庭の再会
今は、もう夏の終わり。
でも、まだ完全には終わっていない。
庭の空気が、確かに変わったのはすぐに分かった。帰還からわずか数日、それまで空間に沁みついていた停滞が消え、花の輪郭まで、まるで生気を取り戻したように色づいて見える。
その人がいるだけで、香りも気配も違って感じられるものなのかと、僕は少し驚いていた。
それは……彼女たちが戻ってきたからだ。
聖女リシェリアさんと、セランさん。二人とも、しばらく庭を留守にしていた。
公式には、グラント様とその婚約者が、イェルス領の視察を兼ねた休暇へ出たと聞かされている。セランさんはいつの間にかイェルス家に所属していて、その随行として同行したらしい。アスティ様は後見人として。
さらには、カイルさんまで一緒だったという。
最初は行かないという話だったのに……一体、何がどうなったというんだろう。
「おーす。待ってたぞ。いない間、任せきりで悪かったな。しばらくお前が先輩ってことで、やること指示してくれ」
庭へ入った僕の背後から、声がかかった。
セランさんは、とっくに庭へ戻ってきていたらしい。
「あ。セランさん。お帰り、なさい……!?」
振り向けば、見慣れた赤髪が風に揺れていた。日に焼けた肩。謹慎の期間まで含めれば数週ぶりに見る、どこか懐かしささえ覚える笑み。
まず、再会したセランさんが、もうあの熱に浮かされたような顔をしていないことに、心から安心した。
何があったのかは知らないけれど、目の色が戻っている。それだけで、庭がまた息をし始めたように思えた。
謹慎で、物理的に頭が冷えたのかもしれない。
それはいい。それは良かった。
だけど……本当に、一体何がどうなったら、そうなるんだ。
固まったまま動かない僕を心配したのか、セランさんが少し眉を寄せる。
「どうした? 幽霊でも見たような顔して」
だって実際、僕は今、信じがたいものを目の前にしている。
「えっと、お久しぶりです、セランさん。……カイルさんも」
思わず口から出た声が、自分でも驚くほど間抜けに聞こえた。
「やあ、ジェス。薬草の育成検証がどうなってるかなと思って、寄ったんだ」
カイルさんは、何でもないことのように答えた。
そう。リシェリアさんを取り合っていた、あの二人。
セランさんと、カイルさん。
以前は同じ場所にいるだけで、空気が張り詰めていた。
露骨に剣を抜くわけではない。
けれど、互いの視線が触れるだけで、庭の温度が一段下がるような険悪さがあった。
僕は何度も、庭の水場や植え込みの影へ逃げた記憶がある。
リシェリアさんの前では、さすがにあからさまな揉め事は起こさなかった。
それでも、明らかに剣呑だった。
互いの存在を見ないふりをしながら、相手がどこにいるのかだけは常に把握している。少しでもリシェリアさんへ近づけば、目に見えない縄張りを踏み荒らされた獣みたいに空気が変わる。
それが今――。
日差しの下。
裏庭の白木のベンチ。
その上に、セランさんとカイルさんが……並んでいた。
普通に。本当に、普通に。
距離も近すぎず、離れすぎず。
肩が触れるほど親密でもなければ、以前のように一人分以上空けているわけでもない。
リシェリアさんのこととなれば火花を散らしていたはずの二人が、今はまるで、同僚が午後の仕事の合間に涼みに出ているような風情で腰掛けている。
談笑とまでは言えない。
けれど、明らかに会話していた。
僕が来るまで、普通にそこへいたらしい。
「それより、ジェス。先に今日の作業を指示してくれ。カイルが、勝手に水やりするなとかうるさいんだよ」
「いいわけないだろう。土を見れば分かる。昨晩の水分がまだ残っている」
「でも葉は乾いてるし、もう昼になるんだぞ」
セランさんは長い脚を軽く組み、片腕を背もたれへ預けていた。
金色の瞳はどこか不満げに光っているけれど、それは会話相手への敵意ではない。
自分が納得していない時の、いつもの顔だった。
「普通、屋外の庭園で昼には水をやらない」
「意味が分からない。暑いんだから、水をやった方が涼しいだろう」
対してカイルさんは少し前屈みになり、セランさんの視線より低い位置から、覗き込むように説明を始める。
「馬鹿だな。日が高い時間に撒いても、すぐに蒸発する。表面だけ濡れて根まで届かないし、葉へかければ傷めることもある。水をやるなら朝か夕方、株元へたっぷりだ」
灰紫の瞳が一度土へ落ち、唇が冷静に動いた。
理屈を説明する時のカイルさんは、いつも自信に満ちている。
言葉に迷いがなく、相手が理解するまで順序を組み立てて話す。
けれど今のそれは、以前のように相手を言い負かすための説明ではなかった。ただ、本当に理解させようとしている。
セランさんも、腹を立てながら聞き流しているわけではない。
不服そうに眉を寄せながらも、土や葉へ目を向けている。
……え?
