低俗でありふれた二人
個室の温かな灯りの中、酒の香りと肉の匂いが漂う。
二人の嘆きは尽きる気配がなく、今度はカイルさんがゆっくりと杯を置き、語り出した。
「それだったら……安全な社会を得た今、容姿にも恵まれていて、頼りになって、いつもそばにいる異性として接している俺がいて、しかもこんなにあからさまに彼女へ好意を示している。俺に恋してくれてもおかしくないのに、なぜなんだ……」
酒のせいか、いつもの冷静な口調が揺らいでいた。
普段の彼なら、考えても口にはしないような弱音めいた言葉。
それだけ彼も本気なのだと、改めて思い知らされる。
……と。
「そりゃお前、最初に無礼を働いて、好感度なんて底から始まってるし。仕事も勉強も詰め込んでくるからだよ。リシェは最初、めちゃくちゃ厳しいって愚痴ってたからな」
セランさんが、肉の骨を指で弄びながら、淡々とした調子で突っ込みを入れた。
そして、さっきカイルさんが自分に言った文句を、そのまま完璧に真似て返す。
「あんな態度、今後誰かれ構わず初手でするなよ。印象最悪だ」
完全に声色まで寄せていて、思わず噴きそうになる。
雰囲気が似ているどころではない。物真似の精度が高すぎる。
カイルさんは、ぴくりと肩を震わせたかと思ったら――突っ伏した。
両手で頭を抱え、卓に額を叩きつけるような勢いで。
そして叫んだ。
「あああああああああああああああああああ! 過去に戻りたい!!」
個室いっぱいに響く絶望の叫び。
相当酔いも回っているのか、カイルさんらしい抑制はもう微塵も残っていなかった。
まるで、自分の黒歴史を読み返した学生みたいだ。
本当に防音をかけてあって良かったと思う。
こんなカイルさんを見たら、城内にいる彼の信奉者たちは幻滅するだろう。
僕はその姿を見て、なぜか妙に同情した。
今のカイルさんなら、最初からリシェリアさんに優しくできただろうに。
でも、もう取り返しはつかない。
セランさんは酒を飲みながら、静かに呟く。
「……ほんと、馬鹿だな」
けれど、その声にはほんの少しだけ同情が滲んでいた。
カイルさんが突っ伏したまま呻いているところへ、セランさんが、これでもかというほど容赦なく顔を覗き込んだ。
金の瞳が、にやにやと細められる。
獲物を追い詰めた肉食獣そのものだ。
「なあ、なんで? なんでなんだ? 挨拶もせず、初対面の年頃の女性のヴェールを引っぺがしたんだってな」
カイルさんの肩がびくりと震えた。
「……あ……あ……」
まともな言葉になっていない。
完全に戦意を喪失している。
それでも、セランさんは追い打ちをかける。
「貴族って、そういう作法があんのか? 俺たち平民だからさ、分からないし。リシェはあの時、お前が怖かったって言ってたよ」
言葉の一つ一つが、まるで刃物のように傷を抉っていく。
僕は見ていて少し引いた。
だって、さっきまであれほど優しく肩を抱いていた相手に対して……。
「うあああああ……」
カイルさんの呻きには、もう理性なんて欠片もなかった。
過去の自分の行動を抉られ、内側から爆発しそうなほど苦しんでいる。
これは……僕でも可哀想に思う。
たまらず口を挟んだ。
「セランさん、さっきあんなに慰めてくれた人に対して、意地悪じゃないですか? しかもここ、カイルさんのおごりなんですよ。今から払えって言われても、僕は困りますよ」
その瞬間――
「……あ、やべ」
セランさんの顔が、ぴたりと固まった。
自分で気づいてしまったのだろう。
このまま煽り続けたら、今後の飲み会代がすべて自腹になる可能性に。
さっきまでの攻撃性が、綺麗に霧散していく。
そして、しれっと目を逸らした。
……この人たち。
結局のところ本気の恋の戦いではあるのだけれど、なぜか妙に均衡が取れているというか――。
僕は溜息をつきながら思った。
今夜は帰れる気がしない。
個室の空気が、さらに酒でぬるく、濃くなった頃だった。
「大丈夫だ、ジェス。俺には切り札がある」
セランさんが親指を立てて僕に向け、にやりと自信満々に笑った。
その顔は、何か悪いことを企んでいるようにしか見えない。
「な、カイル。……ラトリエで、俺の命を人質に脅したって聞いてるぜぇ」
悪びれもせず、むしろ余裕たっぷりに追撃する。
爪を眺めながら雑に言い放つその姿は、もう完全に煽り芸だった。
びたりと、カイルさんの震えが止まった。
そして、青ざめた顔をゆっくりと上げる。
「……リシェリアから聞いた? 怒ってるか?」
その声は、まるで死刑宣告を待つ罪人のようだった。
なんだ、この落差は。
「いんや。周りにいた同僚から聞いた。別に気にしてねえよ……おごりだしな?」
最後に、にっこりと笑うセランさん。
今の一言こそが、本当の切り札だった。
「もちろん。好きに飲んでくれ」
カイルさんは何度も頷き、おごりの確約を繰り返す。
さっきまでの威圧感を忘れたかのように、すっかり下手に出ていた。
