特別でありふれた午後
あの締まりのない飲み会から、一週間後の夕方。
この一週間、庭の管理業務は休みをいただいていて、今日は久しぶりの顔出しだった。
夕方になっても、日はまだ明るく、暑い。
秋の訪れは、まだ遠いな。
外から戻ってきたところだったので、いつもの中庭側ではなく、裏門から庭へ向かっていた。
僕は庭の通用門の閂を上げようとして、生垣の奥から草の擦れる音がしたため、ふと顔を上げた。
生垣の向こうには、すでに誰かが庭に来ている気配があった。
別に、盗み聞くつもりはなかったんだ。
「これは……だね。ジェスが来たら手伝ってもらうことにしよ?」
「そだな。わかった」
ただ、声の届く距離で僕の名前が出たから、足を止めただけだ。
どうやらセランさんとリシェリアさんが並んで、蔓の誘引をしているようだった。
ちょうど良かったみたいだ。
「はい、今着きましたよ」と声を上げかけた、その時だった。
「は……」
「ところでさ、リシェ」
セランさんのやや大きな声に遮られ、思わず庭へ踏み入れようとしていた足も止まった。
「ん? なあに」
「俺のこと、好き。……だよな?」
リシェリアさんの何の含みもない問い返しに重ねられたのは、湿度を帯びた重い囁きだった。
え!? 急になんか、そんな雰囲気になるの!? 入りにくいんですけど!
触れもしないのに、親密さだけははっきりと滲ませる声調。
以前のように小屋へ入れないからなのか、人が見ていてもぎりぎり不自然にはならない、そんな絶妙な距離を保っている。
「うん、もちろん」
リシェリアさんは手元の作業を続けながら、いつもどおりの軽い調子で答えていた。
目も合わせず、言葉だけがさらりと落ちる。
「急にどうしたの?」
「それは、どのくらいだ? ちょっと……知っておきたくて」
セランさんの視線は、ひたすらリシェリアさんを追っている。
その目は、遠征の後の一時期に見た、熱に浮かされたような色をわずかに帯びていた。
リシェリアさんが、ほんの少しだけ視線を上げる。
その表情には取り繕うものがなく、本当に素朴で、淡い笑みをふっと浮かべると、そのまま何の迷いもなく答えた。
「もちろん、一番だよ」
間があった。
空気が一瞬、止まった。
「そうだよな!」
声色が一気に明るく跳ねた。
しっぽが見えないのが不思議なくらいの満面の笑みだった。
「あ、いや、だめだ。ちゃんと言え。言わないと証明できない。ちゃんと『セラン、大好き。愛してる』って言えよ」
「え……?」
「いいから」
「……? セラン、大好き。愛してる」
「お! ジェス、来たな。待ってたぞ」
そのまま勢いよくこちらを振り向き、片目をつぶって、どうだと言わんばかりに誇らしげに笑った。
僕が来ていたことには、最初から気づいていたらしい。
どうやら僕に、飲み会で言っていたことを実演してみせたかったようだ。
それとも、自分が愛されているところを自慢してみせたかったのだろうか。
でも――よかったね、セランさん。
僕は苦笑しながら軽く手を振り返し、そのまま庭へ入った。
しばらくして、セランさんが荷運びのために資材倉庫へ去り、庭が少しだけ静かになった頃。
聖女執務室の扉が開き、カイルさんが姿を現した。
片手に書物を、もう片方の手には、冷たそうな水菓子――切った桃を載せた盆を持っている。
「やあ、リシェリア、ジェス。お疲れ様。市民からの進物だけど、一休みして水分補給をしないか? それと、頼まれていた植物図本が入荷したから持ってきたよ」
「わぁ、カイル……ありがとう。嬉しいです」
リシェリアさんが、弾むような声で振り向いた。
さっきセランさんに向けていた素朴な笑みとは違う。けれど、同じように自然な、朗らかな笑顔だった。
「どちらも覚えていてくれたんですね」
「ああ、もちろん。リシェリアのことが好きだから、覚えるのは当然だ」
カイルさんも微笑む。
あの麗しい顔立ちで、さらりと告白してしまう。
そして彼もまた、触れないぎりぎりの距離を保っている。
二人の間にある距離は違うのに、そこに漂う気配は、セランさんと同じ熱を帯びていた。
「ふふ、私もカイルのこと、大好きですよ」
リシェリアさんは、さっきとまったく同じ調子で、それを重ねた。
軽く、あまりにも簡単に、毒にも薬にもなり得る劇薬のような言葉を。
「……っ!」
カイルさんは固まった。
肩を震わせ、胸に手を当てて、何かを堪えるように目を瞬かせている。
そして、ゆっくりと僕の方を振り向いた。
やったぞと言わんばかりに、子どものような嬉しそうな顔で笑った。
今日は一体、何なんだ。
でも――よかったね、カイルさん。
僕はまた、軽く手を振った。
……こうして見ると、今日も平和だ。
自然と頬が緩む。
セランさんも戻ってきて、全員で階段に並んで腰かけ、市民から贈られた桃をいただいた。
「ジェス。お休み、ゆっくりできた? 今日からまた毎日よろしくね」
「はい、もちろん」
庭の当番。
本音を言えば、通常勤務のほかに労働が増えることを、最初は億劫に感じていた。
アスティ様の御依頼でなければ、断っていただろう。
けれど今では、国民にも人気のある聖女様と気軽に話せる立場で、人気も悪名もあるセランさんと、損得を抜きにして気兼ねなく絡めるのは、ほとんど僕だけだ。
それどころか、部署がまったく違う上級官吏であるカイルさんとも話すようになった。
なんだかんだ言って、厨房や医務室、文官や使用人にも、そこそこ顔見知りが増えている。
……それって、結構得しているよな。
「今日は、ジェスがいなかった間のことを共有したら、それで終わりにしよっか」
リシェリアさんが桃を飲み込み、慌てて付け加えた。
「あ、忘れてた。それともう一つ。最後にあの蔓をね、あの垣根に這わせたいから、手伝ってほしいんだった。……来年、綺麗な花棚ができたら、みんなで一緒に見て、その下でお茶をしよ? ね、セラン。カイルも」
未来の話だった。
来年の話。
今の延長にあるだけではなく、ちゃんと先へ進んでいく時間の話だった。
ふと見上げると、彼女が指差した垣根には、まだ細く頼りない蔓が結わえられている。
それが来年には花を咲かせるという未来を、彼女が当然のように思い描いていることに、僕は心を打たれてしまった。
恋に怯え、それなのに、怖いほど冷徹に恋愛感情を切り捨てようとしていたあの面影は、今では薄い。
この先への期待を語るリシェリアさんは、ほっとするほど人間らしかった。
「ん。せいぜい頑張って世話してくれ」
セランさんはそっけない返事をした。
けれど、その口調の奥には、確かな信頼と、かすかな笑みが滲んでいた。
「じゃあ俺は、それにふさわしい茶葉を探しておこうかな」
カイルさんはわずかにはにかみ、来年の茶会へ思いを馳せているようだった。
……きっと、これが今の彼らの最適解。
夏前には今にも崩れそうだった均衡が、ようやく落ち着くべきところへ収まった。
いや、ただ元に戻っただけではない。
きっと少しだけ、前へ進んだのだろう。
僕も含めて。




