ある少女が生まれた日
夏休暇も最終日を迎えていた。
保養邸の空気は、昼下がりの陽光に溶けるようにゆるやかで、もうすぐ別れの気配が満ちているはずなのに、どこか名残惜しいほど穏やかだった。
各々荷造りを終え、サロンで最後のティータイムを取っていた。明日は帰城のため、朝早くに発つことになっている。
「はあ、あっという間だった。……城に戻ったら仕事が溜まっていると思うと恐ろしいわね。机に向かっていたら、すぐに『秋』が来ちゃう」
アスティが、うんざりだと言わんばかりに大袈裟なため息をついた。
確かにそうだ。あれほど研究に費やす時間が惜しいと思っていたのに、いざ王都を離れてみると、存外のんびりと余暇を楽しんでしまっている自分に気がついた。
深い琥珀色の液面が揺れ、窓の外の海光を映している。ほんの数日滞在しただけの場所とは思えないほど、生活の温度が馴染んでいた。
そう思いながら茶杯を下ろしたところで、アスティが発した言葉の抑揚に含まれた意味へ意識が止まる。
「ああ、『秋』ね。ここ数日、アスティの近辺がやたらと慌ただしいとは思っていたが、そうか。君の生誕日が近いんだったな」
言葉にしてみて、改めて思い出す。
だからクラウディア様が、休暇先まで何通も手紙を寄越していたのか。生誕祭に向けた、愛娘への細かな指示なのだろう。
アスティはわざとらしいほど深い溜息をつき、肩越しに俺を見る。
「そう。本家にも戻らなきゃいけないし、その前後の日程にも色々駆り出されるわ。まあ、もう私もいい年だからね。未婚の娘として華やかに催されるのも、今年が最後かもしれないけど」
いつもの軽い調子だが、口元は僅かに嫌そうに歪んでいた。
俺ももちろん知っている。彼女の生誕日には、毎年うんざりするほど豪奢な生誕祭が執り行われていることを。
令嬢としては些か適齢期を過ぎているものの、王位継承時の政変があってのことであり、アスティ自身に瑕疵があったわけではない。縁談の話自体は、今も途切れることなく持ち込まれているはずだ。
……政治的にも社交的にも、アスティは王家の要石のひとつだ。それを理解しているからこそ、逃げ道はない。
俺自身は男子であり、今では家族もいない。生誕を祝われた記憶など、幼い頃のことがうっすらと残っているだけだが、しがらみの少ない身でよかったと、こういう時だけ思う。
しかし――アスティの縁談。
それに横槍を入れたいはずの男が、この場にいる。
そちらへ目を向けると、ちょうど彼と視線がぶつかった。
グラント兄はわざとらしく渋面をつくり、追い払うように手をひらひらと振った。
何も言うな、という合図だ。
……つまり、アスティの生誕祭について、今ここで何か言う気はないのだろう。思うところがないわけではなさそうだが、俺も触れないでおく。
その代わり、話の切っ先を変えた。
「ああ、そういえば。当家にも招待状が来ていたんだったな。返事をしなければと思っていたんだ。まあ、場違いだし、例年どおり挨拶状だけで見合わせる予定だったが」
ヘンリクが数度催促してきたのを思い出す。毎年のことだ。
「え、あんたも招待されてるの?」
アスティが意外そうに眉を上げた。
生誕祭とは名ばかりの見合い会場に、年齢だけはアスティと釣り合う俺が出入りして、よいことなどない。これまで会場で見かけたことがないからか、アスティ自身も俺が招待されているとは思わなかったらしい。
「近隣の誼だろう。お父上のイングラム様と父は友人だったからな。君だって姉の生誕祝いに来てくれていただろう? 当時から、当家はメイスン家の篤志にずいぶん助けられているよ。改めて感謝申し上げる」
俺の声は自然と丁寧になった。
メイスン家には、隣領というだけでは済まない縁と恩がある。
災害の後、領地が混乱していた時期にも、物資や人手の援助を受けた。表立って恩着せがましく言われたことは一度もないが、当時の支援がなければ復興はさらに遅れていただろう。
そして、その縁を辿れば、俺がリシェリアの指導役になったことにも繋がっている。
