捨てられなかった鎖
到着したオルシナ――グラント様の治める領都は、圧巻だった。
王都と遜色ないほどに賑やかで、活気がある。そして何より違うのは、大樹の枝が視界にないせいなのか、とにかく空が広いことだった。
遮られない日光がさんさんと降り注ぎ、明るい壁や色彩に反射して、町全体をいっそう明るく見せている。その眩しさが、寝不足気味の目には容赦なく突き刺さった。
同じ海辺の町でも、サリーナとは似ても似つかない。
王都は国の中心だからこそ、あれほど特別に広いのだと思っていた。
今までだって、遠征か何かでほかの町を見たことはある。ラトリエは、その中でも大きい方だった。それでも、端から端まで見通せないほど家並みが続き、幾筋もの大通りを人や馬車が埋めているこの町とは比べものにならない。
世界は広い。
王都以外にも、あるところにはこんな大きな町があるのだと、ただ感嘆するしかなかった。
そして、こんな都市を治めるグラント様もまた、一国の王のように感じられてしまう。
……そんな人の麾下に入ったということが、まだ実感として湧いていない。
加わってから、まだ間もない。特にこの休暇の数日は、まだほとんど客人に近い立場だ。
先ほど連れられて入ったこの宝飾店も、今までなら近寄ることすらなかった場所で、俺にはどうにも落ち着かなかった。
本格的に仕え始めたら、もっと格式の高い場所へ出入りすることもあるのかと思うと、急に不安になってくる。
……これでは、まるで王の近侍にでもなったみたいだ。
磨き上げられた石床には塵一つなく、壁際に並ぶ硝子棚の中では、色とりどりの石が専用の灯りを受けて静かに輝いている。どれも小さく、指先で摘まめる程度のものなのに、聞こえてくる値段は馬や家畜どころか、下手をすれば小さな家一軒に届きそうなものばかりだった。
壊したらどうなるんだろう。
そんなことを考えた途端、無意識に棚から半歩離れていた。
衣服はグラント様から支給されたものだから、少なくとも場違いな貧乏人が紛れ込んだようには見えていないはずだ。店の者たちも、俺へ露骨に不審の目を向けてくることはない。
それでも、俺の所作や振る舞いから、こういう場所に不慣れなのは伝わっているのだろうか。
必要があればすぐに声を掛けられる位置にいながら、こちらが棚へ近づけば、目立たない程度に視線を寄越してくる。その距離の取り方が妙に正確で、森の中で獣の気配を背後に感じている時のような居心地の悪さがあった。
それに比べて、カイルはこういう場所へ馴染んでいる。
店員と専門用語を交わし、石の産地や加工法を尋ね、値段を聞いても顔色一つ変えない。生まれた時から、こういう品が身近な世界にいたんだろう。
リシェの方といえば、俺よりもこういう場にはとっくに慣れている。おしとやかに黙ってさえいれば、そこにいることに何の違和感もなく馴染んでいた。
少し離れたところでは、高価な完成品には目もくれず、原石や水晶の並ぶ棚を覗き込んでいる。宝石そのものより、中に閉じ込められた虫や、光の角度で変わる模様の方が気になるらしい。
どんなにお澄まししてても、根っこは俺の方に近い。
俺も装飾品より、加工に使う小さな道具や留め具の方へ自然と目を引かれていた。細い鎖を繋ぐための鉗子や、石を固定する見慣れない器具。用途を想像している方が、値札の付いた石を眺めるより、よほど気が楽だった。
そんな俺のところへ、店員との話を終えたカイルが近づいてきた。
「昨日の……件……不可抗力とはいえ、寝間着や寝顔を見てしまった。お詫びにリシェリアが気に留めないくらいで、何かさりげないものを贈りたいんだが」
少し意外だった。
昨夜のことは、振り返って考えてみても……カイルが何をしたわけでもない。
あれで責任を感じるのは、まあ、几帳面すぎるというか……らしいというか。
そこまで気に病むようなことじゃない、と俺は思えた。
ただ。
城へ来る前から、そして城へ来てからも、リシェの生まれつきの距離感を知っている身としては……まあ、取り乱すのも分からなくはない。
異性が寝ぼけて添い寝をしに来る。しかも相手は、自分が想いを寄せている女だ。
カイルみたいな立場の奴からすれば、破廉恥といえば破廉恥だろう。
実際、王城へ入る前も、入ってからも、俺たちは口を酸っぱくして叩き込まれた。
「適切な男女の距離感」というものを、嫌になるほど。
手を繋ぐことも、肩を寄せることも、寝起きに抱きつくことも、俺たちにとっては当たり前だったことが、城では一つ一つ線引きされていく。
最初は窮屈で仕方がなかった。何が悪いんだ、と何度思ったことか。
だが、今は理解している。
大きな群れには、大きな群れの秩序がある。
そうしなければ守れない人間も、守れない立場もある。
そして、そのおかげでダリオみたいな例外を除けば、変な男がそうそうリシェへ近寄れない。
そう考えれば、あの窮屈さも必要なものだったのだろう。
だからこそ、昨夜のカイルの狼狽ぶりを思い返すと、少し可笑しくなってくる。
……俺のところへ来る前に、もしリシェが少しでも昨夜のことを覚えていたら困るくらい、よほど醜態をさらしたのかもしれないな。
思わず口元が緩む。
