若い兵、そして本気で彼女へ惚れた中堅騎士。
彼らはみな、セランより自分の方が聖女に相応しいと信じていた。
当時のセランは、まだ俺が口を出す以前で、市民への応対にすら下手を打っていた頃だ。
それでも彼らは告げた。
「セランは、貴女にふさわしくない」
正義を装った注進。
「赤い犬を、東の歓楽街で見かけましたよ」
見てもいないことを事実のように語った皮肉。
「尻尾を振って、女の後をついていったんです」
冗談半分の密告。いや、セランを貶めるための、ただの捏造だった。
その言葉がどこからか漏れ、セランの耳へ届いた。
直接殴られた者はいない。怒鳴られた者も、表立って責められた者もいなかった。
あいつは何も言わず、何も訴えず、ただ淡々としていた。
だが、ある日、その士官は突然退役を申し出た。若い兵は遠方の守備隊へ移され、中堅騎士もほどなく王城を離れた。
セランが何をしたのか、知る者はいない。
どれも正規の手続きの中で起きたことだった。本人の希望、過去の失態、任務上の都合。理由は一応揃っている。
それでも、偶然と呼ぶには出来すぎていた。
誰もが、狂犬の仕業だと信じた。聖女へ襲いかかったダリオを取り押さえ、拳を真っ赤にするまで叩き伏せたセランを、実際に見た兵もいる。
それ以来、告げ口をする者はいなくなった。
善意でも、正義感でも、忠誠でも。まして事実ですらない中傷など、二度とリシェリア様の耳へ入れようとする者はいない。
セランの縄張りへ無断で踏み込めば、その代償は重い。
どれほど人に馴染み、無害そうに笑うようになったとしても――狂犬は牙を抜かれてなどいない。
覚悟も切り札もなく、迂闊に手を伸ばすべきではない。
あいつが厄介なのは――自分が噛んでいる自覚すらないことなのだから。




