朱に交わり赤く
聖女の番犬、庭の守り手、公女の犬――赤毛のセランを指す言葉は、王城でも兵舎でも、掃いて捨てるほどある。
だが、兵士たちの間でひそかに囁かれる二つ名やあだ名となると、その数はさらに膨大だった。嫉妬も、嘲りも、警戒も、男同士の下卑た想像も混ざっている。聖女様の尻尾だの、銀髪に飼われた狼だの、庭先に繋がれた赤犬だの、誰が最初に言い出したとも知れない名が、酒杯の底や夜番の退屈から次々と湧いてくる。
しかし、それらすべてをひとまとめにしてしまう二文字がある。
――狂犬。
あいつは決して侮ってよい存在ではない。
笑いながら鎖を引けば、その手ごと噛み千切られる。邪な心を嗅ぎつけては喰らいつく。
事実、聖女様への傾倒を隠そうともしなかったダリオは、セランから庭の役目を奪おうとして試合に敗れ、その後も任務中に奴を陥れ、最後には聖女様を攫おうとして返り討ちにされた。
そんなセランも、俺の分隊へ来た当初は、メイスン家の肝入りにすぎなかった。
アストリット殿下が軍へ繋いだ、素性の曖昧な田舎者。礼法も怪しく、目立つ赤毛と金の目ばかりが先に立った。
……後から分かったのが、聖女との縁だった。
幼馴染で、同じ村の出身で、王都へ来る以前から行動をともにしていた。あの聖女が、誰に対しても見せる穏やかな微笑とは違う顔で話す相手でもある。
羨ましいという気持ちは、当然あった。兵士が腕だけで上へ昇れる範囲など限られている。強い家の後ろ盾に、王族の覚え、聖女との古い縁まであれば、幾つかの階段は最初から用意されているように見えた。そこへ不満や嫉妬を抱かない兵士の方が珍しい。
だが、最初の模擬戦で、その見方は半分ほど崩れた。
セランは新兵でありながら、古参を含む大半をあっさり退け、四位へ食い込んだ。正規の流派ではない。だが、猟師の家に育っただけあって、手にした武器を使いこなすことに長けた。対峙する相手の重心を読み、足を刈り、受けた力で地面へ叩きつける。森や岩場で獣を狩る者の、勝つためではなく、臨機応変に敵を仕留める素養が抜群にあった。
とりわけ獣への対応では、セランは際立った。人と動くことには慣れていないくせに、獣がどこから来るか、何を恐れ、どちらへ逃げるかを読むことには迷いがない。一人で十数体の害獣を仕留めたという報告まで上がっていた。
平時の兵舎では異質でも、戦場では間違いなく重宝される才だった。
そこまで見せられれば、縁故だけの若造と吐き捨てることもできない。気に入らない部分はあっても、使える男を認めないほど、俺も青くはなかった。
そんな狂犬に、俺が世渡りの仕方を覚えさせようと思った、最初のきっかけは何だったか。
兵としては優秀でも、対人関係となれば、セランは決して出来のよい方ではなかった。
どこにでもいる風体の、年頃の生意気な青年。一見すれば、ぶっきらぼうで雑だが、愛想がないというほどでもない。やる気がなさそうに振る舞う一方で、必要な場面では真面目に働く。
だが田舎者故なのか、どこか機微には疎く、言外の押し引きや心情を汲んだりすることは不得意だった。
兵舎でも市井でも、行き違いや揉め事を引き起こすことがたびたびあったのだ。
記憶を辿れば、派手な戦功でも、聖女を巡る騒ぎでもない。それは、隊の連携に関するほんの少しの杞憂だった。いや、たぶん、もっとくだらない。
市内兵士詰め所での出来事が発端だった。
「おい。セラン、さっきの始末はなんだ」
王都市内の詰め所は、巡回や軽犯罪だけでなく、揉め事の仲裁から迷子や酔漢の保護まで、市民の細かな厄介事を引き受ける場所だった。戦場とは違い、傷つけず、恨みを残さず、後で面倒の起きない形に収める必要がある。腕力より常識と愛想が試される場所だった。
セランは能力としては優秀だった。巡回中の異変にはすぐ気づき、逃げる犯人を追わせれば滅多に取り逃がさない。だが、どうにも常識の置き方がずれている箇所が幾つかあった。
不始末と断じるほどではない。規則を破っているわけでも、職務を放棄しているわけでもない。むしろ一つ一つの判断には、本人なりの理屈が通っている。
だからこそ始末が悪かった。