「ちなみに……リシェリアは……それをまだ気にしているのかな……」
「知らね。その話、してねえもん」
セランさんのそっけない答えに、カイルさんはさらに沈んだ。
不憫だ……。
僕は、ずっと気になっていたことを口にした。
「そもそもなんですけど……カイルさんは、どうして最初、あんなに態度を固くされていたんですか。カイルさんって、実は身分なんて気にせず接してくださるし、気さくですし、今となっては信じがたいんですよね」
カイルさんは雑談や無駄を嫌うし、そっけなく、不正や不備には厳しい。でも、理不尽ではない。
それは、彼と関わる使用人の知り合いから聞いた評判も含めて、一貫した評価だった。
この普段のカイルさんと、初対面でヴェールを剥がしたあの無礼が、どうしても結びつかない。
カイルさんは、今にも泣きそうな顔で叫んだ。
「だって! 聖女候補なんて、基本的には婚活をしに来るだけの、頭の悪い女性ばかりだったじゃないか! ……俺はうんざりしてたんだ……女なんて。あちらから寄ってきては、勝手に飽きたら逃げる。気ままで、度し難いものだったはずなのに!」
杯を握る手が震える。
「そんな小娘の世話係に任命されて、げんなりしているところに、急に妖精のような美少女が現れて、しかも俺の理想そのものの性格をしているなんて、思わないだろ……!」
「えっ、急にどうしたんですか」
方向性があまりにも急で、僕は思わず水を少しこぼした。
そこへ、セランさんの追撃が入る。
「あーあー。ジェス。こいつ、何人か女にそうやって逃げられてるらしいぜ。グラント様に暴露されてた」
「やめてくれ!!」
カイルさんは両手で顔を覆い、絶望に沈む。
「せっかく親が美しい顔と賢い頭脳を与えてくれていたとしても、意中の女性に響かなければ何の意味もない……」
虚空を見つめるように自分の手を眺める姿には、どうしようもない自己嫌悪が滲んでいた。
僕も、だんだん苛ついてきた。
「さっきから、やたら自慢しますね。……カイルさんのそういうところ、少し鼻につきます。セランさんとくっつく方が、リシェリアさんも健全かもしれませんね」
「そうだろ?」
セランさんは嬉しそうに手を打つ。
「なぜだ!!」
カイルさんは叫び、僕を睨んだ。
そこで、カイルさんが反撃に転じる。
「大体、セランは添い遂げたとして、何ができる。満足させられるほど養えるのか? この国にいるなら、生活基盤は必要だ。今は聖女だから厚遇されているだけだぞ」
「ぐっ……!」
セランさんは、明らかに一番痛いところを突かれた。
今までの煽りより、ずっと効いている。
肩が丸まり、目が伏せられた。
「いや、リシェは贅沢を好む女じゃない……。外れの方で、細々と暮らすから」
「本当に? お前もそれでいいのか?」
カイルさんの声が、急に静かで甘くなる。
「リシェリアの髪を美しく保つための香油はいらないのか? あの白くて綺麗な肌を傷つけない絹の服と手袋。大好きな果物を、いつでも食べられるように置いておきたくないか? 彼女が喜ぶ庭を造り、花で満たすのは?」
「ぐ……ううううううううう……」
セランさんは卓に額を押しつけ、唸った。
傷が深すぎる。
カイルさんは、さらに畳みかける。
「羽根布団の素材は自力で手に入れられたとしても、絹の寝具までは無理だろう。好みの意匠を施した絹の下着を誂えて、広い寝台に、それを纏ったリシェリアが寝そべっているところを想像しろ。そこへ潜り込みたいと思わないのか? ん?」
うわ……顔が少し破廉恥だ。
「うおおおおおおおおおおお……したい……です……」
セランさんは両手で顔を覆い、崩れ落ちた。
……うん。
分かるけど……。
それは、そりゃあ……。
ごくりと、喉が鳴った。
「おい、ジェス! お前は想像するな!!」
セランさんが即座に怒鳴る。
理不尽だ。
でも――僕は思った。
この二人は、本当に普通だ。
身分は違うけれど、恋に悩み、嫉妬して、煩悩にまみれ、落ち込み、吠える。
ごく普通の、健全な男たちだった。
一方で、リシェリアさんは――普通ではない。
良い悪いではなく、彼女は生きることと死ぬことの境目で育ち、恋愛という概念そのものが存在しない世界にいた。
むしろ、僕らの常識では測れない場所にいたのだ。
だからこそ、セランさんは獣を気取っているのかもしれない。
彼女に歩幅を合わせるために。
彼女を怖がらせないように。
自分も同じ世界にいるのだと示すために。
でも、最初にあった人形のようだったリシェリアさんはもういない。
今日のカイルさんとセランさんの悪ふざけに、本気で嫌そうな顔をしていた。
初めて見た表情だった。
最近の笑い方も自然だ。仮面みたいではない。
声を上げて笑うことも増えた。
だから――こう思った。
きっとこれから、リシェリアさんにも恋が生まれる気がする。
普通ではなかった彼女の世界にも、きっと普通の恋が芽吹く日が。
……その時、この二人はどうなっているんだろう。




