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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
間章 灰色の黒歴史
335/365

見知らぬ色の元婚約者

祭祀庁で顔を見かけるようになったカイルは、それまでとまったく変わりませんでした。


有能で、不愛想で、誰にも馴れ合わない。


同僚と雑談を交わすこともなく、昼食の時間も黙々と机で簡素な携行食をとる。

会議では必要な報告だけを淡々とこなし、終わればすぐに席を立つ。

砕けた談笑も、火花散る対立もありません。

誰かの悪口を言うでも、媚びを売るでも、派閥を作るでもありませんでした。


そのため、少しだけ煙たがられてはいても、誰かに特別扱いされることもありませんでした。


ただ、そこにいる。


それだけで成立してしまう存在でした。


灰色の髪を無造作に流し、書架の影で紙束へ目を走らせている姿は、まるで風景の一部のようでした。

言葉も、仕草も、時間の使い方までも。無駄が一つもない、そんな男でした。


その彼に、以前とは違う一面が見えるようになった――と庁内で噂が立ち始めたのは、次代の聖女の担当祭祀官に選定された時からでした。


……あの人が、聖女付きに。


それを耳にした瞬間、胸の奥が小さくざわめきました。


今までは外から観察していただけだから、平静でいられたのに。


聖女関係の会計は、王国の通常予算とは別立てになります。

宗務と儀式、衣装や供物、随行費、各地の癒し行事にかかる支出。

その管理を任されていたのが、聖女執務室の会計担当官――そして、それが私の職務でした。


そうなれば、私とカイルは表立って関わらなければなりません。


……今この職場で、私とカイルがかつて婚約していたことを知る者はいません。


爵位を持たない領地貴族と、公爵家傍流の子女との婚約です。

そのうえ、社交界で並んで立ったことも、噂に上るような交際をしたわけでもありません。


もし知っていたとしても、関係ありません。


終わったことで、これは仕事なのですから。


そう言い聞かせました。


けれど、心の奥には、ほんの少しだけざらつくものが残っていました。


毎月一度、予算執行の報告と確認のために彼と顔を合わせます。

几帳面な彼のことですから、質疑の必要もないほど完璧な書類を侍従に持たせてくるでしょう。


どうせ、事務的な書面でのやり取りくらいしかないはずです。


そう分かっていても、緊張しました。……それでも、どこか誇らしかったのです。


――あの、私が袖にした男が。


今もなおこれほど美しく、冷徹なほど頭がよく、信頼も厚く、誰にも染まらない。

若くして名誉ある職を得て、出世間違いなしの男になっている。


そう思うと、胸の奥が妙にざわつきました。


嫉妬にも似た、懐かしいような、そしてほんの少し……刺激のような感情。


――もし、彼がまだ私を覚えていたら。

――もし、わずかにでも未練を持っていたら。


そんなことを考えてしまったのは、自分でも可笑しいと思います。

けれど、そう思わずにはいられませんでした。


そして迎えた、初めての提出日。


「本日から本部屋を担当いたします。……エリーネ・サンクレイ会計官です。よろしくお願いいたします」


そう告げた時、自分の声が少しだけ強張っていたのを覚えています。


“サンクレイ”――婚姻後の家名。


舌にのせて発すると、かすかな違和感がありました。


「ああ、カイル・ラス・アーレンス上級祭祀官だ。よろしく頼む。それでは、こちらが当月の分だ。持ち帰ってくれ」


短く、それだけでした。


彼はこちらをちらりと見ただけで、すぐに視線を戻しました。

そのまま、整然と束ねられた書面を机に差し出します。


墨の香りがわずかに漂いました。

周囲には見知った侍従も、文官も数名いました。


公務の場らしく静まり返った空気。


期待していたような――懐かしさのかけらもありません。

微笑みも、驚きも、沈黙の奥に潜む揺らぎさえありませんでした。


ただ一瞬、灰紫の瞳がこちらを映し、それだけで通り過ぎました。


まるで、かつての婚約など最初から存在しなかったかのように。


……けれど、不思議と安堵しました。

あの時の破談は正解だったのだと、改めて思えたからです。


冷静で、几帳面で、感情の起伏を表に出さない。

彼の本質は、やはり変わっていなかったのです。


今の夫との生活は、穏やかで、何の問題もありません。


夫は優しい人です。

食卓に並ぶ料理を共に味わい、私の話を聞いてくれる。

私が学を生かし、働き続けることを許してくれています。

夜会へ出る時は付き添い、帰り道には必ず手を貸してくれます。

いずれ私も、子供を得て、家を守ることに専念するかもしれません。


それでも――。


かつてカイル・ラス・アーレンスの婚約者だったという事実は、私にとってひとつの誇りでもありました。


あの冷たく、美しい男。

あの理知の塊のような人間に、一時でも“選ばれた女”として隣に立てた。


それだけで、過去は少しだけ煌めいていました。


……ほんの一瞬の、幻のような輝きだったとしても。


けれど、その安堵は、思いがけず早く揺らぎました。

提出された会計書類は、完璧ではなかったのです。


カイルが、凡ミスを?


そう思った瞬間、胸の奥にざらつく違和感が走りました。

彼の性格を知っています。


そんなことは、ありえません。


平時は取次ぐ侍従や文官が間違えた?

