色のない婚約者
カイルの元婚約者の一人の話となります
カイル・ラス・アーレンスという男は、美しくて、そして評判の悪い男の人でした。
私はエリーネ・サンクレイ。……かつて、その男の婚約者でした。
正確には、二人目の元婚約者です。
だからこそ、彼の評判がどこまで真実で、どこからが周囲によって作られたものだったのかを、私は少しだけ知っています。
アーレンス家は、もともと爵位こそ持たないものの、堅実な経営と人の縁に恵まれた、温かな領主家だったと聞いています。
当主のエイリク・アーレンス様は、朗らかで社交的な紳士でした。
多くの人と自然に縁を結び、誰もが心を開いてしまうような方だった。
当時、誰にも靡かないと謳われた国随一の美しい令嬢、アリアン様の心を射止めたことでも有名でした。
二人の御子にも、それぞれ異なる才があったそうです。
姉君は母君譲りの治癒の異能と父君譲りの明るさを。弟君であるカイルは、母君の美貌と知性を。
何事もなければ、穏やかで順風満帆な一家だったはずでした。
すべてが変わったのは、彼の家が災厄に見舞われたからです。
あの年、山が崩れ、川が氾濫し、村がひとつ消えました。
アーレンス領は一夜にして広い範囲が濁流に沈み、田畑も牧草地も失われた。
領主邸は高台にあったため流れを免れ、そこに残されていた幼いカイルだけが生き延びました。
けれど、彼の家族は領主一家の務めとして、率先して民を救うため雨の中へ出ていった。
父君は領内の避難を指揮し、母君と姉君は避難所に救護へ向かった。
それを最後に、誰も戻らなかったということでした。
残されたカイルはまだ幼く、実際の領地運営には後見を必要としました。
それでも、すでに当主教育を受けていたことに加え、父君と親交の深かったメイスン家、遠縁にあたるイェルス家から支援と口添えを受け、家督と領主権の継承を認められました。
しかし、失われたものを取り戻す道は険しかった。
人も土地も収穫も押し流され、その年の納税を免除されても、残されたものを維持するだけで精一杯だったでしょう。
そして、その時に彼は知ったのだと思います。
父君が築いてきた多くの縁が、すべて同じものではなかったことを。
父君は社交に長けた方でした。
多くの貴族と笑顔を交わし、信頼を積み重ねていた。けれど、家勢を失った途端、その多くは離れていった。
以前は親しげに名を呼んでいた者が、今度は距離を置く。
心配する言葉を向けながら、実際には関わりを避ける。
貴族社会とは、そういうものだと幼いカイルは知ったのでしょう。
当然、すべてがそうだったわけではありませんでした。
父君の本当の友であったイングラム様は、友情だけではなく、王家に連なる貴族としての責務を果たし、アーレンス家を支え続けた。
遠縁であるイェルス家も、上位に立つ家として相応しい支援を惜しまなかった。
だから彼も、人そのものを信じなくなったわけではないのだと思います。
ただ、誰にでも向けられる笑顔や、美辞麗句だけで繋がる親しさを信じなくなった。
それが、後の彼の性格を形作ったのだと思います。
カイルの評判を悪くした最大の原因は、その失望からくる彼の振る舞いでした。
顔立ちは、母君譲りで本当に絵のように美しかった。
灰紫の瞳は冷たく光を返し、灰色の髪はいつ見ても乱れなく整っていて、穏やかに微笑みさえすれば、多くの人が目を奪われたことでしょう。
実際、彼が社交界へ顔を出すようになった当初は、多くの貴族令嬢がこぞって近づいていったものです。
ですが、父君の人柄を知る者が見れば、あまりにも印象が違うと感じるほど、彼は朗らかさも柔らかさも振りまかなかった。
茶会、夜会、舞踏会。
華やかな場所で交わされる言葉の多くを、彼は価値あるものとは見なさなかった。
相手の家勢によって態度を変え、昨日まで親しかった相手を、今日は知らない者のように扱う。
そうした関係を、彼は嫌悪していたのでしょう。
「趣旨は理解します。ですが、形式的な言葉の応酬に時間を費やすより、実のある話をした方が有意義ではありませんか」