なに、この光景。
夏前の、あの殺気立った雰囲気はどこへ消えた。
互いの距離を測り合い、少しでも隙を見せれば噛みつこうとしていた、あの空気は。
どうして、こんなに自然に溶けてしまったんだ。
怖い。
休暇の間に、何があったんだ。
あ……まさか。まさかとは思うけれど。
いや、でも、もし。
「お二人ともそろって。振られました?」
口に出した瞬間、自分で言ったとは信じられないほど、背中に冷たい汗が流れた。
だめだ。そんなことを言うべきじゃなかった。もしまだ傷が癒えていなかった、抉る言葉になってしまっていたかもしれないのに。
ただ、セランさんとカイルさんが、あまりに仲良く見えたから。
戦っていた者同士が、同じ敗北を味わったことで妙な連帯感を持つ。そんな話も、物語の中ではよくある。
だから、その。
二人ともリシェリアさんに振られて、傷を舐め合ううちに友情が芽生えた可能性だって、あるのではないかと思っただけで。
「あ?」
「失礼だな」
二人同時に、ぴたりと声の調子が落ちた。
「なんでもないです!!!」
セランさんの金の瞳が、ぎらりと鋭く光った。空気を押し退けるような、露骨な威嚇が走る。
カイルさんは口元こそほとんど変わらない。けれど、灰紫の瞳だけが急速に冷え、薄氷のような色を帯びていった。
「ジェス。この間の続きをしたいとは……命が惜しくないようだな」
セランさんが、地面へ置いていた手袋を、わざとゆっくり取り上げる。革が指の間で僅かに軋んだ。
それが投げつけられる前兆に見えて、僕は身体を固くした。
「俺も少し聞いておきたいな。どういう見立てで、その結論に至ったのか」
カイルさんは、あくまで低く、理知的な声で問いかけてくる。
けれど、冷たい。
庭の暑さが一瞬で消え、吐く息まで霜になりそうなほど冷たい。
ああ、しまった。また虎の尾を踏み抜いてしまった……!
二人の攻撃的な気配に挟まれ、僕はまるで石畳の上へ追い詰められた小動物のような心地になった。
右に猛獣。左に箱罠。
逃げ道があるように見えて、実際にはどこにもない。
「よし。せっかくだからジェス、カイルに教えてやってくれ。どれだけ汚くあがいても、こいつがリシェを振り向かせることなんてできっこないって。俺とリシェがどれだけお似合いか、見てれば分かるよな」
セランさんが、いきなり無茶な要求を押しつけてきた。
金の瞳でぐっと睨まれ、その迫力に思わず上体を引く。
「ちょっ、近い! 顔が近いですって」
「こちらこそ、いい機会だ。第三者から見て、リシェリアの隣にふさわしいのはどちらか、言ってやってほしい。ジェス、よく考えなくても分かるはずだ」
「カイルさんも!?」
今度はカイルさんが、いつの間にか僕の背後へ回り、肩へ手を置いていた。
力は強くない。
指先が軽く触れているだけだ。
それなのに、少しでも動けば、身体のどこかを正確に押さえられて逃げられなくなる気がする。
いつの間に!?
灰紫の冷ややかな瞳が、すぐ後ろにある。
振り向かなくても分かる。
その気配だけで、背筋が氷のように強張った。
なぜだ。
なぜ、こんな地獄の決断を僕に求めるんだ。
「もちろん、俺だよなぁ」
セランさんがゆっくり立ち上がり、僕の目の前でぐっと身を寄せてくる。
大きい。
影が濃い。
殺気が近い。
「脅すな。それで言わせても、何の証にもならないぞ。なあ、ジェス」
カイルさんも立ち上がり、背後から完全に逃げ道を塞いだ。
なに、この連携。無駄に呼吸が合っている。
少し前まで互いを敵視していたはずなのに、僕を追い詰める時だけは、どうしてこんなに見事な動きができるんだ。
「いえ、あの……」
なんと答えればいい。ここで片方の名前を挙げれば、もう一方に殺される。
いや、比喩ではない。本当に命に関わる。
「どっちだ」
「俺を選ぶよな」
低い声が、耳元と額の前から同時に落ちてくる。身体が震える。
どちらがどちらの声だったかも、もう分からなかった。その時だった。
「……セラン? カイル? ジェスを囲んで、何してるの」
救いの声が、頭上から降ってきた。




