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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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未必の恋

「なんか、がっかりした。リシェってさ、俺がお前を好きだからって、何してもいいと思ってるってことだよな」


一瞬、身体が固まった。


頭の中が真っ白になる。そんなことは考えたこともない。セランに、そのように受け取られていたことさえ知らなかった。


「え……そんなこと」


そんなことない。

そう言いたいのに、声が掠れる。


「悲しい。……しばらく、一人で考えたい。大丈夫、見える範囲にはいるから」


セランは短く言い残して立ち上がり、日差しの方へ歩き始めた。

遠ざかっていく背中を見ていると、胸の奥がゆっくりと沈んでいく。


傷つけてしまった。


……どうしよう。


あれほど、セランやカイルには恋で苦しまないでほしいと願ってきたのに、私自身の言葉がセランを苦しめた。


そんなことを望んでいたわけじゃない。


視界が滲む。暑さのせいなのか、胸の内側から込み上げてくるもののせいなのか、自分でも分からない。


数歩先へ進んだセランをどうにか引き止めたくて、その背中の服を掴んだ。


「や、やだ。ごめん。……違うの、セラン。ねえ」


声が震える。服を掴む指先にも力が入らなかった。


泣きそうだった。謝っても、もう届かないような気がした。


「いいよ。みんなの前では普通にするから、気にすんな。……だけど、ちょっとだけ、放っておいてくれ」


優しい言葉。けれど、その言葉の中には、もう許しがなかった。


セランは私の指を一本ずつ、そっと、けれど確実に服から外していく。その温もりが離れていく感覚が、胸の奥へ鋭く食い込んだ。


セランから拒まれたのは、初めてだった。

いつかセランが私から離れていく可能性については、何度も考えてきた。けれど、実際に目の前で起こってみると、想像していたよりはるかに重く、息ができないほど苦しかった。


