真夏の昼の夢
宝石棚の前で、光を吸い込んだように透きとおる石を眺めていた。
海都オルシナの陽光を受け、石は水底へ沈んだ光の欠片のように静かにきらめいている。青く澄んだもの、乳白色に霞むもの、角度を変えるたび虹色を返すもの。どれも綺麗だったけれど、私の目を引くのは値札よりも、その石が長い時間をかけて生まれてきたことだった。
海や大地が、気の遠くなるような時間をかけて育てたもの。
そう思うと、一つひとつに物語があるようで、つい見入ってしまう。
その揺らめく光を目で追っていると、ふと少し離れた場所で、カイルがセランを連れて何か話しているのが見えた。
ここ数日で、二人の距離は驚くほど縮まっている。
かつては顔を合わせるたび火花を散らすような険悪さがあったのに、今では遠慮なく、本音をぶつけ合っていた。互いに皮肉を言い合っても、どちらも本気で怒ることはない。そんな空気が自然とできあがっている。
それが、本当に嬉しかった。
私が望んでいたものの一つが、ちゃんと形になっている。
カイルは変わった。
少しずつ、けれど確かに変わっていっている。
あるいは、今まで固く押し込めていたものがほどけて、本来の姿が見えるようになっただけなのかもしれない。
貴族の人たちは皆、どこかで呼吸を押し殺しているように見えた。
自由に振る舞っているアスティでさえ、ふとした瞬間に心の奥を締めつけているような表情を見せることがある。
グラント様もそう。
カイルも、ずっとそうだった。
けれど、セランと話している今のカイルからは、そうした縛りの影がほとんど感じられなかった。
肩の力を抜いて笑い、相手の顔をまっすぐ見て、自分の言葉で話している。
ずっと背負ってきた重たい荷物を、ようやく地面へ下ろせた人みたいだった。
人は、あんなふうに息ができるんだ。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
あんなふうに生きて、あんなふうに笑えたなら。
どれほど身体も心も軽くなるのだろう。
眩しいと思った。
目の前に、それまで知らなかった生き方がゆっくり開けていくような、そんな眩しさだった。
私もいつか、あんなふうになれるのかな。
そんなことをぼんやり考えているうちに、二人は軽く手を上げて別れ、セランだけがこちらへ戻ってきた。
陽光を受けた赤い髪が揺れ、歩いてくる姿は、どこかいつもより晴れやかに見えた。
「セラン、どうしたの? 機嫌がいいね。楽しかった?」
「いや、別に? 何か祭祀庁でリシェに使う飾りの意見を聞かれた。なるべくごちゃごちゃしてないやつって言っといてやったぞ。引っ掛けて壊したり、リシェの髪に絡まったりするからな」
呆れたような口調で、私が失敗することを前提に話している。
「もう。私が壊す前提で決めないでよ」
少しだけ頬を膨らませながら、私はセランの脇腹を指先でつつく。
「やめろ。棚にぶつかったら商品を崩すだろ」
口では怒ったふりをしているけれど、身をひらりとかわす動きは軽く、その表情もどこか楽しそうだった。
ついさっきまでカイルと話していた余韻が残っているのか、いつもより少しだけ表情が柔らかい。
そんな変化を見つけると、私まで嬉しくなる。
「カイルとアスティはまだ注文があるって話だから、近くの店を見ててもいいって。一刻後に、この店の入り口へ戻る約束だ。外の屋台でも冷やかしていこうぜ」
「あ、ジェスやサフィアへのお土産みたいなものも見たい」
「分かった、分かった」
「あと、植物の種とか。園芸店はないかな」
「馬車から見かけた気もするな。どこかで何か買って、そこの店主に聞けばいいさ」
「セランは?」
「外の焼き貝を買ってくれ」
「また食べ物ばっかり」
思わず笑ってしまう。
私が花や種のことばかり考えているように、セランは食べ物のことばかり考えている。
そんな他愛ない違いが、なんだか可笑しかった。
そのまま二人で店を出て、明るい街路へ向かった。
雲ひとつない青空の下、海から吹く風が緩やかに街路樹の葉を揺らし、花壇からは甘く爽やかな香りが流れてくる。
異国の言葉が飛び交い、人々の笑い声が重なり、遠くでは船の鐘まで聞こえていた。
王都とも、サリーナとも違う。
風そのものが街の一部になっているような場所だった。
私たちは付近を一通り見て回った後、人混みを避けて歩いているうちに、海岸沿いの街を守る防潮公園へたどり着いていた。
