真夏の昼の戯れ
東屋へ入り、向かい合って石造りの腰掛けに座った。
夏の熱を含んだ空気の中で、陽光を吸ってきらめく緑を眺める。花弁の輪郭が光に透け、まるで水面のように揺らいで見えた。
静かで、どこか懐かしい。
「しかし、日陰だっつうのに暑いな」
セランは私の向かいに腰を下ろした。開いた襟元をばたばたと扇ぎながら、汗ばんだ首筋を風にさらしている。
今日は兵士服ではなく、グラント様が用意してくださった普段着を身につけていた。いつもより穏やかで、大人びて見える。
広い肩や、日に焼けた腕もよく目立っていた。
不思議だった。
いつもの兵士服は戦うための衣服で、それを着ている時のセランは鋭く、研ぎ澄まされて見える。それなのに、こうして夏の木陰で腰を下ろしている姿は、穏やかで優しく見えた。
こんな姿を見られる時間が増えればいいのにと思う。
「もう一番暑い時間だもの。そろそろお店に戻ろうか? 約束の時間にはまだ早いけど」
昼下がりの陽射しは強く、海風は心地よいけれど、湿り気を含んだ暑さまでは拭ってくれない。
一応そう言ってみたけれど、彼が立ち上がる気配はない。返ってきたのは、短い一言だけだった。
「……別に。我慢できるし」
不機嫌というより、何かを誤魔化すような声だった。うっすらと唇を引き結び、こちらを見ようともしない。
私の気持ちを優先してくれているのかもしれない。それとも、単純にまた歩くよりは、まだ日陰の今の方がいいのか。
セランは欲張りだから、きっとどちらも正解なのだろう。
ふふ、と笑いがこぼれた。
「お前こそ、何だよ。やたらニヤニヤして」
鋭い視線が向けられる。けれど、笑ってしまうのも仕方がないと思った。
普段着で寛いでいるセランを見られることも嬉しい。王都と違って注目されないことも嬉しい。それに、昨夜は少し寝込んでしまったけれど、今日はこうして元気でいられる。
「ううん。……ただ、この休暇が楽しくて。いろんなことが、なんか楽になった気がする。それに、ここではあんまり聖女だってことを気にしなくていいから」
そう言って笑ってみせた。
本当はもっとたくさん言いたかったけれど、うまくまとめられず、それだけにしてしまった。
「セランも、元気そうだしね」
それも本音だった。
セランが血と汗の匂いではなく、風と陽の匂いをまとっていて、ただ一緒に過ごせる。それだけで嬉しい。
長い遠征へ行っていたと思えば、戻ってからは謹慎になった。その間にも、恋で不安定で苦しそうになっていた。
だけど今ようやく、以前のように笑うセランと、落ち着いて向き合えている気がする。それが嬉しくて仕方なかった。
「あ、皆と合流する前に……くっついておく? ちょっと暑いけど」
「え」
……カイルと違って、セランの恋の観察は、まだまだ圧倒的に足りていなかった。
私も変わるんだから、恋だって少しは進めないといけない。
セランは、私とベタベタくっついていたいと言っていた。
手を絡めてみるか、腕を組んでみるか。それとも抱擁して、ついでに心音も聞こうか。カイルと比べて心拍の上がり方や声の変調はどうなるのか。
人けはないけど、往来だから……“充填”や口づけは、ちょっとやめておこうと思うけど。
小説に出てくる場面で、何か近いものはないだろうか。
そんなことを思いながら、そっと手を伸ばして、セランの袖を指先で引いた。
「あのさ。……やめろよ」
セランは袖を引く指先へ目を落とし、それから私の顔を見た。
「なんで? 何か駄目?」
思わず言い返してしまう。
「駄目じゃねえけど……ここは城でも王都でもないとはいえ、人目もあるんだぞ」
「誰もいないよ?」
振り返っても見える範囲、生垣や遠くの公園の端まで。
出歩いている人は見えない。
「……控えてるだけで、ずっと護衛はついてきてるぞ」
「え、嘘! セランが護衛じゃないの?」
「お前、自分が一応要人だってことを忘れないでくれ」
眉を下げ、低い声で文句を言われてしまう。
本気で嫌がっているというよりは、困っている。そんな声だった。
「でも、それなら大丈夫じゃない? イェルス家の侍女さんや警護の人たちは、私たちのことを分かってるもん。幼馴染なのも、グラント様と私が本当の婚約者じゃないこともね。国境に行った時、セランが私をもみくちゃにしたの、みんなに覚えられてるよ」
あの時にお世話をしてくれた侍女や警護の人たちは、今ではもう顔馴染みになっている。
「恥ず……」
セランは失敗を知られた時のような顔で目を逸らし、気まずそうに頬を掻いた。
木漏れ日が赤い髪に落ち、ところどころ金色にきらめいて見える。
東屋を吹き抜けた風が、白いスカートの裾を柔らかく持ち上げた。
