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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
26章 夏の残照
332/355

低俗でありふれた二人

個室の温かな灯りの中、酒の香りと肉の匂いが漂う。

二人の嘆きは尽きる気配がなく、今度はカイルさんがゆっくりと杯を置き、語り出した。


「それだったら……安全な社会を得た今、容姿にも恵まれていて、頼りになって、いつもそばにいる異性として接している俺がいて、しかもこんなにあからさまに彼女へ好意を示している。俺に恋してくれてもおかしくないのに、なぜなんだ……」


酒のせいか、いつもの冷静な口調が揺らいでいた。

普段の彼なら、考えても口にはしないような弱音めいた言葉。

それだけ彼も本気なのだと、改めて思い知らされる。


……と。


「そりゃお前、最初に無礼を働いて、好感度なんて底から始まってるし。仕事も勉強も詰め込んでくるからだよ。リシェは最初、めちゃくちゃ厳しいって愚痴ってたからな」


セランさんが、肉の骨を指で弄びながら、淡々とした調子で突っ込みを入れた。

そして、さっきカイルさんが自分に言った文句を、そのまま完璧に真似て返す。


「あんな態度、今後誰かれ構わず初手でするなよ。印象最悪だ」


完全に声色まで寄せていて、思わず噴きそうになる。

雰囲気が似ているどころではない。物真似の精度が高すぎる。


カイルさんは、ぴくりと肩を震わせたかと思ったら――突っ伏した。


両手で頭を抱え、卓に額を叩きつけるような勢いで。


そして叫んだ。


「あああああああああああああああああああ! 過去に戻りたい!!」


個室いっぱいに響く絶望の叫び。


相当酔いも回っているのか、カイルさんらしい抑制はもう微塵も残っていなかった。

まるで、自分の黒歴史を読み返した学生みたいだ。


本当に防音をかけてあって良かったと思う。

こんなカイルさんを見たら、城内にいる彼の信奉者たちは幻滅するだろう。


僕はその姿を見て、なぜか妙に同情した。


今のカイルさんなら、最初からリシェリアさんに優しくできただろうに。

でも、もう取り返しはつかない。


セランさんは酒を飲みながら、静かに呟く。


「……ほんと、馬鹿だな」


けれど、その声にはほんの少しだけ同情が滲んでいた。


カイルさんが突っ伏したまま呻いているところへ、セランさんが、これでもかというほど容赦なく顔を覗き込んだ。


金の瞳が、にやにやと細められる。

獲物を追い詰めた肉食獣そのものだ。


「なあ、なんで? なんでなんだ? 挨拶もせず、初対面の年頃の女性のヴェールを引っぺがしたんだってな」


カイルさんの肩がびくりと震えた。


「……あ……あ……」


まともな言葉になっていない。

完全に戦意を喪失している。


それでも、セランさんは追い打ちをかける。


「貴族って、そういう作法があんのか? 俺たち平民だからさ、分からないし。リシェはあの時、お前が怖かったって言ってたよ」


言葉の一つ一つが、まるで刃物のように傷を抉っていく。

僕は見ていて少し引いた。

だって、さっきまであれほど優しく肩を抱いていた相手に対して……。


「うあああああ……」


カイルさんの呻きには、もう理性なんて欠片もなかった。

過去の自分の行動を抉られ、内側から爆発しそうなほど苦しんでいる。


これは……僕でも可哀想に思う。


たまらず口を挟んだ。


「セランさん、さっきあんなに慰めてくれた人に対して、意地悪じゃないですか? しかもここ、カイルさんのおごりなんですよ。今から払えって言われても、僕は困りますよ」


その瞬間――


「……あ、やべ」


セランさんの顔が、ぴたりと固まった。

自分で気づいてしまったのだろう。


このまま煽り続けたら、今後の飲み会代がすべて自腹になる可能性に。


さっきまでの攻撃性が、綺麗に霧散していく。

そして、しれっと目を逸らした。


……この人たち。

結局のところ本気の恋の戦いではあるのだけれど、なぜか妙に均衡が取れているというか――。


僕は溜息をつきながら思った。


今夜は帰れる気がしない。


個室の空気が、さらに酒でぬるく、濃くなった頃だった。


「大丈夫だ、ジェス。俺には切り札がある」


セランさんが親指を立てて僕に向け、にやりと自信満々に笑った。

その顔は、何か悪いことを企んでいるようにしか見えない。


「な、カイル。……ラトリエで、俺の命を人質に脅したって聞いてるぜぇ」


悪びれもせず、むしろ余裕たっぷりに追撃する。

爪を眺めながら雑に言い放つその姿は、もう完全に煽り芸だった。


びたりと、カイルさんの震えが止まった。


そして、青ざめた顔をゆっくりと上げる。


「……リシェリアから聞いた? 怒ってるか?」


その声は、まるで死刑宣告を待つ罪人のようだった。

なんだ、この落差は。


「いんや。周りにいた同僚から聞いた。別に気にしてねえよ……おごりだしな?」


最後に、にっこりと笑うセランさん。

今の一言こそが、本当の切り札だった。


「もちろん。好きに飲んでくれ」


カイルさんは何度も頷き、おごりの確約を繰り返す。

さっきまでの威圧感を忘れたかのように、すっかり下手に出ていた。


「ちなみに……リシェリアは……それをまだ気にしているのかな……」


「知らね。その話、してねえもん」


セランさんのそっけない答えに、カイルさんはさらに沈んだ。

不憫だ……。


僕は、ずっと気になっていたことを口にした。


「そもそもなんですけど……カイルさんは、どうして最初、あんなに態度を固くされていたんですか。カイルさんって、実は身分なんて気にせず接してくださるし、気さくですし、今となっては信じがたいんですよね」


