白黒の先にある今
あの青ざめた顔を見て、もう十分だと思いました。
ここで、カイルの過去の失態をリシェリア様に暴くのは野暮です。
一気に追い詰めるのではなく、こうして時々、彼の鉄面皮を微かに震わせるくらいがちょうどいい。
彼が崩れる瞬間を間近で見られるのは、私だけ。
そのくらいの権利は、私にもあるでしょう。
――そう。結局のところ。
食堂のあの場では、ほんの少しだけ。
穏便に、学生時代のカイルの失敗を、学友として知り得る範囲で軽く溢す程度にとどめました。
前提となる資料が古く、論文の結論がすべて誤っていたこと。彼が隠していた焼き菓子の欠片が書籍に挟まり、蟻を集らせて叱責されたこと。
「まあ。カイルったら。昔からお菓子を持ち込んでいたんですか?」
「いや……さすがに今は、食べ屑の出るものは持ち込まないようにしているから」
「という事はいまだにその悪癖は治っていないのですね。……リシェリア様。きちんと本を置いて別室で休憩をなさるように言ってくださいますか」
彼の尊厳は守って、笑えるように。けれど面子は、わずかに崩す。
それくらいで、許してあげることにしたのです。
婚約していたことまで、あえて明かしませんでした。
話せば、破談の内情まで持ち出すことになります。
でもそれは、諸刃。
きっと、破談を言い出した時、私がいなくなることを惜しんでほしかった。
そして破談した後は少しくらい困ってほしかったのです。
そもそも復興のことも、一人で抱えず相談してくれたなら、私も手伝えたはずで。
そこで手を取り合えていたなら、夜会で着飾った姿を披露するだけの婚約者ではなく、共に復興へ尽力する伴侶として彼の隣に立ち、自然と周囲にも認められていたのかもしれません。
それを当時提案できなかった、私自身の未熟さまで暴かれます。
すべてが彼だけの落ち度だったわけではない。それを、今なら認められます。
……だから、今の彼の人生を踏み荒らしすぎてはいけない。
そうしなければ、今の自分の幸せまで汚れてしまう気がしました。
あの頃があったから、きっと今があるのです。
けれど、その数日後、私は呼び出されました。
聖女ではなく、カイルの執務室に。
重たい扉をくぐると、机の向こうで彼は立ち上がり、深々と頭を下げていました。
「先日は……あの程度にしてくれて、本当にありがとう。また、当時の無礼や行き届かなかったことも、この場を借りて謝らせてほしい。本当に申し訳なかった」
驚くほど真剣な声音でした。
机に映る髪が灰色に光り、肩がわずかに震えていました。
私はしばし沈黙して、それから静かに言いました。
「――あの時まで、私の存在に気がついていなかったことも謝ってください。ずっと無視されていたのだと思って傷ついておりました」
その言葉に、彼の背がもう一度深く傾くのが見えました。
そして、その後ろに控えていた、ヘンリクの姿が目に入りました。
彼は婚約当時も、カイルの筆頭使用人。
かつてと変わらぬ姿のまま、丁寧に頭を下げました。
結婚すれば私にも仕えるはずだった彼と、婚約期間には何度も顔を合わせ会話もしていました。
彼が気が付かないはずはありません。
最初に気が付かなかったとしても、ヘンリクが注進していたら二回目では気が付いていたはず。
だからこそ、無視されていたのだと思い悩んでいたのです。
「まさかとは思いますけれど。ヘンリクも気がつかなかった?」
問いかけると、彼は寡黙な声で答えました。
「いえ……当然、存じてはおりましたが。言われずとも察するのが職責ですから……そういう方針なのかと判断しました」
「おい。そういうのは、確認してくれ……」
カイルがぼやくように言いました。
顔を上げたその目には、かすかな不貞腐れたような色が浮かんでいました。
「いや……家名が違うのもそうだが、眼鏡もかけるようになっているし印象が全然違って見えていたんだ。それにエリーネも、あの時より何もかも綺麗になっているから……でも、言い訳だな。すまない」
思わず笑ってしまいました。
「随分、お口の滑りが良くなったようですね。嘘でも嬉しいです。リシェリア様に、私たちがどのような婚約をしていたのか知られたくないですものね」
「そんなことはないよ」
彼は首を振り、ゆるく微笑みました。
「君と婚約していたことに恥ずべき点はない。恥ずかしいのは、当時の俺の振る舞いだ。今の君には、ゆとりがあって、愛されている人特有の空気がある。ちゃんと、あの頃より笑わせてくれる人がいるからだろう。……幸せが滲み出ている。俺は、それを出来なかった」
その言葉に、一瞬だけ息が詰まりました。
けれど、すぐに彼は目を伏せ、机の引き出しを開きました。
中から、包装された小箱。
「遅くなったけど……エリーネ・サンクレイ夫人。ご結婚おめでとう」