「あ、ここ。来たかったんだ」
「なんだぁ。庭園ってわりには、いやに殺風景だな」
敷地内に人の姿はほとんどなかった。
セランの言う通り、華やかな庭園というよりは、実用を優先した場所だった。
一定の間隔を保って並ぶ樹木。
その足元へ控えめに植えられた低木や花。
どれも美しさのためだけではなく、風を受け、波を和らげ、街を守るためにそこへ立っている。
人に見せる庭ではない。
人を守る庭。
そう思うと、この静かな景色がとても好きになれた。
「あのね。強い潮風や大波があった時、この場所があることで、街への影響を和らげるんだって」
「……へえ」
今、セランと私はきっと同じ景色を思い浮かべている。
大波に流されたサリーナの街。
海水と泥に呑まれ、見慣れた家も道も何もかも形を失ってしまった、あの日の光景。
忘れようとしても忘れられない。
「あの時、こういう場所があったら、少し違ったのかな」
そんな思いが胸をかすめる。
「すごいよね。樹々が波風から街を守るんだって。こういうものがサリーナにもあったら良かったのにね」
「仕方ないだろ。昔だし、あそこは辺境の田舎町。ここはグラント様の直轄地だぜ。……金も知識も違うだろ」
過ぎたことは変えられない。
それは分かっている。
それでも、今ここにある知恵が、昔からどこにでもあったなら。
そんなことを考えてしまう自分がいた。
「ってか、なんでリシェがそんなこと知ってんだ」
「グラント様に直接教えていただいたの。移動の時間とか、公務の合間とかに、結構お話しする機会があるから。こう見えても、私ってグラント様の婚約者だからね?」
「あー、はは。忘れてたな」
「今回、海に来ることになったでしょ? セランが嫌な思いをしないかなって心配してたの。その話をした時に、グラント様の都市ではそういう施策をしているって聞いて、いつか見てみたかったんだ」
あの時、教えてもらった話が頭の中で景色と繋がる。
本で読むだけでは分からなかったものが、実際に見るとこんなにも違う。
「……うん。そだな」
「まあ、私も心配しすぎだったけどね。ふふ」
「お互い様だ」
セランも少し照れたように笑った。
その笑顔を見ていると、ここまで来て本当に良かったと思えた。
「いろいろ一人で考えてると、行き止まりみたいに思えるけど……誰かに話してみると、思っていたより簡単に新しい道が見つかることがあって。びっくりしちゃうね」
一人で抱えていた時には見えなかった答えが、言葉にしただけで見つかることがある。答えそのものではなくても、そこへ辿り着くための手掛かりをもらえることもある。
最近、それを何度も経験していた。
「そだな。俺も……そう思う」
「お城でいろいろ勉強するの、最初は難しくて怖くて大変だった。けど、今は楽しいよ。知らないことを知ると、物事の見え方が変わることがたくさんあるって分かったの」
世界は知らないことばかりで、知れば知るほど、その広さが分かっていった。
新しい朝が来ることも、いつしか怖くなくなっていた。
変わることは怖いものだと思っていた。
今までの私は、失うことばかり恐れていたから。
でも、今のカイルが教えてくれた。
変わることは、失うことだけじゃない。
新しい景色を知ることでもある。
公園の東屋には、白い石柱の隙間から木漏れ日が差し込み、石造りの卓の上へまだらな光を揺らしていた。
風が枝葉を渡るたび、光も影も静かに形を変えていく。
光も影も形を変えていくことさえ、今は美しいものに思えた。
足を止め、並んで立つセランを見上げる。
休暇の初めに再会した時、セランは変わりたいと言っていた。
何を思い、何を変えようとしているのか、まだ私には分かっていない。
だけど、今は私も、同じように変わりたいと思っていた。
「私も。もっと、知りたい。……変わりたい」
以前はただ、普通になりたいと思っていた。
気持ちを押し込めて、皆の求める姿でいれば弾かれない。皆と見分けがつかなくなるくらい同じになれば、仲間になれると思っていたから。
でも……本当は違うのかもしれない。
私が意見を言ったり、疑問を持ったり、嫌がったりすることを、大切にしてくれる人が周りにいる。
私は私のままで、世界に馴染める方法があるのかもしれない。
そんな未来を夢見はじめている。