カイルさんは雑談や無駄を嫌うし、そっけなく、不正や不備には厳しい。でも、理不尽ではない。

それは、彼と関わる使用人の知り合いから聞いた評判も含めて、一貫した評価だった。


この普段のカイルさんと、初対面でヴェールを剥がしたあの無礼が、どうしても結びつかない。


カイルさんは、今にも泣きそうな顔で叫んだ。


「だって! 聖女候補なんて、基本的には婚活をしに来るだけの、頭の悪い女性ばかりだったじゃないか! ……俺はうんざりしてたんだ……女なんて。あちらから寄ってきては、勝手に飽きたら逃げる。気ままで、度し難いものだったはずなのに!」


杯を握る手が震える。


「そんな小娘の世話係に任命されて、げんなりしているところに、急に妖精のような美少女が現れて、しかも俺の理想そのものの性格をしているなんて、思わないだろ……!」


「えっ、急にどうしたんですか」


方向性があまりにも急で、僕は思わず水を少しこぼした。


そこへ、セランさんの追撃が入る。


「あーあー。ジェス。こいつ、何人か女にそうやって逃げられてるらしいぜ。グラント様に暴露されてた」


「やめてくれ!!」


カイルさんは両手で顔を覆い、絶望に沈む。


「せっかく親が美しい顔と賢い頭脳を与えてくれていたとしても、意中の女性に響かなければ何の意味もない……」


虚空を見つめるように自分の手を眺める姿には、どうしようもない自己嫌悪が滲んでいた。


僕も、だんだん苛ついてきた。


「さっきから、やたら自慢しますね。……カイルさんのそういうところ、少し鼻につきます。セランさんとくっつく方が、リシェリアさんも健全かもしれませんね」


「そうだろ?」


セランさんは嬉しそうに手を打つ。


「なぜだ!!」


カイルさんは叫び、僕を睨んだ。


そこで、カイルさんが反撃に転じる。


「大体、セランは添い遂げたとして、何ができる。満足させられるほど養えるのか? この国にいるなら、生活基盤は必要だ。今は聖女だから厚遇されているだけだぞ」


「ぐっ……!」


セランさんは、明らかに一番痛いところを突かれた。

今までの煽りより、ずっと効いている。

肩が丸まり、目が伏せられた。


「いや、リシェは贅沢を好む女じゃない……。外れの方で、細々と暮らすから」


「本当に? お前もそれでいいのか?」


カイルさんの声が、急に静かで甘くなる。


「リシェリアの髪を美しく保つための香油はいらないのか? あの白くて綺麗な肌を傷つけない絹の服と手袋。大好きな果物を、いつでも食べられるように置いておきたくないか? 彼女が喜ぶ庭を造り、花で満たすのは?」


「ぐ……ううううううううう……」


セランさんは卓に額を押しつけ、唸った。

傷が深すぎる。


カイルさんは、さらに畳みかける。


「羽根布団の素材は自力で手に入れられたとしても、絹の寝具までは無理だろう。好みの意匠を施した絹の下着を誂えて、広い寝台に、それを纏ったリシェリアが寝そべっているところを想像しろ。そこへ潜り込みたいと思わないのか? ん?」


うわ……顔が少し破廉恥だ。


「うおおおおおおおおおおお……したい……です……」


セランさんは両手で顔を覆い、崩れ落ちた。


……うん。

分かるけど……。

それは、そりゃあ……。


ごくりと、喉が鳴った。


「おい、ジェス! お前は想像するな!!」


セランさんが即座に怒鳴る。

理不尽だ。


でも――僕は思った。


この二人は、本当に普通だ。


身分は違うけれど、恋に悩み、嫉妬して、煩悩にまみれ、落ち込み、吠える。


ごく普通の、健全な男たちだった。


一方で、リシェリアさんは――普通ではない。


良い悪いではなく、彼女は生きることと死ぬことの境目で育ち、恋愛という概念そのものが存在しない世界にいた。


むしろ、僕らの常識では測れない場所にいたのだ。


だからこそ、セランさんは獣を気取っているのかもしれない。

彼女に歩幅を合わせるために。

彼女を怖がらせないように。

自分も同じ世界にいるのだと示すために。


でも、最初にあった人形のようだったリシェリアさんはもういない。


今日のカイルさんとセランさんの悪ふざけに、本気で嫌そうな顔をしていた。

初めて見た表情だった。

最近の笑い方も自然だ。仮面みたいではない。

声を上げて笑うことも増えた。


だから――こう思った。


きっとこれから、リシェリアさんにも恋が生まれる気がする。

普通ではなかった彼女の世界にも、きっと普通の恋が芽吹く日が。


……その時、この二人はどうなっているんだろう。

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