差し出された箱を開けると、中には名入りの石細工のペーパーナイフが収められていました。
銀白の刃に、私の現在の名前が彫られています。
「……あまりそぐわないかもしれないが、スタイン産の物だ」
指先で刃を撫でると、細かな文様が冷たく光りました。
結婚祝いに“縁を断ち切るもの”――なんて皮肉なものです。
世間なら、きっと不吉だと誹られるでしょう。
でも、私には妙にしっくりきました。
「私たちにぴったりの贈り物ですね。ありがとうございます。大切にします」
そう言って微笑んだ時、カイルも静かに頷きました。
ああ、たしかに。
これこそ、私たちにふさわしい贈り物です。
過去の澱を、未練を、心の底にこびりついた雑念を――。
ひと息に切り離してくれそうな、澄んだ刃でした。
「それにしても……カイルには随分遅く春が来たようですね。あんなあからさまな態度でよろしいのですか?」
口を開いた瞬間、空気がぴんと張りました。
机の上に並ぶ書類と硝子窓の光の間で、彼は固まったように瞬きを忘れています。
「な、な、な……」
灰紫の瞳が泳ぎ、声が掠れて途切れました。
その狼狽ぶりが、あまりにも見事で。
私は唇の端をゆっくり上げました。
「思ったより随分、少女趣味ですわよね。確かに、私にはあなたの相手は向いていなかったのでしょう。私に不備があったわけではないと、少し安心いたしましたけれど。そう思いませんか、ヘンリク」
わざと柔らかく、礼を崩さずに、それでいて分かりやすいからかいの言葉を選びました。
実際にリシェリア様は少女の年ではありません。
けれど、そう言ってしまって差し支えないほどに、稚い雰囲気を持っている。
そういう皮肉ほど、じわじわ効くと知っているからです。
「私の口からはお答えいたしかねます」
いつも通り、寡黙で冷静な返答。
けれど、その声の端には、わずかな苦笑が滲んでいました。
「いや、いや、いや。待ってくれ……勘弁してくれ……」
カイルは両手を上げ、情けない声を出しました。
「もちろん、あの当時の婚約解消だって、君に不備はなかった! ただ、俺は未熟で……失ったものを取り戻すことに必死で、周囲を見る余裕がなかった。今は領地も復興して、経営だって安定している。仕事も熟達して、焦ることもなくなった。――単純に、俺自身に余裕がなかったんだ」
一呼吸おいて、もう一度カイルが姿勢を正しました。
「君の一番輝かしい季節を曇らせて、時間を無為にさせたことだけは……申し訳なかった。本当に」
その言葉は、私の中に、まっすぐに落ちました。
声音には、あの頃にはなかった柔らかさがありました。
あの冷たさの奥にあったものへ、ようやく今なら触れられた気がしました。
「と、こう主も反省しておりますので、ご寛恕賜れますと幸いに存じます」
ヘンリクが小さく補足します。
「実は、皆様が思っているほど、主には余裕がないのです。昔から、没頭すると周囲が見えなくなる方ですし、少しでも余白ができれば、すぐ何かを抱え込まれる。冬を前にした熊のようなものでして……」
口調は平坦でしたが、長年の付き合いを感じる優しさが滲んでいました。
「ヘンリク!?」
「ふふ……ふふふふ、必死で可笑しい。いいわ。許して差し上げます」
笑うと、ようやく張りつめていた空気がほどけました。
昔の私なら、きっと悔しくて泣いていた。でも今は笑える。
それが嬉しかったのです。
「あと少女趣味とか、ではない。断じて。……リシェリアは特別なんだ」
顔を赤くして言い切る、その真っ赤な耳と真剣すぎる表情は、まるで初恋に戸惑う少年のような顔。
少しだけ、弄りたくなりました。
「……やはりリシェリア様には、あなたの当時の態度をお知らせした上で、検討してもらうのがよろしいかもしれませんね。私の後に婚約なさった方のお話も、風の噂で聞いておりますよ。随分泣かせたそうですね?」
確か彼女は、実家の領に帰っていったのだと聞きました。言葉にするのもはばかられるくらい、ひどい婚約状態だったらしいと聞いて、当時は留飲が下がったものでした。
冷ややかにそう言ってみせると、カイルはまた真っ青になりました。
「いや! それこそ頼む。そっちはどこをどう聞かれてもまずいんだ。……黙っていてくれ……」
その必死さに、つい堪えきれず笑ってしまいました。
声を上げて笑う私を見て、ヘンリクまでがわずかに口元をほころばせます。
書類の間に漂う懐かしい空気。
かつて同じ時間を過ごした三人――。
これからは、同じ職場での新しい関係になるはずです。
こじれた縁は綺麗に切ったからこそ、別の形で結び直せる。
これからはまた、新しい結び目を作っていけばいい。
過去の先には、こうして今が続いているのだから。