礼儀を欠いているわけではない。ただ、彼の言葉には相手に合わせるための余白がなかった。
不愛想にそう言われた者たちは、表では愛想笑いでその場を辞し、裏で嘲っていたのを耳にしました。
学院や能力では高く評価されても、私生活では孤立している。
そんな評判が広がる中で、私は彼と出会いました。
きちんと知り合ったのは、高等学院で同じ師についた時でした。
その講義で、彼はどの生徒よりも静かに、けれど誰より正確に答えを導き出す人でした。
筆先が静かに走るたび、複雑に絡み合った理の筋道が、紙の上で整えられていくようだった。
私は書かれた内容だけではなく、その端正な筆跡にさえ見入ってしまったものです。
カイルは美しくて、単純に私の好みの男性でした。
当然、顔立ちだけではありません。
理路整然とした思考を持ち、必要とあれば前提そのものを組み替える柔軟さもある。あの社交を疎んじるカイルも、学問の場であれば、いくらでも時間を割いて言葉を交わしてくれました。
そして、学びに発見や結論があった時には、彼はほんの少し年頃らしい表情を見せてくれたのです。
その瞬間だけ見える人間らしさに、私は惹かれました。
少なくとも、少なくとも、他の令嬢たちとは違って、私は確かにカイルの友人でした。
――この人は、きっと私にしか理解できない。
そう思っていました。
だから、彼が縁談相手を探していると知った時、私の運命だと、……思ったのです。
彼に不足しているのは、能力ではありませんでした。
治水を知る者。農地を再整備する技術者。領内行政を補佐する人材。職人や商人との繋がり。災害で失われた縁でした。
それなら、私の家から与えられるものがある。
私はスタイン公爵家の傍流、スタイン子爵家の次女でした。本家ほどの権勢はなくても、北方の名門に連なる家として、公爵領の財務や行政に関わる知識、人脈、技術を受け継いできた。
私と私の家には、彼を支える力があると思ったのです。
彼の再建に、私の存在が必要になる。
彼に必要とされて、他の令嬢とは違う存在として、自分が選ばれる。
彼の未来のどこを見ても、きっと私の働きが残ります。そして彼の人生に欠かせない存在になれば、きっと愛情も伴う。
そう考えた時、胸の奥に甘い喜びが湧きました。
……今になって思えば、それは彼の未来を支配したいという欲だったのかもしれません。
もちろん、彼が私との婚約を了承したのも、条件が合ったからです。
私には家柄があり、教養があり、領地経営について彼と話すことができた。
彼にとって私は、信頼できる協力者になり得る存在だったのでしょう。
けれど、私はそこに愛情が重なっていくものだと思っていました。
父は質実剛健な人で、昔気質の礼儀や勤勉を重んじていましたが、同時に学問や知識を深く尊ぶ人でもありました。私が高等学院の研究課程へ進みたいと言ったときも、「知識は家を強くする」と背を押してくれました。
だからこそ、カイルのような理知的な男性を好ましく思ったのでしょう。
あの日、父とカイルの掌が重なったとき、私は初めて、彼が“家”という単位に迎えられるのだと実感しました。
「カイルにはぜひ、領地の方が落ち着いたら、うちの経営にも意見を聞かせてもらいたい。きっと双方にとって、実りある縁になるだろう」
「こちらこそ、願ってもないお話です。スタイン卿のご指導をいただきながら、両家にとって有益な関係を築ければと思います」
丁寧で、落ち着いた真摯な会話。
その響きに、私の胸は誇らしく満たされて。彼は私に向き直り、穏やかに微笑んだ。
「エリーネ、縁談を結んでくれてありがとう。よろしく頼む。最初は苦しい思いをさせるかもしれない。だが、君とスタイン家に恥じないよう、必ず領地を立て直し、恩義に報いるつもりだ」
あの時の彼の笑みは、光のように柔らかかった。
けれど――。
カイルの満面の笑みを見たのは、その婚約同意書の調印が最後だった気がします。
それからの日々、私は何度も試みた。
少しは貴族の女として、あの彼と並んで立つ姿が欲しかったのでした。
「カイル。ちょっとくらい、夜会や社交にも顔を出していただけない?
