未熟の生兵法
ラトリエから戻った後ごろの話です。
「よぉく分かったわよ! 二度と顔を見せないで。落馬して死ね!」
ぱしん、と乾いた音が裏路地へ響き渡った。
王都東側の歓楽街、その表通りから一本外れた細い路地には、酒と香油、濡れた石畳に染みついた獣脂の臭いが混じっている。店の裏口から流れ出た明かりの下で、目元の強い妙齢の美女が肩を震わせ、その正面では、亜麻色の髪をした色男が頬を張られた姿勢のまま立っていた。
そう、俺だ。
「その死に方でご希望に添えるのは難しいかな。まあ、彼女に落とされるなら、それも本望だけどね」
俺は騎兵だ。人馬一体となって駆けられるよう訓練している。馬の扱いを誤ることなどない。どんな状況でも、落馬などしない自負がある。
普段から馬への愛を語ってきたというのに、最後まで覚えてくれていなかったらしい。いや、分かったうえで、わざとその言葉を選んだのかもしれない。
そうだとしても、そうでなくても、結論は変わらない。
俺が選ぶのは、もう君じゃなかった。
「……っ、知らないわよ! 馬鹿じゃないの!」
吐き捨てるように言い残し、女は踵を返した。靴音を荒々しく石畳へ響かせ、こちらを一度も振り返らないまま路地の向こうへ消えていく。
注目を集めたとはいっても、ここは歓楽街の裏路地だ。人通りは表ほど多くない。店の裏口や壁際から面白半分に覗いていた者も、修羅場が終わったと分かれば、もう半分ほどは興味を失っている。
この程度で済んだことに、俺はむしろ安堵していた。
今回は、ほんの少し相手を見誤った。それだけだ。
「おい、レフォード。追っかけなくていいのか?」
どこかから野次が飛んでくる。
「ほらほら、見世物は終わりだ。散れ散れ。あまり絡むなら連行するぞ」
手を払うように追い立てれば、見物人たちは口々に笑いながら離れていった。この辺りの店へ出入りする連中とは、互いに顔を覚える程度には馴染みがある。俺が誰で、どこの兵で、何をしている男かも大抵は知られていた。
下町の痴話喧嘩など、酒樽の栓が抜けるのと同じくらい日常的だ。いちいち深刻に受け取る者はいない。
観衆が散った後、路地に残ったのは、近くの店から出てきた一人の兵士だけだった。
薄暗い場所でも見間違えようのない、鮮やかな赤毛。
「お、セランじゃないか。奇遇だな」
「レフ。……何やってんだ、お前」
セランは呆れたように俺の頬と、女が消えていった路地の先とを見比べていた。
その背後に掲げられた看板へ目を移す。歓楽街の端にある、規模の小さな店だった。派手な呼び込みも、豪奢な灯りもない。それでも軒先には、平民向けの娼館を示す旗が下がっている。
思わず、口笛が漏れた。
聖女にぞっこんの幼馴染殿。白い聖女の赤と黒、その赤い方。彼女の傍に他の男が寄れば毛を逆立てる番犬が、まさかこんな店の裏口から出てくるとは思わなかった。
「おーおー。お前、意外なところから出てくるね」
入隊したばかりの頃は、少し扱いを誤れば誰にでも噛みつく、ひどく剣呑な男だと聞いていた。実際、遠目に見かけた姿にも、他人を寄せつけない乾いた気配があった。
それがいつの頃からか、多少は愛想を覚え、兵士連中の輪へも混じるようになったらしい。
酒や夜遊びへ付き合ううちに、悪い遊びまで教え込まれたというところだろうか。
「うるせえな。関係ない。そっちこそ、ラファはどうした」
セランは露骨に顔をしかめ、こちらの弱みを突くように名を出した。
ラファ。遠征で道をともにし、危険な場所を駆け抜けた、メイスン家の愛らしい侍女。最近、俺が付き合いを申し込もうとしている相手だ。
「そのために、今こうして身辺整理してるんだっての。そんなことより、まだ夜は早い。飯でも食おうぜ。……今、体力を使ってきたなら腹が減っただろ」
逃がすものかと肩を抱き、そのまま飯屋の並ぶ通りへ引っ張っていく。せっかく拾った面白い話の種を、何も聞かずに見送れるほど俺は淡泊ではない。
「おい、そっちの肩は怪我した方だ。触るな! 腹も減ってねえ。……今日は前に足りなかった端数を払いに来ただけだ」
「ははは。行ったこと自体は否定できてないぞ。いやあ、番犬が丸くなったと思ったら、理由が分かっちゃったな。さあ行こう。俺は腹が減ってるし、食いたい麺があるんだ」
抵抗するセランを半ば引きずるようにして、行きつけの飯屋へ入った。
店内には煮炊きの湯気が満ち、炒めた香辛料と肉の脂、酒の匂いが鼻を満たした。壁際には仕事を終えた職人や兵士が詰め、卓の間を給仕が器用にすり抜けている。
俺はいくつか目当ての料理を頼み、セランは軽食と薄い酒だけを注文した。
