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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
間章 灰色の黒歴史
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青い顔色の担当官

そんなカイルが――。

食事よりも学問、栄養よりも知識だったあの人が。


よもや、官吏食堂を定期的に利用するようになっていたなんて。

それを耳にした時、信じられませんでした。


あの人が、昼にわざわざ職員食堂まで降りて、同僚たちに混ざって食事を取るなんて。

私の知っているカイル・ラス・アーレンスは、昼も夜も書斎にこもって研究書を広げ、食事を抜いても筆を止めない人でした。


……なのに。


その頃にはもう、庁内の誰もが知っていました。

カイルが“聖女”に心を奪われていることを。


驚くほどの変わりようでした。


週に一度、あの男が。まるで学生の恋人のように、聖女と並んで食堂に現れる。


聖女が何かを話せば、柔らかく微笑んで聞き入る。

器の端に残った果実を、さりげなく譲る。

視線を交わすたびに、世界が彼女だけで満たされていくようでした。


……言葉にならない悔しさがありました。


リシェリア――あの聖女が、ただの平民上がりの浅学な少女だということは、もう知っていました。


誰よりも近くで彼の知を支えた自分が届かなかったのに。

まだ学びの途上にある彼女には、手を伸ばす。


軽蔑よりも、突き刺さる劣等感の方が強かったのです。

あの人にとって、私はそれ以下の存在だったのだと。


その日も、食堂で二人は談笑していたようです。

卓の前を通りかかったのは、本当に偶然でした。


無視するつもりで、声をかける要件もありませんでした。

それなのに、——ただ、なぜか足が止まりました。


彼と、聖女。


陽の差し込む窓際の席で、向かい合って笑っていました。

白銀の髪が光を受け、柔らかく揺れる。

カイルの頬には、穏やかな色が浮かんでいました。


あの人が、あんな表情を――。


息をひそめて立ち尽くしていると、彼女が気づきました。


「御機嫌よう、サンクレイ様、良かったらお昼に同席いかがでしょうか」


リシェリアが立ち上がり、にこりと笑います。

その所作は美しく、愛らしく、無防備で、私の悪意に気が付いていない。


それゆえに……空気を読めないのかもしれません。


「サンクレイ様は、算学以外にも経済にお詳しいと聞いたのですが、よかったらお話をお聞かせくださいませんか」


立ち上がって丁寧に礼までされては、無視するわけにもいきません。


完璧な敬意。

人を拒めないように作られた微笑み。

私なんかと違い、聖女とは『人に愛されるようにできている』。……そういうものなのだと思いました。


「ご機嫌よう、リシェリア様。アーレンス様。……昼餐の話題にそのようなことを?」


苦笑で返しながらも、胸の奥がざらつきます。

久しぶりに彼と同じ空気を吸って、言葉がうまく出てきませんでした。


よりにもよって、算学の話題――。


話したくない。


言ったところで、どうせわからないはずです。

私の専門で、社会で生きるための生業で……そして、それはかつて私とカイルを結んだ唯一の糸なのに。

それを私から奪われるような気がしました。


「あ、ええ、そんなご気分でなければ、もちろん別の話題でも構いません。サンクレイ様とはあまりお顔を合わせられないものですから、交流出来たら嬉しいなと思いまして」


「え、ええ。……そうですね」


自分でもどうすべきか、どうしたいのかが見つけられずに、詰まりました。

そんなふうに、言葉を探していたところに、追い打ちをかけるようにカイルが声を重ねたのです。


「リシェリア。サンクレイはどうも困っているようだし、用事があるのかもしれない。あまり無理を言わない方が良い。たまには、その。……二人きりの昼食で、いいんじゃないかな」


カイルこちらを見ずに、リシェリアだけを横目に言い放った言葉の肌触りに、思わず悋気が立ってしまいました。


おそらく本心から、彼女と二人きりにしてほしいのでしょう。私も、その意図に乗ってあげて、貸しを作っても良かったです。


でも、出来ない。


それよりも、私の都合を言い訳にする卑怯さに……腹が立ったのです。


「いいえ、私は構いません。ですが、私が同席するのは、アーレンス様のほうに不都合があるかと思います。ですので、辞退させていただくのがよろしいかと存じます。そうでしょう?」


真正面に、元婚約者と同席が気まずいと吐露するのか、それとも奇想天外な言い訳を繰り出すのかを楽しみましょう。


目だけでも謝るのか、それともそのまま無視を決め込むのか。

私のために歪む表情を見せてもらうことくらいが、せめてもの慰めだと思うことにしたのです。


「カイルに不都合が? そうなのですか?」


リシェリアが振り返り、無邪気に尋ねました。


「え? いや、別に?……サンクレイ。なぜだ?」


まさか。


そこまで??


