見知らぬ色の元婚約者
祭祀庁で顔を見かけるようになったカイルは、それまでとまったく変わりませんでした。
有能で、不愛想で、誰にも馴れ合わない。
同僚と雑談を交わすこともなく、昼食の時間も黙々と机で簡素な携行食をとる。
会議では必要な報告だけを淡々とこなし、終わればすぐに席を立つ。
砕けた談笑も、火花散る対立もありません。
誰かの悪口を言うでも、媚びを売るでも、派閥を作るでもありませんでした。
そのため、少しだけ煙たがられてはいても、誰かに特別扱いされることもありませんでした。
ただ、そこにいる。
それだけで成立してしまう存在でした。
灰色の髪を無造作に流し、書架の影で紙束へ目を走らせている姿は、まるで風景の一部のようでした。
言葉も、仕草も、時間の使い方までも。無駄が一つもない、そんな男でした。
その彼に、以前とは違う一面が見えるようになった――と庁内で噂が立ち始めたのは、次代の聖女の担当祭祀官に選定された時からでした。
……あの人が、聖女付きに。
それを耳にした瞬間、胸の奥が小さくざわめきました。
今までは外から観察していただけだから、平静でいられたのに。
聖女関係の会計は、王国の通常予算とは別立てになります。
宗務と儀式、衣装や供物、随行費、各地の癒し行事にかかる支出。
その管理を任されていたのが、聖女執務室の会計担当官――そして、それが私の職務でした。
そうなれば、私とカイルは表立って関わらなければなりません。
……今この職場で、私とカイルがかつて婚約していたことを知る者はいません。
爵位を持たない領地貴族と、公爵家傍流の子女との婚約です。
そのうえ、社交界で並んで立ったことも、噂に上るような交際をしたわけでもありません。
もし知っていたとしても、関係ありません。
終わったことで、これは仕事なのですから。
そう言い聞かせました。
けれど、心の奥には、ほんの少しだけざらつくものが残っていました。
毎月一度、予算執行の報告と確認のために彼と顔を合わせます。
几帳面な彼のことですから、質疑の必要もないほど完璧な書類を侍従に持たせてくるでしょう。
どうせ、事務的な書面でのやり取りくらいしかないはずです。
そう分かっていても、緊張しました。……それでも、どこか誇らしかったのです。
――あの、私が袖にした男が。
今もなおこれほど美しく、冷徹なほど頭がよく、信頼も厚く、誰にも染まらない。
若くして名誉ある職を得て、出世間違いなしの男になっている。
そう思うと、胸の奥が妙にざわつきました。
嫉妬にも似た、懐かしいような、そしてほんの少し……刺激のような感情。
――もし、彼がまだ私を覚えていたら。
――もし、わずかにでも未練を持っていたら。
そんなことを考えてしまったのは、自分でも可笑しいと思います。
けれど、そう思わずにはいられませんでした。
そして迎えた、初めての提出日。
「本日から本部屋を担当いたします。……エリーネ・サンクレイ会計官です。よろしくお願いいたします」
そう告げた時、自分の声が少しだけ強張っていたのを覚えています。
“サンクレイ”――婚姻後の家名。
舌にのせて発すると、かすかな違和感がありました。
「ああ、カイル・ラス・アーレンス上級祭祀官だ。よろしく頼む。それでは、こちらが当月の分だ。持ち帰ってくれ」
短く、それだけでした。
彼はこちらをちらりと見ただけで、すぐに視線を戻しました。
そのまま、整然と束ねられた書面を机に差し出します。
墨の香りがわずかに漂いました。
周囲には見知った侍従も、文官も数名いました。
公務の場らしく静まり返った空気。
期待していたような――懐かしさのかけらもありません。
微笑みも、驚きも、沈黙の奥に潜む揺らぎさえありませんでした。
ただ一瞬、灰紫の瞳がこちらを映し、それだけで通り過ぎました。
まるで、かつての婚約など最初から存在しなかったかのように。
……けれど、不思議と安堵しました。
あの時の破談は正解だったのだと、改めて思えたからです。
冷静で、几帳面で、感情の起伏を表に出さない。
彼の本質は、やはり変わっていなかったのです。
今の夫との生活は、穏やかで、何の問題もありません。
夫は優しい人です。
食卓に並ぶ料理を共に味わい、私の話を聞いてくれる。
私が学を生かし、働き続けることを許してくれています。
夜会へ出る時は付き添い、帰り道には必ず手を貸してくれます。
いずれ私も、子供を得て、家を守ることに専念するかもしれません。
それでも――。
かつてカイル・ラス・アーレンスの婚約者だったという事実は、私にとってひとつの誇りでもありました。
あの冷たく、美しい男。
あの理知の塊のような人間に、一時でも“選ばれた女”として隣に立てた。
それだけで、過去は少しだけ煌めいていました。
……ほんの一瞬の、幻のような輝きだったとしても。
けれど、その安堵は、思いがけず早く揺らぎました。
提出された会計書類は、完璧ではなかったのです。
カイルが、凡ミスを?
そう思った瞬間、胸の奥にざらつく違和感が走りました。
彼の性格を知っています。
そんなことは、ありえません。
平時は取次ぐ侍従や文官が間違えた?