笑える。
まあ、確かに昨夜のリシェは強烈だった。
いつものリシェが纏う草花の香り、その奥底に確かに混じっていた――芳しい雌の匂い。
寝ている間に無意識に漂ったものなのか。
体調の巡りによるものなのか。
理由は分からない。
だが、あれは凄まじかった。
芳香というより、本能そのものを揺さぶる波だった。
理屈なんて関係なく、雄として反応してしまう。
意識して抗えと言われても、あれは無理だ。
リシェの匂いなんて飽きるほど嗅いできた俺ですら、昨夜のあれだけは別物だった。
俺ほど鼻が利かなくても、感じるものはあるはずだ。
鼻で分からなくたって、身体のどこかでは感じる。一目惚れだって、直感だって、そういうものだろう。
あれを間近で浴びて、グラント様やジェスはもちろん、普通の男なら揺らがない方がおかしい。
だから、カイルが何かしら罪悪感を抱いてしまうのも分かる。
……現金だよな、俺も。
休暇に入ってからというもの、カイルに対して前ほど敵意が湧かなくなってきた。
登用の手回しをしてくれたり、俺とリシェの和解を気にして場を整えてくれたり。
そういう積み重ねが、少しずつ心の中を書き換えてしまった。
あれほど敵対していた男なのに、今ではもう違う。
群れを脅かす敵じゃない。同じ群れに属する仲間。
そんな感覚の方が近かった。
じゃれ合うことも増えたし、妙に息が合うこともある。
それが少し腹立たしくて、けれど悪くないと思ってしまう自分もいる。
……だから。
ちょっとくらいなら、共有してもいいかもしれない。
そう思った俺は、懐から古びた小さな包みを取り出した。
ずっとしまい込んだままになっていたものだ。
しまい込んだままじゃ、この石もずっと昔のまま。
これは、俺たちの家族の中だけに残っていたものだ。
少し前までの俺なら、カイルへ見せようとは思わなかっただろう。リシェの過去へ、あいつの手を触れさせること自体が気に食わなかったはずだ。
けれど今は、不思議と預けてもいいと思えたから。
丁寧に革紐をほどく。
現れたのは、黒く変色した鎖。埃をかぶり、青ささえ曇ってしまった小さな石。
それでも、光へかざせば奥にわずかな青が残っている。
これは、元々は首飾りだったはずのものだった。
「……これ」
俺はそれをそっとカイルへ差し出した。
「昔な。うちの親がリシェを拾った時には、懐にもってたらしい。銘もねえし、特徴もないただの石ころだ。調べてもらったが、全く価値もないらしい。随分前に鎖がちぎれて、リシェは『いらない』って言った。……けど、取っておいたんだ」
言いながら、その頃のことが頭をよぎる。
食べるものにも困っていた頃。鎖を直す金なんてあるはずもなく、売ろうと思っても二束三文にもならない。それでも捨てる気にはなれなかった。
リシェは本当にいらないと言って笑っていた。
けれど、俺には捨てられなかった。
放浪していた頃は、少ない荷物の奥へ紛れ込ませていた。城へ入ってからも、どこかへ置いて失くすのが嫌で、結局また懐へ戻したままになっていた。いつしか持ち歩くのは癖のようになっていた。
「いつか直してやりたいとは、ずっと思ってた。でも、そんな余裕もなかった。生きるだけで精一杯だったし、放浪の最中じゃ絶対に無理だった。城へ来てからも、目の前のことに追われて後回しにしてた」
悔しさと、ようやく差し出せた安堵。
もっと早くできたんじゃないかという後悔。
いろんなものが、胸の中で静かに入り混じる。
「よかったら、これを直して返してやってくれねえかな。手がかりになるかは分からねえけど、あいつが昔から持ってた、唯一残ってる品だから」
「……話してくれて、ありがとう。わかった。見せてもらってもいいかな」
カイルは俺の気持ちを汲んでくれたように目を細め、ほんの少しだけ笑った。
その笑みには、からかう色も、打算もなかった。
ただ静かに石を受け取り、傷んだ鎖や留め具を丁寧に眺めてから口を開く。
「直して、俺たち二人からということにするのはどうだ? お前が品を出す。俺が金を出す。これで等分だ。……昨夜の騒ぎを収めたのはお前なんだから、巻き込んだ詫びをさせてくれ。それくらい受け取ってくれてもいいだろう」
そう言ったカイルの顔は、「いいことを思いついた」とでも言いたげで、妙に楽しそうだった。
「ああ!」
胸がぱっと軽くなる。
ずっと引っ掛かっていたものを、ようやく一つ下ろせる気がした。
こんな高級店へ頼めば、修理になるのか、作り直しになるのか、それすら分からないくらい金が掛かるはずだ。
どう考えても、俺の出す品の価値なんて釣り合わない。
それなのに、対等だと。そのうえ、詫びまでしようとしてくれる。
リシェのおまけでしかなかった俺に。
……カイルは、やっぱりそういう男だ。
カイルには本当に世話になっている。……正直、頭が上がらない。
リシェのことだけは絶対に譲れない。それだけは、何があっても譲る気はない。
だが――それ以外のことなら、いくらでも譲れる。
そのくらい、今の俺はカイルという男を認めていた。
……せめて一、二回くらいなら。
リシェへちょっかいを掛けてくるのも、まあ、大目に見てやってもいいかと思った。