縁というものは、時に面倒だ。
断ち切りたいと思うこともある。
だが、こうして思いもしない形で巡り、今の自分へ繋がっている。
アスティはため息の代わりに笑みを浮かべた。
「うん、そうだったわね。……支援は御父様がご自分で決めたことで、私がお礼を言われる筋合いじゃないけど」
「そんなことはないさ」
「……あ、じゃあ。生誕祭、せっかくだから来てくれない? 困ったら呼ぶから。その時はぜひ口を滑らせて、その場の空気を台無しにしてよ」
彼女は本当に楽しそうだった。
俺が社交の場で空気を壊すことを、特技とでも思っている節がある。
「気に入らない縁談を壊すために、俺を便利に使わないでほしい」
口では拒絶したものの、背中にグラントの視線を感じた。
グラントはメイスン家と馬が合わない。イェルス家の息がかかった人間が、生誕祭の会場へ招かれることもないだろう。彼に手を出せる領域ではない。
ならば、彼の代わりに俺が出て、場を少し乱してやるのも悪くない気がした。
「じゃあ……まあ。たまには領地の視察のついでに顔を出そう。イオラントの傍で控えて、出番を待つとするか」
近隣で、当家の収穫祭が行われる時期でもある。ヘンリクにも顔を出せと言われていたし――リシェリアを誘えという厄介な課題は、未達のままだが。
「あら、本当? ふん、これで少しは面白みが出てくるかもしれないわね」
アスティは満足そうに軽く手を振ると、今度はリシェリアへ顔を向け、祝いの準備がいかに面倒かという愚痴を零し始めた。
その横顔を眺めながら、ふと胸に浮かんだ。
リシェリアの生誕祭なら。
俺は、喜んで何だって準備するのに。
そう考えた途端、一つの疑問が浮かび、ふとと顔を上げる。
ちょうど同じところへ思考が行き着いたらしいアスティと目が合った。
互いに頷くように視線を交わし、アスティが口を開く。
我関せずとした様子で茶菓子を摘まんでいたセランと、その隣のリシェリアへ向かって。
「そういえば、あんた達は生誕日は分かるの?」
「あ、ええと。いいえ。私はご存じのとおり、生まれが定かでないので」
リシェリアは寂しげな笑みを浮かべた。
それが胸に痛む。
いつ生まれたのか。誰に望まれ、誰に名を与えられたのか。
その最初の部分が、彼女自身にも分からない。
彼女の始まりは、どこか曖昧なままだ。
「でも、たしかセランは夏頃なんだよね?」
「らしいな。俺も詳しくは知らない。というか、村だと一年に一回まとめてやるから、生誕日祝いとか、そういうのは別にしないぞ」
セランが言い、後頭部に組んでいた腕をほどいた。
何でもないように、リシェリアの頭を二度撫でる。自然で、さりげなく、それでいて深く優しい仕草だった。
「一年祭って言って、冬を越せた子供を、成人するまで毎年、春頃に一斉に祝う。生まれた日より、厳しい冬を生き抜いたことの方が大事だったからな」
「そういうものか。殺伐としているな」
厳しい環境なのだと思った。だが、簡単に同情すべきことでもない。
俺は短く相槌を打ち、アスティへ視線を返す。
「だとしても、今年はそういう祝いもなかっただろう。生誕祝いを、ささやかに催してはどうだ?」
アスティの表情が、提案に乗るように明るくなる。
「そうね。私たちでお祝いしましょうか」
すぐにグラントが口を挟んだ。
「聖女の生誕日をひとまず定めて、大礼拝堂か我が邸で生誕の祝宴を行うか。寄付金が期待できる」
利益に直結した発想だ。グラントらしい。
アスティは苦笑して肩をすくめる。
「ええ? 内輪だけで気楽にできる方がいいわよ。うちのタウンハウスで、身内だけでいいじゃない」
セランもまた、リシェリアの方へ身体ごと向き直った。
「城内の食堂を借りて、気楽に出入り自由でやるのはどうだ? サフィアやジェスやリカリオのおっさんも参加できるし。リシェも、知ってる皆に祝ってもらいたいだろ」
……本当に。
どうしてこう、リシェリアが喜ぶ提案だけは迷わず出せるのか。
俺は黙ったまま、茶の香りの向こうから彼女を見ていた。