夏の光が眩しくて、顔を上げられない。


セランは、何かを失った後のような目で私を見下ろしていた。その目からは、いつもの温度が消えている。

私は謝った。違うとも伝えた。


……それなのに、どうしてそんな顔をしているのだろう。まだ怒っているのだろうか。


沈黙が恐ろしく、息を殺す。

胸の奥がじりじりと熱を持ち、喉が狭くなったように息苦しい。


「違うの」


小さく呼びかける。それでも返事がない。


「ねえ、セラン。……聞いてる?」


迷いながら、もう一度手を伸ばした。今度は、彼の手を掴む。

もし返ってくるものが怒りや拒絶なら、それが終わりの合図になるのかもしれない。それでも、終わるしかないとしてもこんな風に終わりたくない。


どうか、まだ繋ぎ止められますように。


そう願いながら触れる。


「聞こえてる」


静かな声だった。けれど、視線は合わない。私の方を見ようともしない。

その冷たさに、胸の奥が竦んだ。


「何が違うんだ? 何に対して謝ってんの」


その言葉が、頭上から降ってくるように聞こえた。淡々としていて、突き放すような音だった。


それでも、まだ話す余地は残っている。そのことに縋るように、心臓が小さく跳ねた。


「え、えっと」


喉が詰まりそうになるのを誤魔化しながら、頭の中で言葉を探す。けれど、うまく形にならない。焦るほど、思考だけが空回りしていく。


「あ、分かった」


セランが肩をすくめ、私の言葉を遮った。


「俺やカイルに悪戯して、吸われるのが目的か? なんだかんだ言って、構われて嬉しいんだろ? ……なら、俺からカイルに言ってやるから。恥ずかしがらずに吸われてきな」


違う。そうじゃないと否定したいのに、喉が塞がったように言葉が出てこない。


セランは私の頭をそっと撫でた。触れ方は優しいのに、ひどく他人行儀だった。そのわずかな距離が、冷たく無限に広がっていくような錯覚を覚えた。


「違うの。そうじゃないの。怒らせたり、悲しませたりしたいわけじゃなくて……」


必死に言葉を繋ぐ。

きちんと伝えたい。その一心で、胸が痛くなるほど息を絞り出した。


「じゃあ、どうしてだ? ……なあ。分かるように、言葉にしてくれ」


セランが、意趣返しをするように、先ほどの私の言い方をそのまま返す。


問われている。


「うんと……セランの、いろいろな顔が見たくて」


彼の眉がわずかに動く。

いつもなら、その反応を照れたのだと思って笑えたかもしれない。けれど、今は言葉を間違えたのではないかと、胸の方が先に縮こまった。


「小さい頃から、ずっと見てきただろ。なんで今更」


低い声だった。聞き慣れた声のはずなのに、遠い。それでも、その奥には微かな動揺がある。


「セランが、私に恋してる……顔? そういうのを見て、知りたくて」


私は、セランが私に向けているものが恋なのだと分かる顔を、もっと知りたかった。

兄のように私を守り、家族として寄り添ってくれた顔とは違う、もう一つの表情を。


私は……誰かの”恋する顔”を鏡にしたかった。


他人を利用していると言われたらそうかもしれない。


そう思うと、気まずさと羞恥が沸き上がってくる。思わず、声が小さくなる。

それでも、これが本音だった。


「俺がリシェを好きなのは、かなり前からだけど?」


セランが少し責めるように言う。

逸らされない視線に、責められているような気がして、居心地が悪くなった。


「だって……それは知らなかったもの」


恋というものを、知らなかった。

今だって、理解しているとは言えない。


「でも、知ろうと思ってる。今は」


「だから嫌がらせしたんだ? それで俺を悲しませてまで見て、満足したのか?」


セランの口元に、少しだけ意地悪な笑みが浮かぶ。


「うん……。セランが照れたり、驚いたりしてるのを見て……嬉しいと思った、と思う」


嘘はつきたくなかった。だから、分からない部分まで誤魔化さずに答える。


「悲しんでる顔が見たかったんじゃない。離れていくのはもっと嫌」


声にした途端、服から指を外された時の感覚が蘇り、恐ろしくなった。


「でも、満足もしてない。もっと、私に向けてくれるいろいろな顔を知りたい。ちゃんと向き合って理解したいの。だから、もっと教えて」


「……」


セランの小さなため息が聞こえた。

それが肯定なのか、ため息なのかはわからない。


引き留めるために掴んでいた手を引き寄せて、祈るように額を寄せた。


……触れた肌の向こうに、見つけたかったものがある。


私は小さく息を吸って、言う。もう拒絶に怯える必要はない。


「だから、これからも揺さぶるね。やり過ぎたり間違えないようには気を付けながら」


「おい」


セランが呆れたように言う。けれど、もうその声にはさっきまでの冷たさはなかった。