思わず、顔を向けると、カイルも丁度私に向き直っていました。

私と面と向かう灰紫の瞳は、ただ、同僚を見るように怪訝そうに、私を映していました。


カイルとまっすぐに顔を合わせた三年ぶり。


本当に、相変わらず、憎たらしい程に。

なんて美しい顔なのでしょうか。


――覚えて、ない。


あの婚約を。

あの破談を。

あの時の言葉を。


なかったことにして、生きている。


なんて……何て、不愉快なの。


「……理由を申し上げてしまうと、アーレンス様に差し障りがあるかと思うのですが」


棘を含んだ声が、自分でも分かるほど冷えました。

周囲の空気が、わずかに張り詰めます。


「どういうことだ」


カイルの眉が寄りました。

本当に、分からないという顔でした。


ああ、そう。貴方はそういう人よね。

切り捨てた過去を、思い出しもしない人。


内心で罵倒の言葉があふれそうになり、思わず呑み込む。

そう来るのならこちらも、もう遠慮などいたしません。


「承知いたしました。私、同席させていただきます。ぜひ、リシェリア様にお話ししたい話題を思い出しましたので」


リシェリアが小首を傾げ、嬉しそうに笑います。

私は卓の椅子を引いて勝手に腰掛けます。


「まあ、なんでしょう?」


「アーレンス様は、もちろんご存じかと思いますが」


唇が自然に冷たく吊り上がりました。わずかな意趣返し。

かつての婚約者してではなく、同じ祭祀官としてでもなく。

一人の人間として――彼の記憶に、(エリーネ)という人間を、今度こそ覚えて帰っていただきましょう。


「私、婚前は北方に領地のございます、スタイン公爵家に連なる傍流の生まれでして――エリーネ・スタインという名で学院で学んでおりました」


その名を告げた瞬間。


金属の鋭い音が、静まり返った食堂にひときわ高く響きました。


カイルの手元から、銀器が滑り落ちていました。

銀のフォークが卓を転がり、皿の縁に当たって小さく跳ねます。

周囲の官吏たちがちらりと目を向けましたが、私はそれに気づかないふりをして、穏やかに続けました。


「スタイン家を名乗る者は、建築を学ぶことも義務としておりまして。学院におりました頃は、アーレンス様とはその分野で特に親密に、お話をさせていただいておりました」


声を震わせることなく、穏やかに。

けれど、その言葉の一つひとつに、ゆっくりと針を通すような満足が滲んでいました。


「まあ、ご学友だったんですね」


リシェリアが手を合わせて、にこりと微笑みました。

その笑顔はまるで子どものように無邪気で、残酷でした。


「ええ、同じ方に師事しておりまして、当時は机を並べていたのです」


「じゃあ、学院での失敗話なんかもご存じかもしれないですね。ふふふ、それはカイルも怖いかもしれません」


カイルは、何も言わず、真っ青な顔で硬直していました。

食堂の明るい光の下で、灰紫の瞳が信じられないほど狼狽えていました。


――ふふ。こんなカイルを見るのは初めてでした。


どれほど高官になろうと、この人が私の言葉ひとつで動揺する。

そう思うだけで、胸の奥に甘く泡立つような感覚が広がりました。


「あ、エ、エリーネ……」


緩やかに首を振りながら、私の名前を呼ぶ様は、哀れにも慈悲を乞うような顔をしています。

あの理知的で冷たい面影が、今は溶けてしまいそうに崩れていました。


「その。あまりに無様な時のことは……勘弁してほしい。後生だから」


口の端が勝手に上がりました。笑いを堪えるのが難しい。


「その呼ばれ方は、当時を思い出して懐かしいですね。アーレンス様。いえ――ここは私も昔に戻って、“カイル”とお呼びしましょうか」


自分でも驚くほど、自然に声が弾みました。

胸の奥に積もっていた澱が、音を立てて溶けていく。


喉の奥を塞いでいた塊が、ようやく流れ出すような心地よさ。

救いにも似た清涼さが、身体の芯を満たしていきます。


彼が震え、顔を逸らし、血の気が引いて青くなる。


――ああ、こんな顔をするのね、カイル。


ここに鏡を持ち込んで彼の前に置いてしまいたい。

そして、自分の無様な姿を見て、思い知ってほしい。


その様子を見て、私はきっと人生で一番、笑顔を浮かべていました。

それは復讐を果たした笑みではなく、三年前に置き去りにして見失っていた本音と、ようやく出会えたような、安堵でした。

自分の無様な姿を見ろ……つまり、ざまあシーンです。

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