迷子になった妙齢の令嬢と、酒場から運び込まれた荒くれ者を、同じ待機室へ案内したことがある。
従者とはぐれた令嬢は、見知らぬ詰め所で既に青ざめていた。その隣では、酒臭い大男が長椅子を占領していた。
「万が一があったらどうする」
俺が声を抑えて問い詰めると、セランは待機室の様子を一度振り返り、何が問題なのか本気で測りかねている顔をした。
「分隊長。ええと、男は寝潰れているので、問題ないかと」
「今は寝てる。起きたらどうするって話だ」
「起きたら押さえます」
そういうことではない。
そう言いかけて、俺は額を押さえた。セランにとっては、自分が制圧できるなら安全なのだ。酔漢と同室に置かれた令嬢の不安は、最初から計算に入っていない。
火事の現場では、救出した女の衣服をその場で剥いだ。
燃え移った裾を踏み消し、背中へ回った炎を消すためだった。手袋を焦がしながら女を地面へ転がし、布を引き裂き、火のついた衣服を剥ぎ取るまでの動きは速かった。結果として女は軽い火傷で済み、命に別状もなかった。
問題は、人通りのある路上で、覆いも用意せず、躊躇なく下着姿にしたことだった。
「……やりようがあっただろう」
後からそう言うと、セランは焦げた前髪を払いながら、露骨に納得のいかない顔をした。
「水や救援を待つ間に火傷するよりいいはずです」
「助けたことを責めてるんじゃない。そのあと人が集まるまでに外套を掛けてやれ」
そこでようやく、セランは考え込んだ。
どうやら彼の中では、命を守る手順はあっても、その後に羞恥を守るという項目はないらしかった
痴話喧嘩の仲裁に至っては、完全に向いていない。
恋人同士の言い争いへ割って入り、双方の話を聞いたところまではよかった。しかし男の言い分の矛盾に気が付くと男を一方的に制圧した。挙句、女から平手打ちを受けて戻ってきた。
「何故お前まで平手で打たれているんだよ」
赤くなった頬を眺めながら尋ねると、セランは腹立たしげに舌打ちした。
「……正しい方に味方しただけです」
「女は、その正しくない男を制圧しろと言ったのか?」
「知らねえよ……。いや、すみません」
ここは法廷じゃない。俺たち兵士は危険なら抑え、近隣の騒音にならぬように宥めるだけで良かったのだ。
女も喧嘩を止めてほしかっただけで、見知らぬ兵士に恋人の人格まで断罪してほしかったわけではなかったらしい。
正しい側へ加勢すれば解決する。セランは本気で、そう考えていたらしい。
どれも苦情は来ても、懲戒されるほどの不始末ではない。
女へ手を上げ、弱みに付け込む兵もいる。それに比べれば、セランには悪意も蔑視もなく、むしろ守ろうとする意識は強かった。
ただ、致命的にこいつは女心が分かっていない。
とりわけ、妙齢の女が何を恐れ、何を恥じ、どのような言葉で傷つくのかを、ほとんど知らなかった。
それが奇妙だった。
あの聖女と幼馴染だという。あれほど目を引く女と長く暮らし、今も傍へ寄れば露骨に警戒するくせに、女というものに対する理解だけが、年齢に似合わず空白のままだった。
その日の夜、任務を終えた兵たちで酒場へ入った時、俺はとうとう口にしていた。
卓上には脂の浮いた煮込みと黒パンが置かれ、安酒の匂いが汗と革具の臭いへ混じっていた。周囲では勤務を終えた兵が笑い、給仕へ声を掛け、奥の卓では賽子が器の中を転がっている。
「今日の平手は傑作だったな。なんで最後、火に油を注いだんだよ」
「いや、まああれは女も悪いよ。言いたくもなる」
「だとしても、なあ。俺らは部外者だ。思っても言うべきでないこともある。聞いてるのか、セラン」
「はあ。すいません」
セランは酒杯を手にしながら、会話に大きく乗っかるでもなく肉を食べていた。酒には強いらしく、幾ら飲んでも目の焦点は揺らがない。だが、自分へ向けられる話題には敏く、聖女の名が出れば耳だけが先に反応する。
「おまえ、あの聖女ちゃんと幼馴染のくせに、なんでそんな女心に無頓着なんだ。そんなんだから振り向いてもらえねえんだぞ」
「え」
肉を噛んでいた顎が止まった。
滅多に見せないほど無防備な顔だった。不意に核心を突かれ、返す言葉を失ったらしい。
俺は酒杯を傾けながら、その反応を見逃さなかった。