私は腰掛けから立ち、向かいにいたセランの隣へ回った。すぐそばへ腰を下ろし、できるだけ明るい声を作って告げる。
この先どうなっても、セランと離れるつもりはない。
それを伝えたかっただけなのに、からかいついでに、ふと先日グラント様から教えられた言葉を思い出す。
「もし……私がグラント様と結婚することになっても、そのままセランを側に置いていいって言われてるから、安心して」
ほんの少しの、軽はずみな悪戯心だった。
「は? ……は!?」
セランは心底意味が分からないというように目を瞬かせた。
まるで難解な呪文でも聞かされたような顔だった。
これは先日、グラント様が、セランをからかいたい時に言ってみるといいと教えてくださった言葉だ。
「グラント様がね、『アスティが承諾してくれなかったら、私も哀れだ。だから一旦結婚はしてくれると助かるな。もちろん、白い結婚で構わない。セランを愛人にしておけばいい』だって」
グラント様の低い声を真似し、少し芝居がかった調子で言ってみせる。
白い結婚。愛人。
あの時の言葉を思い出すと、どちらも、妙に生々しい響きを持っている。
意味だって……きちんと知っている。
白い結婚とは、夫婦になっても身体を重ねない結婚のことで。愛人とは、正式な婚姻契約の外にいる恋人。
どちらも綺麗な言葉に聞こえるのに、どこか冷たい言葉だった。
「おい、意味分かって言ってんのか? 言うに事欠いて、……愛人だと!?」
セランの声が裏返った。珍しく、慌てふためいている。
笑いそうになるのを必死で堪える。
駄目。まだ終わっていない。
私は一度息を整え、誤魔化すために少しだけ目を伏せる。
「……愛してる人のことに決まってるでしょ? これならセランと離されたりしないから、安心だよね」
大事なところだけを答えた。
問いへの答えにはなっていないけれど、嘘じゃないし。
恋人になるかどうかはまだ決まっていない。それでも、セランが私の愛する人であることに違いはない。
「あー、そうだなぁ安心だ! ってなるかよ。そもそも結婚をさせねぇっての」
セランは怒った。頬だけでなく、耳まで赤くなっている。
本当はもう少しからかうつもりだったのに、あまりの狼狽した顔に、悪戯を続ける気持ちが解けそうになる。
「割と悪くないんじゃない?」
ふっと笑みがこぼれた。
事情を分かってくれている人と、政略のために結婚する。それ自体は、それほど悪いことではないと思っていた。
貴族にそうした婚姻契約が多いのも、それだけ利点があるからなのだと思えた。
グラント様にも私にも、互いに別の大切な人がいることを知っている。制度を利用するための契約で、心を縛るものではないのなら、私はそれほど嫌だとは思わなかった。
「いいわけないだろ。俺は許さない。絶対に」
セランは不貞腐れたように呟いた。あまりにも素直な表情に、胸の内側が少し温かくなる。
きちんと言葉にしてもらいたい。
「どうして? ねえ、分かるように言葉にして」
もう一度、袖を軽く引いた。
「……嫌だ。それくらい分かれよ。分かるだろ」
セランは短くそう言い、唇をわずかに震わせて目を逸らした。
「アスティが嫌がるってことは、きっとそういう結婚って楽しくないはずだ。お前にも向いてないと思うぞ」
もう、この件についてこれ以上話さない、そんな意思を感じる淡々とした声だった。
言葉にしてしまえば、恐ろしいものも少しは形を失うのに。自分が何を望んでいたのか、初めて形が見えることもある。そうやって誰かに話すことで、新しい道が見つかることもあるのに。
「ちぇ。別に、結婚することになったっていいもの」
小さく唇を尖らせる。
この先も離れるつもりがないことを伝えたかっただけだった。
たとえ私が、結局セランに恋ができなくても、一緒にいたい相手なのだと。そんなことを。
力を抜いていた足を下ろし、姿勢を正した。真夏の風が熱を含み、木漏れ日が眩しく揺れている。
「もし私が『やっぱりやめます』って言っても、無理矢理結婚させられそうになったら」
大きな声では言えなかった。
仮定でも、イェルス家やグラント様を疑うような話だから、これは私とセランだけの秘密にしなければならない。
誰にも聞こえないように少し身体を寄せ、セランの耳へそっと囁く。
「セランが、連れ出してくれるでしょ」
それでも、確かなことが一つだけある。
もし、何もかもが嫌になったとしても。
私が本当に嫌がっているなら、セランは必ず助けに来てくれる。
だから私が本当に耐えられないほど辛いことなど、きっと起こり得ない。
セランは小さくため息をつき、不満を押し殺すように息を吐いた。