いいえ、この書類は挨拶の時に手渡しされました。
仕方なく、再確認のために聖女執務室を訪ねることにしました。
書類の不備は、形式上の指摘で済ませられる程度のもの。
本来なら、文官を通して済ませられます。
――けれど、どうしても自分の目で確かめたかったのです。
扉を叩き、静かな声で告げました。
「失礼いたします。不備がございましたので参りました。アーレンス様、こちらの二項目は処理できません」
返答を聞くより先に、視線が吸い寄せられました。
そこにいたのは、当代聖女になった――リシェリア様。
銀の髪をゆるくまとめ、淡い色の聖女服に身を包み、書物を片手に書棚の前に立っていました。
その背後には、カイル。
……彼の手が、彼女の肩の近くまで伸びていました。
何かを教えるための、ただそれだけの動作だったのかもしれません。
けれど、その距離の近さに、私は目を奪われました。
彼女の髪に、カイルの指先がかすかに触れそうでした。
空気が一瞬、止まりました。
カイルは、はっとして肩を引き、手をそっと隠しました。
頬がわずかに赤く染まっていました。
――あの、無表情なカイルが。
「どれだろう。……ああ、申し訳ない。こちらは私物の領収書だ。あともう一枚は教本だな。聖女のための教本だが、経費にできないなら、メイスン家宛てに請求してほしい。許可は得ている」
言葉は整然としていました。
けれど、その声の奥には、かすかな乱れがありました。
私にはそれが分かりました。
まるで何事もなかったかのように振る舞っていましたが――明らかに動揺していたのです。
いきなり扉を開け放ったわけでもなかったのに。
きちんと戸を叩き、入室の許可を得て、侍従が通してくれていたのに、カイルは他人が入ってくることを失念していたかのように、無防備でした。
机の上には、開かれた初級教本。
初心者向けの祭祀理論が並ぶ、簡単な内容。
「……随分、初級の教本のようですが」
つい、口から出た言葉が揚げ足を取るものだった自覚はありました。
経費で落とすには、必要性の説明が要ります。この人が、そんな基礎を学ぶはずもありません。
表情を取り繕いながらも、頬を染めているカイルが――妙に気に障ったからでもあります。
その時、聖女が慌てるように振り返って言いました。
柔らかな声で、少し恥じらうように。
「サンクレイ様。申し訳ございません。私が未熟で、指導いただくために必要でした」
……なるほど。
特に異を唱えるほどもない説明、それにカイルも、まるで庇うように補足してみせました。
「そう。彼女……リシェリアは、本当に素人で。半年前から指導しているんだが、ところどころ足りない部分がある。庁内に合う水準の書籍がなかったために購入した。終了後は庁内図書室に寄贈する予定だ」
淡々とした説明、けれど――私の耳には、わずかな温度が混ざって聞こえました。
“リシェリア”。
その名を呼ぶ時の、柔らかな声音。
かつて私の名を呼んだ、どの瞬間よりも優しくて、思わず後ずさりました。
「承知しました。それでは書籍については照会の上、そのように処理いたします」
部屋を退出したあと、足音が妙に響きました。
革靴の底が石床を叩くたびに、胸の奥で波立つような苛立ちが広がっていきます。
――聖女。
先ほどのことを思い出しただけで、息が詰まるような苦しさを感じました。
聖女といえば、良家の子女が候補となり、民の希望として信仰の象徴に据えられるものです。
美しい容姿、優れた異能、清らかな振る舞い。
そうした分かりやすい要素が、人々の目を惹く役目です。
もちろん、実際にはそれだけではないのでしょう。
祭祀庁に勤める身として、私もそれくらいは理解しています。
けれど――。
彼女は、私たち貴族令嬢が身につけるような祭祀の知識や、社交、政治に関わる教育を十分に受けた女性ではない。
とくにあのリシェリア様は、聖女候補の中で、座学が最低だった少女。
顔と異能に恵まれているだけの、……平民の小娘。
そうでなければ、納得できません。
……カイルも、結局は俗物だったんですね。
あれほど冷静で、理論と実務を何より重んじていた彼が。
若く、可憐で、何も知らない少女の柔らかな髪へ、手を伸ばそうとしていた。
脳裏に、先ほどの光景が蘇りました。
肩へ伸びた手。
その直後に浮かんだ、頬の赤み。
あれは、彼の中の、もっと人間的なもの。
理性ではなく、本能。
まだ結婚を諦めていない。
それとも領地の復興が落ち着いたから、ようやく本性を現したのでしょうか。
それは、あまりにも普通で、低俗で、今までのカイルらしからぬ……ありきたりな男性の一般的な嗜好でした。
若くて、愛らしくて、無知で守りたくなる。
そんなところに心を奪われたのだったら。
……くだらない。
そんな黒い感情が、静かに、しかし確実に胸の底へ湧いていきました。
聖女様も、可哀想に。
そんなあの男の甘い顔に惹かれても、きっとすぐに失望します。
彼は優しさを持たない。
心を通わせない冷たい壁を、あの少女もいずれ知ることになるでしょう。
――せめて。
どうせ誰かに惹かれるのなら、手の届かないほどの女傑にしてほしかった。
立っているだけで空気が張り詰めるような、才覚と威厳のある女性。
そういう人なら、釣り合います。
そうであってほしかったのです。
そうであれば、私の人生を否定されたような、こんな敗北感はなかった。
孤高のあの人が、安っぽい色に染まる姿など、見たくありませんでした。