無理やり連れてこられたせいか、眉間にはまだ皺が残っている。とはいえ、本気で怒っているわけではなさそうだった。娼館から出てきたところを見られ、少し気まずいだけなのだろう。
以前、遠くから見かけていた頃のセランは、最低限の愛想こそ保っていても、そのすぐ下に乾いた断絶を抱えていた。ある程度、人と斬り結ぶ経験のある者なら分かる。公女殿下や聖女の前を除けば、常に何かへ身構え、思い詰め、近づく者の手元を見ていた。
あの頃なら、冗談の境界を一歩越えただけで、無事には済まなかったかもしれない。
今は、少しくらい質の悪い揶揄でも、睨むだけで流せるようになっている。
「んで? 聖女さんが手に入らない鬱憤を、あそこで晴らしてるのか?」
軽い調子で踏み込むと、セランの目が細くなった。
あいつが聖女を好いていることなど、城内で二人を見る機会がある者なら大抵は分かる。聖女へ色のある眼差しを向ける担当官と、それを見つけるたび露骨に威嚇する赤毛の兵士。
特に俺は、聖女付きの侍女であるラファと付き合いができてから、あの周辺の話を以前より耳にするようになった。誰が誰を好いているのか、誰がどの程度踏み込んでいるのか。詳しい事情までは知らずとも、外から見える構図は十分すぎるほど明白だった。
そのせいか、セランも俺に対してだけは、以前ほど取り繕わなくなっている。
俺が聖女を奪う側へ回る心配がないと、さすがに理解したのだろう。
「そんなんじゃねえ。ああいうところに行ったのは、単に……手順を覚えるためだ。本番で間違いたくない。もう覚えるもんは覚えたから、行かねえよ」
予想以上に真面目な答えが返ってきて、俺は箸を止めた。
本番。
それが誰を指しているのか、聞くまでもない。
「へえ。分かんないな。あんなに可愛がってるんだから、一緒に経験していった方が楽しいもんなんじゃないの。知らないけど」
「どっちも進め方を知らなきゃ……進まねえだろ」
ぶっきらぼうな声の奥に、思った以上の切実さが滲んでいた。
なるほど。
失敗したくない。自分が知らないことで、彼女へ負担を負わせたくない。
娼館へ通った理由が、欲の処理よりも、そんな生真面目な準備だったというのには少しばかり可愛げがあって笑いそうになる。
……いや、可愛くはないな。
聖女と自分がそうなる未来だけは、欠片も疑っていないらしい。
ふと窓の外へ目を向けると、見知った姿が店へ入ろうとしているのが見えた。
柔らかな金髪をまとめた、快活そうな令嬢。女友達のローズだった。
実は、今日はこの店で待ち合わせをしていた。セランを誘ったのも、正確には彼女が来るまでの暇を潰すためだ。
「ふーん。……あ、ちょっとセラン。ここでそのまま待っててくれ。用を済ませたら、後で戻ってきて飯の続きを食うから」
「は?」
「はい、レフ。今日は大切な話があるって……」
「ローズ。待ってた。あっちの席へ行こう」
入ってきたローズをそのまま別の卓へ案内する。
振り返れば、セランが豆でも食らった鳩のような顔で固まり、こちらを呆然と見つめていた。その表情があまりに珍しく、俺は片目をつぶってみせた。
後でラファへ教えてやりたい顔だった。
話し合いは、今度こそ平手打ちを受けることもなく、実に穏便に終わった。
少なくとも、俺の基準では。
呆れた顔で待っていたセランの席へ戻る。
まあ、ローズは泣きながら店を出ていき、茶の代金も置かずに行ったが、その程度は男の甲斐性というものだろう。
「俺に言わせりゃ、お前の方が分かんねえ。四方八方に女がいるじゃねえか。『誰にでも気さくなレフォードさん』は、ずいぶん腰が軽いんだな」
暇潰しに使われた挙句、修羅場らしきものを続けて二度見せられたセランは、完全に呆れていた。町で俺がよく言われる評判まで引っ張り出し、嫌味に使ってくる。
「普通に誰にでも気安い兵士でいることは、治安を守る上でも情報源になる。俺は騎兵で、普段あまり同じ場所にいないからな。下町の事情を知るには、いい手段なんだよ」
「そんで殴られたら世話ねえな」
「いやあ、街の女の子と普通に話したり、遊んだりするのは学びがあるんだよ。商売じゃないから、毎回反応も正解も違う。生の声、生の反応だ。少し楽しい時間を共有しながら、自分の技術を実地で試せる。ま……押し引きを間違えることもある」
「聞いてねえ。お前の自慢話はもういいって」
「いや、基礎が終わったんなら、次は応用だろ。店の優しい手ほどきに慣れたってんなら、狩場を変えることを勧める。そこを上手く渡れるようになれば、本命を転がして惚れさせるなんて……簡単だぜ」
「……!」
セランの喉が、目に見えて上下した。
不用意に唾を飲み込んだ音まで聞こえそうだった。
