庭の再開
振り返ると、青空から落ちる光の中に、銀髪を淡く輝かせたリシェリアさんが立っていた。
静かに、けれど確かに眉を寄せ、心配そうにこちらを見ている。
「リシェ」
「リシェリア」
セランさんとカイルさんが同時に名を呼び、明らかに空気が変わった。
「御機嫌よう、皆」
緊張がほどけた。
肩へ圧し掛かっていた重みが消え、ようやく視界が戻ってくる。
リシェリアさんは、光だった。
「ジェス、お留守番ありがとね。これ海のお土産」
リシェリアさんが、両手で小さな布包みを差し出してくれる。柔らかな笑顔と、光を反射する銀の髪。どこか子どものような素直さがある。
受け取った中身は、潮風の香りがする小さな貝殻細工だった。
虹色みたいな艶が合ってすごく綺麗だ。
窓枠の端にでも結べば、風が揺らすたびにきらきら光りそうだった。
「わぁ、ありがとうございます! 当然のことをしただけなのに、なんかわざわざすみません」
言いながらも、自然と頬が緩む。
「ううん。いつもありがとうね。今日は、私たちがいなかった間の引継ぎだけしてくれたら、しばらくお庭の当番はお休みだからね。ジェスもゆっくりしてきて」
これで、空気も変わって、僕は救われた——と思ったのは早計だった。
「それで。みんなで、何をそんなに盛り上がってたの?」
その瞬間、話題がまた引き戻されそうになる。
僕は即座に動いた。命を賭けた決断だった。
「いや、なんでも――」
「せっかくなので! リシェリアさんに聞いてみたらどうでしょうか!」
セランさんが話を変えようとするのを遮り、そのまま畳みかける。
ここで逃げても、その場しのぎにしかならない。どうせリシェリアさんがいなくなった後で、また同じことを聞かれるだけだ。
だから今のうちに、この話を僕から切り離しておかなければならない。
「僕なんかより、正確に教えてくれるはずです!」
叫ぶように声を張り、そのままリシェリアさんの背後へ駆け込む。軽いスカートの裾が揺れ、僕の視界が白く柔らかな布に遮られた。
大樹よ、どうか見ていてください。
僕は今日、生き延びてみせます!
「は!?」
「なっ」
お二人の声が、またしても合唱のように重なった。
どちらが言ったかなんて、もう分からない。たぶん二人とも、同じ種類の衝撃を受けたのだろう。
「えっ? ……いいけど。何が知りたいの?」
リシェリアさんは、ぽかんとした顔で両腕に抱えていた苗をそっと地面へ置いた。それから、きょとんとしたまま二人を交互に見上げる。
問いかけに含まれた無垢な調子が、場の緊迫感とあまりにも噛み合っていなかった。
よし。
これで今後また同じ話を振られても、リシェリアさんに聞いてくださいと言って逃げられる。
……そう思ったのも、束の間だった。
「リシェ、お前は関係な……いや、あるか」
セランさんが咄嗟に手を伸ばし、止めようとしたまま途中で言葉を飲み込んだ。
そして、ちらりとカイルさんを見る。
あれ? 今、止めようとしたんじゃないのか。
どうして止めないんだ。
カイルさんが、わずかに頷いた。
「そうだな。せっかくだし、現状を把握しておこうか。どうせ最終的には俺が勝つにしても、今の差を知って調整しておきたい」
ええええええ!?
カイルさんまで何を言ってるんですか!?
本当に聞くんですか!?
本人に!?
「えっ、ちょっと、セランさん、カイルさん!?」
思わず声を上げた。止めなければと思った。
けれど僕の抗議は、二人に涼しい顔でかわされる。
「リシェリア。今、グラントがいなかったら……もしもの話だよ。俺とセランのどちらが、君の婚約者にふさわしいかという仮定の話をしていたんだ」
なんという、逃げ道のない問いだ。
回りくどいように見えて、核心だけを聞くまっすぐな問い。
これが数々の貴婦人たちを蕩かした魔性の笑みを持ちながらも、浮ついた噂が全く発生しなかったというカイルさんの話術か。
……いや。下手か!!
もっと比喩とか形容とかを駆使して、どこにも角が立たないような質問にしましょうよ!