いいえ、この書類は挨拶の時に手渡しされました。


仕方なく、再確認のために聖女執務室を訪ねることにしました。


書類の不備は、形式上の指摘で済ませられる程度のもの。

本来なら、文官を通して済ませられます。


――けれど、どうしても自分の目で確かめたかったのです。


扉を叩き、静かな声で告げました。


「失礼いたします。不備がございましたので参りました。アーレンス様、こちらの二項目は処理できません」


返答を聞くより先に、視線が吸い寄せられました。


そこにいたのは、当代聖女になった――リシェリア様。


銀の髪をゆるくまとめ、淡い色の聖女服に身を包み、書物を片手に書棚の前に立っていました。


その背後には、カイル。


……彼の手が、彼女の肩の近くまで伸びていました。


何かを教えるための、ただそれだけの動作だったのかもしれません。

けれど、その距離の近さに、私は目を奪われました。


彼女の髪に、カイルの指先がかすかに触れそうでした。


空気が一瞬、止まりました。


カイルは、はっとして肩を引き、手をそっと隠しました。

頬がわずかに赤く染まっていました。


――あの、無表情なカイルが。


「どれだろう。……ああ、申し訳ない。こちらは私物の領収書だ。あともう一枚は教本だな。聖女のための教本だが、経費にできないなら、メイスン家宛てに請求してほしい。許可は得ている」


言葉は整然としていました。


けれど、その声の奥には、かすかな乱れがありました。


私にはそれが分かりました。


まるで何事もなかったかのように振る舞っていましたが――明らかに動揺していたのです。


いきなり扉を開け放ったわけでもなかったのに。


きちんと戸を叩き、入室の許可を得て、侍従が通してくれていたのに、カイルは他人が入ってくることを失念していたかのように、無防備でした。

机の上には、開かれた初級教本。

初心者向けの祭祀理論が並ぶ、簡単な内容。


「……随分、初級の教本のようですが」


つい、口から出た言葉が揚げ足を取るものだった自覚はありました。


経費で落とすには、必要性の説明が要ります。この人が、そんな基礎を学ぶはずもありません。

表情を取り繕いながらも、頬を染めているカイルが――妙に気に障ったからでもあります。


その時、聖女が慌てるように振り返って言いました。


柔らかな声で、少し恥じらうように。


「サンクレイ様。申し訳ございません。私が未熟で、指導いただくために必要でした」


……なるほど。


特に異を唱えるほどもない説明、それにカイルも、まるで庇うように補足してみせました。


「そう。彼女……リシェリアは、本当に素人で。半年前から指導しているんだが、ところどころ足りない部分がある。庁内に合う水準の書籍がなかったために購入した。終了後は庁内図書室に寄贈する予定だ」


淡々とした説明、けれど――私の耳には、わずかな温度が混ざって聞こえました。


“リシェリア”。


その名を呼ぶ時の、柔らかな声音。


かつて私の名を呼んだ、どの瞬間よりも優しくて、思わず後ずさりました。


「承知しました。それでは書籍については照会の上、そのように処理いたします」


部屋を退出したあと、足音が妙に響きました。


革靴の底が石床を叩くたびに、胸の奥で波立つような苛立ちが広がっていきます。


――聖女。


先ほどのことを思い出しただけで、息が詰まるような苦しさを感じました。


聖女といえば、良家の子女が候補となり、民の希望として信仰の象徴に据えられるものです。


美しい容姿、優れた異能、清らかな振る舞い。


そうした分かりやすい要素が、人々の目を惹く役目です。


もちろん、実際にはそれだけではないのでしょう。


祭祀庁に勤める身として、私もそれくらいは理解しています。


けれど――。


彼女は、私たち貴族令嬢が身につけるような祭祀の知識や、社交、政治に関わる教育を十分に受けた女性ではない。


とくにあのリシェリア様は、聖女候補の中で、座学が最低だった少女。


顔と異能に恵まれているだけの、……平民の小娘。


そうでなければ、納得できません。


……カイルも、結局は俗物だったんですね。


あれほど冷静で、理論と実務を何より重んじていた彼が。


若く、可憐で、何も知らない少女の柔らかな髪へ、手を伸ばそうとしていた。


脳裏に、先ほどの光景が蘇りました。


肩へ伸びた手。


その直後に浮かんだ、頬の赤み。


あれは、彼の中の、もっと人間的なもの。


理性ではなく、本能。


まだ結婚を諦めていない。

それとも領地の復興が落ち着いたから、ようやく本性を現したのでしょうか。


それは、あまりにも普通で、低俗で、今までのカイルらしからぬ……ありきたりな男性の一般的な嗜好でした。


若くて、愛らしくて、無知で守りたくなる。

そんなところに心を奪われたのだったら。


……くだらない。


そんな黒い感情が、静かに、しかし確実に胸の底へ湧いていきました。


聖女様も、可哀想に。


そんなあの男の甘い顔に惹かれても、きっとすぐに失望します。


彼は優しさを持たない。


心を通わせない冷たい壁を、あの少女もいずれ知ることになるでしょう。


――せめて。


どうせ誰かに惹かれるのなら、手の届かないほどの女傑にしてほしかった。

立っているだけで空気が張り詰めるような、才覚と威厳のある女性。


そういう人なら、釣り合います。

そうであってほしかったのです。


そうであれば、私の人生を否定されたような、こんな敗北感はなかった。

孤高のあの人が、安っぽい色に染まる姿など、見たくありませんでした。

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