言わせてもらえば、分かりやすいのはセランの方だ。狂犬だの番犬だのと呼ばれていても、こういうところでは驚くほど純朴だった。
セランの本命は、幼馴染の聖女。
ラファから聞いた限りでは、田舎の僻地で育ち、人の少ない環境で暮らしていたという。王都の常識にも、男女の駆け引きにも疎く、素朴で純真。なるほど、放っておけば二人とも互いの周りをぐるぐる回ったまま、一歩も進まないだろう。
「……それで?」
セランは視線を泳がせながら、それでも横目で続きを促した。
「まずは、これから普通に出会う子と、ちゃんと交流するだけだ」
「聞くんじゃなかった」
途端に興味を失った顔で席を立とうとする。その腕を掴み、強引に引き下ろした。
「早えよ。これは情報戦の遊戯だ。必ず少しだけ相手の気を引け。それで最後に、礼の言葉でも、次に会う約束でも、連絡手段でもいい。相手から何か働きかけがあれば優だ。あとは、自分が出した情報より、相手から引き出した情報を少なくしないこと。自分から差し出したものが少ないほど加点、相手より多く出したら減点だ」
人間関係も、商いと似たところがある。
こちらが多くを差し出し、僅かな見返りだけで満足していれば、最後には貧しくなる。恋も収益も、ただ与えるのではなく、相手から引き出してこそ成り立つ。
自分は決してのめり込まず、相手の方をのめり込ませる。
「加点を繰り返していけば、いつの間にか相手はこっちに夢中になってる。こっちの感情を買うために、もっと価値のあるものを差し出してくるようになる。俺と過ごす休日のために、笑顔を見せて、洒落た格好をして、差し入れや贈り物まで用意するようになる。可愛いだろ?」
「悪趣味だとは思う」
「はは、そうだな。だから、本気にさせちゃあ駄目だ。向こうが少しでも真剣になったら終わり。行き過ぎれば、結婚だったり、借金だったり……取り返しのつかないものまで差し出してくるようになる。そういう境界は、一度親しくなるほど踏み越えやすくなるからな。仲良くなっても寝るのは勧めない。そういうのは、それこそ商売で済ませておけ」
そこで少しだけ声を落とした。
「……越えていいのは、自分が本気になった時だけだ」
セランの金色の目が、真意を測るようにこちらを射抜いた。
「それがお前にとっては、ラファなわけか?」
ラファのためだと言って、曖昧な関係にあった女たちと縁を切るところを見せたのだ。そう思われても仕方がない。
この野生じみた男に、俺の本心まで見透かせるだろうか。
見透かされたとしても、俺の真心や誠意をいちいち語る気はなかった。セランへ話して響くものでもないし、何より、それは俺とラファの間だけにあればいい。
「どうだと思う?」
「俺は、お前の本命はルナリアだと思ってたけどな」
「それはそう。ルナほど素晴らしい娘はいない。つぶらな瞳、従順な性根、濡れ羽色の髪」
任務のたび俺の傍らに立つ黒髪の美女――愛馬ルナリア号の姿を思い浮かべ、自然と頬が緩む。
艶のある黒毛を持つ牝馬は、会うたび挨拶代わりに俺の手へ鼻先を寄せ、慣れた仕草で袖口を探る。単に餌袋だと思っているだけかもしれない。
それでも、あの横顔には無邪気さと気品が同居しており、少なくとも俺にとっては、城下で見かけるどんな美女にも劣らなかった。
ラトリエへの旅では、セランと隣り合う時間が長かった。馬の扱いをきっかけに話すようになり、気づけば俺の方から頻繁に絡むようになっていた。
そもそも、ルナがセランを気に入ったのが始まりだ。
赤い頭を人参とでも思っているのかもしれないが。
「俺の二心を咎める気か? ルナへの愛をラファへ密告する?」
「別に。お前の本音がどうだかも知らねえし、リシェに関係ないならどうでもいい。だが、ラファを泣かせて仕事に差し障らせたり、リシェに気を遣わせたりしてみろ。お前に返ってくると思えよ」
冗談めかした調子とは裏腹に、最後の言葉だけは笑っていなかった。
ラファ自身への思い入れではない。ラファが傷つけば、その仕事へ影響が出る。侍女の不調をリシェリアが気にかけ、心を煩わせる。その連なりが許せないのだ。
相変わらず、世界の大半を聖女一人へ繋げて考えている。
「おお、怖い。消される前に、聖女さんへ犬が他所で拾い食いしてるって告げ口して、助けてもらわないとな」
「ふざけんな。お前こそ、本命に愛想を尽かされないように、他のに乗るのを控えた方がいいんじゃねえの」
一拍遅れて、その言い回しが女と馬の両方に掛かっていると気づいた。
俺は吹き出し、セランも呆れたように口元を緩めた。
仕方のない奴を見るように、互いに笑い合った。




