未必の恋
「なんか、がっかりした。リシェってさ、俺がお前を好きだからって、何してもいいと思ってるってことだよな」
一瞬、身体が固まった。
頭の中が真っ白になる。そんなことは考えたこともない。セランに、そのように受け取られていたことさえ知らなかった。
「え……そんなこと」
そんなことない。
そう言いたいのに、声が掠れる。
「悲しい。……しばらく、一人で考えたい。大丈夫、見える範囲にはいるから」
セランは短く言い残して立ち上がり、日差しの方へ歩き始めた。
遠ざかっていく背中を見ていると、胸の奥がゆっくりと沈んでいく。
傷つけてしまった。
……どうしよう。
あれほど、セランやカイルには恋で苦しまないでほしいと願ってきたのに、私自身の言葉がセランを苦しめた。
そんなことを望んでいたわけじゃない。
視界が滲む。暑さのせいなのか、胸の内側から込み上げてくるもののせいなのか、自分でも分からない。
数歩先へ進んだセランをどうにか引き止めたくて、その背中の服を掴んだ。
「や、やだ。ごめん。……違うの、セラン。ねえ」
声が震える。服を掴む指先にも力が入らなかった。
泣きそうだった。謝っても、もう届かないような気がした。
「いいよ。みんなの前では普通にするから、気にすんな。……だけど、ちょっとだけ、放っておいてくれ」
優しい言葉。けれど、その言葉の中には、もう許しがなかった。
セランは私の指を一本ずつ、そっと、けれど確実に服から外していく。その温もりが離れていく感覚が、胸の奥へ鋭く食い込んだ。
セランから拒まれたのは、初めてだった。
いつかセランが私から離れていく可能性については、何度も考えてきた。けれど、実際に目の前で起こってみると、想像していたよりはるかに重く、息ができないほど苦しかった。
夏の光が眩しくて、顔を上げられない。
セランは、何かを失った後のような目で私を見下ろしていた。その目からは、いつもの温度が消えている。
私は謝った。違うとも伝えた。
……それなのに、どうしてそんな顔をしているのだろう。まだ怒っているのだろうか。
沈黙が恐ろしく、息を殺す。
胸の奥がじりじりと熱を持ち、喉が狭くなったように息苦しい。
「違うの」
小さく呼びかける。それでも返事がない。
「ねえ、セラン。……聞いてる?」
迷いながら、もう一度手を伸ばした。今度は、彼の手を掴む。
もし返ってくるものが怒りや拒絶なら、それが終わりの合図になるのかもしれない。それでも、終わるしかないとしてもこんな風に終わりたくない。
どうか、まだ繋ぎ止められますように。
そう願いながら触れる。
「聞こえてる」
静かな声だった。けれど、視線は合わない。私の方を見ようともしない。
その冷たさに、胸の奥が竦んだ。
「何が違うんだ? 何に対して謝ってんの」
その言葉が、頭上から降ってくるように聞こえた。淡々としていて、突き放すような音だった。
それでも、まだ話す余地は残っている。そのことに縋るように、心臓が小さく跳ねた。
「え、えっと」
喉が詰まりそうになるのを誤魔化しながら、頭の中で言葉を探す。けれど、うまく形にならない。焦るほど、思考だけが空回りしていく。
「あ、分かった」
セランが肩をすくめ、私の言葉を遮った。
「俺やカイルに悪戯して、吸われるのが目的か? なんだかんだ言って、構われて嬉しいんだろ? ……なら、俺からカイルに言ってやるから。恥ずかしがらずに吸われてきな」
違う。そうじゃないと否定したいのに、喉が塞がったように言葉が出てこない。
セランは私の頭をそっと撫でた。触れ方は優しいのに、ひどく他人行儀だった。そのわずかな距離が、冷たく無限に広がっていくような錯覚を覚えた。
「違うの。そうじゃないの。怒らせたり、悲しませたりしたいわけじゃなくて……」
必死に言葉を繋ぐ。
きちんと伝えたい。その一心で、胸が痛くなるほど息を絞り出した。
「じゃあ、どうしてだ? ……なあ。分かるように、言葉にしてくれ」
セランが、意趣返しをするように、先ほどの私の言い方をそのまま返す。
問われている。
「うんと……セランの、いろいろな顔が見たくて」
彼の眉がわずかに動く。
いつもなら、その反応を照れたのだと思って笑えたかもしれない。けれど、今は言葉を間違えたのではないかと、胸の方が先に縮こまった。
「小さい頃から、ずっと見てきただろ。なんで今更」
低い声だった。聞き慣れた声のはずなのに、遠い。それでも、その奥には微かな動揺がある。
「セランが、私に恋してる……顔? そういうのを見て、知りたくて」
私は、セランが私に向けているものが恋なのだと分かる顔を、もっと知りたかった。
兄のように私を守り、家族として寄り添ってくれた顔とは違う、もう一つの表情を。
私は……誰かの”恋する顔”を鏡にしたかった。
他人を利用していると言われたらそうかもしれない。
そう思うと、気まずさと羞恥が沸き上がってくる。思わず、声が小さくなる。
それでも、これが本音だった。
「俺がリシェを好きなのは、かなり前からだけど?」
セランが少し責めるように言う。
逸らされない視線に、責められているような気がして、居心地が悪くなった。
「だって……それは知らなかったもの」
恋というものを、知らなかった。
今だって、理解しているとは言えない。
「でも、知ろうと思ってる。今は」
「だから嫌がらせしたんだ? それで俺を悲しませてまで見て、満足したのか?」
セランの口元に、少しだけ意地悪な笑みが浮かぶ。
「うん……。セランが照れたり、驚いたりしてるのを見て……嬉しいと思った、と思う」