「反省してるかと思えば。なぁんでそうなる。こら」


少しだけ息が抜けたような、苦笑い混じりの響き。私に掴まれたまま、セランは顔だけをこちらに覗き込む。

その金の瞳が、わずかに陽光を受けて琥珀色に光っていた。


近すぎる距離の中で、彼の息づかいが頬にかかる。


「はっへ」


引き剥がされながら、顎のあたりをムニっとつままれて、変な声が漏れた。

我ながら間の抜けた音で、セランが少し笑ってくれる。その笑い方が懐かしくて、ほっとする。


「だって、セランは怒ってはなかったから」


言いながら、自分の中の感覚を確かめる。

私は触れた相手の感情は曖昧にはわかる。

悲しみとか、苛立ちとか、そういう負のものが特に。


それがセランなら、間違えるはずもない。

今のセランの中にあるのは、怒りではなく――ただ、少し悲しさとやるせなさ。


だから、大丈夫だと思った。


たぶん。


「じゃあ、俺が悲しくなってたのは、わかったろ。謝れ」


静かで、まっすぐな声だった。

逃げ場がない。けれど、そんな彼の誠実さが好きだ。

私はきゅっと唇を結んで、素直に頭を下げる。


「うん。それはごめん……ごめんなさい。……それで、悲しいのは、何で? 教えて」


どこが悪かったのか、ちゃんと聞いておきたい。

わからないままでは、また同じことを繰り返してしまう。


セランは眉間に皺を寄せ、ぐっと唇を引き結んだ。

まるで苦い薬でも飲み下すように。

その顔を見て、私は少しだけ胸がざわつく。

……嫌な話なんだろう。

でも、それでも聞かなきゃ。


「教えてくれたら、もうしないようにする」


声が少し震えた。

本当に、それくらいの覚悟で聞いている。

セランは深く息を吐いて、言葉を選ぶように口を開いた。


「グラント、様と嘘でも。結婚するってことはさぁ――」


間が開く。


「要は、グラント様と“番い”になるって宣言だろうが」


胸の奥がひゅっと冷たくなる。

声の調子が真剣で、どこか痛いほどに重い。


「俺は。俺の“番い”になってほしいって頼んでたのに、ちゃんと断るわけでもなく、遠回しに振ってるわけだよな。俺を苦しませたくないから、恋なんてないほうがいいなんて言っといて。それは……ひどいんじゃねえの?」


……何も言えなくなった。

庭の木々の葉が風で揺れる音だけが、間を埋めていた。


確かに、セランの言う通りだ。

明確に答えを出せないまま、言葉をおもちゃみたいに転がして。

それでセランを傷つけていたなんて、思いもしなかった。


私はひどい。


「……ごめん。もう、悲しくさせることはしない。嬉しくなることだけにするから、今回だけは許して」


小さく、呟くように言った。

セランは俯きながらも続けた。


「ああ。そうしてくれ」


セランの体温がじわじわと高くなり、掌の下で鼓動が少しだけ速くなる。


「俺の顔なんて、いくらでも見せてやる。だから……ちゃんと俺の傍にいて見てろ」


その声には、先ほどまでの冷たさはもうない。

迷いなくそっと手を伸ばし、胸元へ手のひらを寄せた。

布越しに体温が伝わる。


広くて、温かい。その確かさだけで、涙が出そうなほど安堵した。


指先を胸の中央へ滑らせ、心臓の音を探す。


先ほどまでの拒絶は、もう感じなかった。


セランの恋は、まだここにある。

けれど、そこに甘えて何をしても許されるわけじゃないんだ。


気を付けよう。今度こそ間違えない。傷つけない。


潮の匂いが混じった風が東屋を吹き抜け、遠くから届く海都のざわめきが、耳に心地よく揺れた。


「ほら、そろそろいい時間だ。店に戻ろう」


セランが手を差し出す。


「うん」


恋の小説みたいに指を絡めてみたりなんて、もうする気は消えていた。

ただ、手のひら同士をそっと重ねて、繋がっているだけでいい。


それでも、触れ合った場所から胸の奥へ、柔らかな温かさが広がっていく。


王城に戻れば、こんなふうに並んで手を繋ぐことも、軽々にしてはいけないと言われる日々も戻ってきてしまう。

けれど今は、王都から遠く離れた海都にいる。私を聖女として知る者も少なく、偽りの婚約を支えてくれるイェルス家の人々に守られている。


まだ、この思いの答えは見つけられていない。


この思いが、いつか恋になるのかもしれない。

結局、恋と呼べないままなのかもしれない。


どちらでも、今は構わない。

答えが分からないからと、世界が変わることを恐れて立ち止まっていたくない。


……進みたい。私も変わっていきたい。

変わろうとしているセランとカイルに、置いていかれたくない。


けれど、一人で前へ進むことは、まだ少し怖い。


だから、もう少しだけ。

この手を繋いだまま、歩いていたかった。

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