「好きなんだろ」
「いや、別に。あいつは、ただの同じ村の……」
否定は早かったが、語尾は鈍った。
ただの幼馴染に向ける目ではない。聖女を褒める声には黙り込み、縁談の噂には機嫌を悪くするくせに、自分からは何も求めない。理由までは分からなくとも、耐えていることだけは誰の目にも明らかだった
「まあ、そんじゃそれでいい。聖女ちゃんは、あれだけかわいいしな。女性の扱いに長けた貴族令息が選びたい放題だ。振られることすらなく、遠いところに行くだけだろう。応援してやりな」
セランの指が、酒杯の縁で止まった。
笑い飛ばすか、怒鳴り返すと思っていた。だが、金色の目は卓の一点へ落ちたまま動かなかった。聖女が誰かを選ぶという想像より、自分の知らない場所へ行くという言葉の方が深く食い込んだように見えた。
「……今のままじゃ、何がいけないんだよ」
低く落ちた声には、いつもの威嚇も、噛みつくような勢いもなかった。
その言葉で、少し認識が変わった。進んではならない理由があるだけではない。聖女様があまりに鈍く、こいつ自身も、幼馴染へ女としてどう向き合えばよいのか分かっていないのだ。
そう見えてしまった。
不機嫌ではある。だが、相手を退ける声ではなく、自分の不足を本当に尋ねていた。
「ちゃんと向き合え。おまえはとにかく、人っていうか、女性との関わりが浅そうなんだよな。家族以外の女とほとんど縁がないんだろ、どうせ」
「……」
反論はなかったが不満そうだった。眉間には皺が寄り、口元も明らかに不貞腐れている。それでも、違うとは言わなかった。
村みたいな狭い社会では、家族や幼馴染としての近さだけだ。女と男が互いを選び、距離を測る関係ではない。それでは、他人として女と向き合う術など身につかない。
俺は卓へ肘をつき、からかう調子を少しだけ引いた。
「特に、女の子ってやつは、もっと優しくしてやらなければならねえ。骨格が違う。構造が違う。社会が違う。得意なことも、受ける危険も、俺たちとは全然違う。だから彼女たちに合わせた立ち回りが必要になる」
セランは黙って聞いていた。
抽象的な情緒では理解できないのかもしれない。分かりやすい言葉を選んだ。
「守ればいいって話じゃねえ。助けた後に恥をかかせない。怖がってるなら、まず安心させろ。相手が何を望んでるか、自分で決めつける前に聞く。そうやって向こうに合わせるんだ」
セランの目が、わずかに細くなった。
これまでの態度を、一つずつ思い返しているのかもしれない。
「それを完璧にできれば、こっちも尊重される。感謝される。喜ばれる。……うまくやれば惚れられたりする。今まで身内みたいに雑に扱ってきた女だって、ちゃんと女として扱ってやれば、向こうだっておまえを見る目を変える……かもしれねえよな」
「……なる、ほど」
セランは、なんとなく腑に落ちた顔をした。
狩りの手順でも教わったように受け止めている。その生真面目さが可笑しく、周囲で聞いていた兵たちから笑いが漏れた。
セランは睨んだが、席を立つことはなかった。
そこからは他の面子も加わり、好みの女や聖女様との関係を好き勝手に問い始めた。
セランは決して肯定しなかった。
ただの幼馴染だ。守るのは昔からそうだっただけだ。綺麗かどうかなんて関係ない。そう言いながら、聖女が他の男へ嫁ぐ話になるたび、杯を置く手だけが重くなる。
否定すればするほど、周囲には分かりやすかった。
酒が進むほど架空の恋話は膨らみ、セランが否定するたび、それを肴に笑いが起きた。
夜が更ける頃には、女の扱いを知らないなら、まず知るところから始めろという話になっていた。
身分ある娘や、素人の女を相手に試すわけにはいかない。距離の詰め方も、触れ方も、相手の反応を見ることも、何一つ分からないというなら、金を払い、管理された場所で教わるのが一番早い。
「河岸を変えよう。次は接客してくれるあの店だ」
「いや、まず余裕が必要だろ。会計し終わったら自信をつけに行くぞ。最初はおごってやっから心配すんな」
そうして、しまいには――そんな話にまで膨らんだ。
「……」
セランは返事をしなかった。
酒杯だけを見つめたまま、考え込むように黙っていた。