嘘はつきたくなかった。だから、分からない部分まで誤魔化さずに答える。
「悲しんでる顔が見たかったんじゃない。離れていくのはもっと嫌」
声にした途端、服から指を外された時の感覚が蘇り、恐ろしくなった。
「でも、満足もしてない。もっと、私に向けてくれるいろいろな顔を知りたい。ちゃんと向き合って理解したいの。だから、もっと教えて」
「……」
セランの小さなため息が聞こえた。
それが肯定なのか、ため息なのかはわからない。
引き留めるために掴んでいた手を引き寄せて、祈るように額を寄せた。
……触れた肌の向こうに、見つけたかったものがある。
私は小さく息を吸って、言う。もう拒絶に怯える必要はない。
「だから、これからも揺さぶるね。やり過ぎたり間違えないようには気を付けながら」
「おい」
セランが呆れたように言う。けれど、もうその声にはさっきまでの冷たさはなかった。
「反省してるかと思えば。なぁんでそうなる。こら」
少しだけ息が抜けたような、苦笑い混じりの響き。私に掴まれたまま、セランは顔だけをこちらに覗き込む。
その金の瞳が、わずかに陽光を受けて琥珀色に光っていた。
近すぎる距離の中で、彼の息づかいが頬にかかる。
「はっへ」
引き剥がされながら、顎のあたりをムニっとつままれて、変な声が漏れた。
我ながら間の抜けた音で、セランが少し笑ってくれる。その笑い方が懐かしくて、ほっとする。
「だって、セランは怒ってはなかったから」
言いながら、自分の中の感覚を確かめる。
私は触れた相手の感情は曖昧にはわかる。
悲しみとか、苛立ちとか、そういう負のものが特に。
それがセランなら、間違えるはずもない。
今のセランの中にあるのは、怒りではなく――ただ、少し悲しさとやるせなさ。
だから、大丈夫だと思った。
たぶん。
「じゃあ、俺が悲しくなってたのは、わかったろ。謝れ」
静かで、まっすぐな声だった。
逃げ場がない。けれど、そんな彼の誠実さが好きだ。
私はきゅっと唇を結んで、素直に頭を下げる。
「うん。それはごめん……ごめんなさい。……それで、悲しいのは、何で? 教えて」
どこが悪かったのか、ちゃんと聞いておきたい。
わからないままでは、また同じことを繰り返してしまう。
セランは眉間に皺を寄せ、ぐっと唇を引き結んだ。
まるで苦い薬でも飲み下すように。
その顔を見て、私は少しだけ胸がざわつく。
……嫌な話なんだろう。
でも、それでも聞かなきゃ。
「教えてくれたら、もうしないようにする」
声が少し震えた。
本当に、それくらいの覚悟で聞いている。
セランは深く息を吐いて、言葉を選ぶように口を開いた。
「グラント、様と嘘でも。結婚するってことはさぁ――」
間が開く。
「要は、グラント様と“番い”になるって宣言だろうが」
胸の奥がひゅっと冷たくなる。
声の調子が真剣で、どこか痛いほどに重い。
「俺は。俺の“番い”になってほしいって頼んでたのに、ちゃんと断るわけでもなく、遠回しに振ってるわけだよな。俺を苦しませたくないから、恋なんてないほうがいいなんて言っといて。それは……ひどいんじゃねえの?」
……何も言えなくなった。
庭の木々の葉が風で揺れる音だけが、間を埋めていた。
確かに、セランの言う通りだ。
明確に答えを出せないまま、言葉をおもちゃみたいに転がして。
それでセランを傷つけていたなんて、思いもしなかった。
私はひどい。
「……ごめん。もう、悲しくさせることはしない。嬉しくなることだけにするから、今回だけは許して」
小さく、呟くように言った。
セランは俯きながらも続けた。
「ああ。そうしてくれ」
セランの体温がじわじわと高くなり、掌の下で鼓動が少しだけ速くなる。
「俺の顔なんて、いくらでも見せてやる。だから……ちゃんと俺の傍にいて見てろ」
その声には、先ほどまでの冷たさはもうない。
迷いなくそっと手を伸ばし、胸元へ手のひらを寄せた。
布越しに体温が伝わる。
広くて、温かい。その確かさだけで、涙が出そうなほど安堵した。
指先を胸の中央へ滑らせ、心臓の音を探す。
先ほどまでの拒絶は、もう感じなかった。
セランの恋は、まだここにある。
けれど、そこに甘えて何をしても許されるわけじゃないんだ。
気を付けよう。今度こそ間違えない。傷つけない。
潮の匂いが混じった風が東屋を吹き抜け、遠くから届く海都のざわめきが、耳に心地よく揺れた。
「ほら、そろそろいい時間だ。店に戻ろう」
セランが手を差し出す。
「うん」
恋の小説みたいに指を絡めてみたりなんて、もうする気は消えていた。
ただ、手のひら同士をそっと重ねて、繋がっているだけでいい。
それでも、触れ合った場所から胸の奥へ、柔らかな温かさが広がっていく。
王城に戻れば、こんなふうに並んで手を繋ぐことも、軽々にしてはいけないと言われる日々も戻ってきてしまう。
けれど今は、王都から遠く離れた海都にいる。私を聖女として知る者も少なく、偽りの婚約を支えてくれるイェルス家の人々に守られている。
まだ、この思いの答えは見つけられていない。
この思いが、いつか恋になるのかもしれない。
結局、恋と呼べないままなのかもしれない。
どちらでも、今は構わない。
答えが分からないからと、世界が変わることを恐れて立ち止まっていたくない。
……進みたい。私も変わっていきたい。
変わろうとしているセランとカイルに、置いていかれたくない。
けれど、一人で前へ進むことは、まだ少し怖い。
だから、もう少しだけ。
この手を繋いだまま、歩いていたかった。