私……一人で参加して、まるで婚約者がいないみたいだわ」
ドレスを見せても、話しても、何を説いても、彼の反応は薄かった。
けれど返ってくるのは決まって同じような言葉。
外出へ誘っても、彼は来ませんでした。夜会や社交の場であればなおさら。
「見逃したくない研究発表がある。それまでに自分も意見をまとめたい」
「新しく理論で立てた堤防の経過確認が必要なんだ」
「認可をもらうため、資料を完璧に仕上げなければならない」
断る彼の言葉には嘘も言い訳もありませんでした。
それも苦しかった。
彼は私を拒絶しているわけではない。
ただ、私へ向ける時間はなかった。
結局、婚約していた七、八か月の間、私たちは一度も婚約者として公の場へ並びませんでした。
晩餐で交わす話題も、いつも学問でした。
算学、経済、統計、行政、治水。
それらは私も好きでした。だから最初は、それでよいと思っていました。
話が通じる。考えを交わせる。知性によって結ばれる夫婦になれる。
そう思っていたのです。
けれど、彼は私の好きな学問は覚えていても、私の好きな花や食べ物、何気ない好みには関心を向けませんでした。
知らなかったのではない。
知る必要を感じていなかったのです。
婚約前は、あれほど時間を作ってくれたのに。
贈り物はおろか、手紙も、顔を見せに来ることすら、ほとんどありませんでした。
今思えば、あれすら、条件のすり合わせの時間に過ぎなかった。
……私は、彼にとって何だったのでしょう。
積もった疑問は、やがて婚約を解消するという決意へ変わりました。
父は惜しみました。
「もう少し待てないのか」と。
彼の領地はまだ再建途中でした。私たちの家から人材や技術を入れれば、双方に大きな利がある。
父の言葉は正しかった。
それでも私は、彼と夫婦になる未来を想像できませんでした。
同じ机につき、同じ帳簿を読み、同じ領地について考えることはできる。
けれど、その机を離れた後、何を語ればいいのか分からなかった。
婚約解消を伝えた時、彼はほとんど表情を変えませんでした。
「エリーネの意思が固いのであれば、受け入れます」
ただ、それだけでした。
「……時間を無駄にしてしまった。申し訳ない」
その言葉を、当時の私は拒絶だと思いました。
私との時間を、彼自身も無駄だったと思っているのだと。
今なら、違ったのかもしれないと思えます。
彼は本当に、自分が私の時間を奪ったと考えていただけなのかもしれない。
けれど、どちらであったとしても、もう遅かったのです。
破談後も、アーレンス領の復興は進みました。
その途中で、彼は再び技術や人材を繋げられる家との婚約を試みたようですが、それもまとまらなかったと聞いています。
やがて領地の基盤が整い、祭祀庁でも頭角を現すと、彼が婚姻による支援を必要とすることはなくなりました。
私は別の男性と結婚しました。
優しく、穏やかな生活でした。
夫は、カイルのように私の論を先回りして答える人ではありません。
けれど、私の好きな花や色、味を知っています。私が疲れていれば気づき、黙っていれば声をかけてくれる。
私は今、間違いなく幸福です。
そして皮肉なことに、算学での功績を認められた私は、祭祀庁の経理官となりました。
彼と同じ建物の、別の部署で。
廊下ですれ違うことがあります。
灰紫の瞳。整った横顔。
昔と変わらない姿で、書類を抱えて歩いていく。
私はも彼も、目が合ったとしても足を止めません。言葉も挨拶も交わさない。
彼は私に気づいているはずです。七、八か月とはいえ、婚約者として過ごした時間がある。
学院時代から、領地や未来について語り合った相手だった。
忘れるはずがない。
だから、終わった過去には触れないと決めているのでしょう。
それが、元婚約者であった、私とカイルの現在。