「それは……まあ。そうだけど。ていうか、そういう時は……そこまで大事になる前に、相談しろ」
小言を言うように、半眼のまま眉間を指で突かれ、軽く睨まれた。
それでも、セランを信じていることが伝わったように思えて、嬉しくなった。
「うん。気を付けるね」
そのまま、囁きを続ける。
「あ、ちなみにね。さっきは知らない振りしたけど。白い結婚や愛人の意味はちゃんと知ってるよ」
「は?」
セランの顔が一瞬で固まった。今度は赤くなるどころか、わずかに血の気が引いている。
くるくる表情が変わるのが、少し可笑しい。
「あ、大丈夫! 本当にするわけじゃないよ」
グラント様は冗談として教えてくれただけで、本当にそう頼まれたわけじゃない。
きちんと補足したのに、セランが、少し傷ついたような目で私を見た。
「じゃあ、なんで……そんなこと言ったんだよ」
まっすぐ向けられた金の瞳が痛い。
どうしよう。何か悪いことをしてしまった気がする。
「あ、うん。からかった、だけ。……セランが顔を赤くしたり青くしたりするのを、楽しんでた」
誤魔化さず、正直に答えた。
セランの反応はいつも素直で、分かりやすい。それが可愛くて、つい見たくなってしまった。
「この……」
セランは絶句した。眉がぴくりと上がり、唇がわずかに震えている。
何か仕返しを考えている時の顔だ。
恥ずかしさを噛み潰したような顔で、セランが尋ねる。
「……白い結婚とか愛人とかさ。なんで、そういうの知ってんだよ。おかしいだろ、最近まで他人事だったくせに」
耳まで赤い。怒っているようにも、戸惑っているようにも見える。
「私だって、いつまでも無知じゃないよ。小説に出てくるの。読んでるうちに単語の意味なんてだんだん分かってくる」
サフィアに恋愛小説を読まされる習慣は、今も続いている。
前回の『月光の約束』シリーズを読み終えた後には、「次は婚約破棄もので予習しましょう」なんて、意気揚々と新しい本を渡されていた。
主人公の令嬢が冷遇された末に婚約を破棄され、新しい真実の恋を見つけていく。今は、そんな話を読んでいる最中だった。
セランも、きっとすぐに察したのだろう。
「もう読むのやめろ! 教育に良くない!」
その言い方は怒っているようだったけれど、きっと照れ隠しも混ざっている。笑いそうになるのを堪えながら答える。
「そうだね。共感できないし、あんまり面白くはないんだけど……」
それは本音だった。
頬へ手を当て、困ったように視線を落とした。
夢中になって読んでいるわけではない。物語に登場する恋の駆け引きも、男女が交わす言葉も、どれも遠い世界の出来事のようで、まだ現実味がなかった。
それでも読んでおけば、いつか頷けるかもしれない。だから、一応目を通している。
「やめろ、やめろ。俺からもサフィアに言っておいてやるから」
セランが腕を組み、あからさまに不機嫌な声を出す。
けれど、その不機嫌が、私を心配しているからこそのものだとは分かっている。
「普通の生活の教科書だと思って、読むことにしてる」
小さく言い訳を重ねた。
私は普通の女の子の考え方をまだよく知らない。だから、本から学ぼうとしている。
「参考に……なるかぁ?」
セランが呆れたように言う。少し大きくなった声が、蝉の鳴き声に紛れていく。
「少なくとも、その単語の意味は分かったし」
胸を張って答える。
グラント様に言われた言葉も、私はきちんと意味を理解していた。理解したうえで、セランをからかうために使ったのだ。
正しい答えを言えた子供のような気持ちになり、少しだけ誇らしく目を細める。
「分かって、どうしたってんだよ」
セランから呆れた声が返ってくる。
「セランをからかうのに使えたでしょ?」
明るく答え、彼の顔を覗き込む。
セランはまた眉を寄せた。
「そら……そうかもしれないけどよ……」
低く唸る。その顔には、声にしなかった言葉が、そのまま書かれているようだった。
「はぁ。人に意地悪すると、お仕置きされるっていうのは、まだ学ばないのか?」
あ、やっぱり。
きっと肩を掴み、匂いを吸うと言うのだ。
「べ、別にいいよ。どうせ、吸うって言うんでしょ。今日はまだそんなには汗もかいてないし、構わないよ」
強がって言ってみた。
少しでも動揺を悟られたくなかった。平気なふりを続けていれば、きっとそのうち飽きる。
そう考え、せめて吸われる場所を誘導しようと、髪の毛先をつまんで差し出した。
「ふーん」
セランは気の抜けた声を出し、わずかに顔を伏せた。
次に上げられた金の瞳を見て、思わず息を呑む。そこにあったのは怒りでも、呆れでもなかった。
失望だった。