「おう。まあ、分かりきってることだけどな。リシェが選んでいいぞ。言ってやれ、ここで」
セランさんまで乗ってしまった。
なんだ、この展開。
どうしてこうなるんだ。
リシェリアさんは、本当に目を丸くして二人を見た。
やがて眉をひそめ、まるで初めて見る毒虫でも拾ってしまったような顔になる。
リシェリアさんは、虫を怖がらない。葉を食う害虫であっても、顔色ひとつ変えず、別の場所へ移してしまう。
それでも、強い牙や即効性の毒を持つものだけは、触れずに距離を取る。
今の二人を見る目は、まさにそれだった。
「何それ。……私が、答える……の?」
慎重に距離を測るような視線。
それでも声は静かで、柔らかくて、だからこそ妙に刺さった。
……リシェリアさん、ずいぶん表情が豊かになった。
休暇の間に、ずっと抑えていたものを少しずつ外へ出すことを覚えたのかもしれない。
「頼めるかな」
カイルさんの目元が柔らかくなる。
あれは、勝利を確信した顔だ。
「言ってやれ、リシェ」
セランさんの声は、自信に満ちていた。どこか誇らしげにさえ見える。
だけど――
だからこそ、怖い。
謹慎前よりも、ずっと怖い。
「基準は……?」
どう答えれば被害が少ないのか測るように、リシェリアさんが慎重に尋ねる。
「もちろん好きな方」
「恋人にしたい方」
瞬間、空気が止まった。
あまりにも直接的な答えだった。
どちらがどちらの声かなんて、もうどうでもいい。
リシェリアさんが、僕を見た。
ええと、つまり……どうしたらいいか、ということですよね。
僕は心を込めて頷いた。
「思ったことを言ってしまって、大丈夫だと思いますよ」
大丈夫。
きっと二人とも、何を言われても、リシェリアさんに酷いことはしない。
リシェリアさんが口を開く。
「どっちも……」
「待て! 両方とかはなし」
セランさんが勢いよく肩へ手を伸ばした。
「勇気を出してほしい」
カイルさんも手を取ろうとする。
けれどリシェリアさんは、すっと一歩下がり、二人の手をかわした。
そのまま僕の後ろへ回り込む。
「どっちも……選ばない。もう予約してるから」
……え?なんだか僕、押されてません?
ぐい、と肩を前へ押し出される。
「え!? えっ!?」
「グラント様との婚約が終わったら、ジェスと恋人になるって予約してるから。ごめんね」
さらりと言い切った顔には、申し訳なさそうな様子など欠片もない。
むしろ、少し笑っていた。
「えっ、あれは、その。話の流れの冗談だったじゃないですか!!」
リシェリアさん。
僕を売ったの!?
「あ?」
「は?」
二人の声が重なり、僕の後頭部から地面を伝って空気を揺らした。
足元から立ち上る、この圧。
これは……。
「えっと。そういうことだから。じゃあ今日は私、帰ろうかな。二人とも、くだらない話で盛り上がれるくらい暇そうだもんね」
リシェリアさんの声は、どこか冷ややかだった。
けれど怒っているわけでも、呆れているわけでもない。
ただ、何かを見限った人の声だった。
彼女は静かに、抱えていた苗を通路脇の石陰へ移した。強い陽射しを避けるように、植物の命を気遣う手つきで置き直す。
さっと膝を伸ばし、服の裾を払って立ち上がった時には、もう決意を固めているように見えた。
背筋を伸ばし、そのまま踵を返す。
「待てって」
「待ってくれ」
セランさんとカイルさんの声が、またぴたりと重なった。
けれど、もう何を言っても無駄だった。
リシェリアさんは、二人の差し出した手など見えていないかのように、滑るような一歩でその間をかわした。
振り返りもせず、裾を広げ、完璧な礼を見せる。
「それでは皆様、ご機嫌よう。大樹のご加護がありますように」
銀の髪が光に透け、淡く揺れる。
優雅で、気品に満ちていて。それでいて、何ひとつ触れさせない。
まるで庭に咲いた、一輪の白百合のような立ち去り方だった。
美しい。
……なんて感心している場合ではなかった。
僕が見惚れた、その一瞬に。
彼女は、さっと逃げた。
えっ。あっ。
まるで最初から予定していたかのように、全速力でもないのに一切の隙がなく、確実にこちらの手が届かない場所へ離れていく。
僕は一歩、半歩と踏み出しかけ、瞬時に思った。
逃げなきゃ。これはまずい。殺され――
「僕も失礼……」
言い終わる前に、右肩へ鉄のような重みがのしかかった。
「行かすかよ」
セランさん。
がっちりと、容赦のない握力で僕の肩を掴んでいる。
「話を聞かせてほしいな」
カイルさん。
反対側の肩に、ひやりと冷たい指先が触れた。
あ。
詰んだ。
左右からの拘束。
冷たさと熱が同時に流れ込んでくるような緊張感。
もう、あの優雅な白百合はどこにもいない。
庭の対立は終わってなんかいない。
休憩を経て、再開されるのだ。