喧騒が静まった後、二人きりの執務室で、その日だけは静かに、誰にも邪魔されず祝いたい。
そう思ってしまったのは、きっと俺だけだ。
やがて、リシェリアが皆の視線を受け止め、小さく息を吸った。
「内容のお話ではないのですけど。……自分の生誕日を、もし好きな日に決めていいなら、初めて登城した日にしたいです。あの門を越えた時に、この日々が始まったので」
その横顔は光に包まれたように穏やかで、瞼を閉じた瞬間、まるで幸福そのものを抱いているように見えた。
セランもアスティも、照れたような柔らかい笑みを浮かべる。グラントは頬杖をつき、静かに見守っていた。
俺は、その輪の一番遠くにいた。
あの門をくぐった日のリシェリアを、俺は知らない。
彼女の始まりに立ち会えなかったことが、ほんの少し――胸の奥で、残念だった。
「だが、それではもう過ぎてしまっているではないか」
グラントが、露骨に商機を逃したという顔で額へ手を当てた。
まるで契約書が霧散した瞬間を目の当たりにした商人のような仕草だ。その様子がおかしくもあり、しかし彼らしくもあり、俺は一歩引いた気持ちで眺めた。
「じゃあ、来年はその日に準備して、盛大にお祝いすればいいわ。今年はセランの言うように、食堂でまとめてやりましょ。村形式で、あんた達二人分のお祝い。掲示を出して、城内の人間は参加自由。日時は確認しておくけど、食堂や警備の都合がいい日になるわ。それでもいい?」
アスティが視線を向けた先で、セランとリシェリアが、まるで春の陽だまりに照らされたように微笑み合った。
自然で、柔らかくて、あの二人だけが共有できる温度があった。
「もちろんです」
「ありがとな。リシェ、よかったな」
セランの声は誇らしげで、どこか安堵が滲んでいる。リシェリアは遠慮がちに、けれど幸せそうに頷いていた。
「かかる費用は、メイスン家とイェルス家で折半しましょう」
アスティが話をまとめ、場に心地よい決着が落ちた。
両家の体面も立ち、提案者の意見も通る。完璧に丸い結論だった。
「来年の分は、イェルス家にお任せするわ」
好きなだけ豪華に催して寄付金を巻き上げて、とでも言いたげな目配せだった。
グラントは愉快そうに頷く。
「ああ。それで構わない」
ほんの少しだけ、その輪の外側に自分が立っている感覚があった。
皆の視線の中心にはリシェリアがいて、その周りを取り巻いているのは、彼女の過去や縁に繋がる者たちだ。
彼女の登城の日を、俺は知らない。
あの日、あの門をくぐった彼女に、俺は会っていない。
今日の話題の起点に、自分だけが触れたことのない空白が横たわっている。
今年の開催日は当日ではないし、来年はグラント主催の祝宴となれば、少なくとも俺が中心に立つことはないだろう。
それで十分だと思う一方で、心の底ではかすかに、手の届かない距離を意識してしまう。
……それでも。
リシェリアが、嬉しそうに笑っていた。
あれだけで、今日の議論には価値がある。
彼女が不安ではなく、幸福な形で始まりの日を持てるならば、それでいい。少なくとも――見知らぬ誰かと密会されるより、よほどいい。
茶の温度がゆっくりと下がっていくのを感じながら、俺は思考を静かに切り替えた。
来年の生誕祭。
彼女が本当に、心から喜ぶ贈り物とは何だろう。
豪華な宝石ではない。高価な衣装でもない。
その日に、輪の外側から見ているだけではなく、彼女の心にだけは近づけるような何か。
……今から策を練っておくべきだろう。
その前には、年末の千年祭と、記念の降誕節の準備にも気を配り始めなければならない。
いや、それよりも休暇が明ければ、すぐに予定が詰まっている。
日々の雑務。コンラートの家への訪問。
リシェリアとの休暇だって、これから先に何度もあるはずだ。
はたと気づいて、自分の口元が笑みの形になっていることに驚いた。
これから先の日々を、楽しみにしている自分がいる。
一年前の自分には、欠片もなかった感情だ。
次から新章となります。




