灰色の罪滅ぼし
話をしていた店員が在庫を確認しに俺の前から去っていくのを見送り、俺はようやく姿勢をわずかに崩して、深く息を吐いた。
不意に会話が途切れ、しばらくぶりに自分の思考と向き合うことになる。
宝飾品店の中は、防犯のため窓も少なく、外の日差しはほとんど届かない。夏だというのに空気はひんやりとしていて、磨き上げられた石床が熱を遠ざけている。
静かで、薄暗く、外界から切り離されたような空間。
……夜を思い出す。
行きの馬車では、説明を続けることで余計なことを考えないようにしていた節がある。口を動かしている限り、思考は仕事へ向けられる。
だが今、店内で二人からも離れると、忘れたふりをしていた記憶が、静かに胸の底から浮かび上がってきた。
夜中、リシェリアが部屋へ闖入し、セランと二人で対処した――あの妙に現実感の薄い出来事。
夢だったと言われても信じてしまいそうなほど曖昧なのに、触れた感覚だけは鮮明だった。
その後は結局、夜が明けるまで一睡もできなかった。
朝焼けが差し込むまで意識は燃え続け、頭の奥は熱を帯びたまま冷めなかった。
出発までのわずかな数時間だけ眠り、今は多少すっきりしたはずなのに、それでもどうしてもリシェリアの顔を正面から見ることができなかった。
せっかくの買い物だ。
本来なら彼女の隣で宝石を覗き込みながら、珍しい石について話したり、どれが似合うか笑い合ったり、そんな穏やかな時間を楽しめるはずだった。
それなのに今の俺は、落ち着かない。
気づけば無意識に距離を取り、店員との会話へ逃げ込むように時間を費やしていた。
少し離れた棚では、リシェリアが水晶を光へ透かし、その中へ閉じ込められた小さな虫を見つけて、嬉しそうにセランへ見せていた。
子供のように目を輝かせるその姿は、昨夜の出来事など何一つ知らない顔だった。
その無防備な横顔を見るほど、俺だけが汚れた秘密を抱えているような気がしてならない。
視界の隅に銀髪と青い瞳が入るだけで、どうしたって思い出してしまう。
――あの唇に触れた。
たとえ中身が別人格だったとしても。
彼女自身が何も覚えていなくても。
顔も、身体も、触れた感触も、返ってきた反応も、確かにリシェリアそのものだった。
混乱していたとはいえ、俺は彼女の唇に夢中になった。
最初に仕掛けたのは向こうだった。
だが、途中からは違う。
引き寄せたのも。
深く求めたのも。
止まりきれなくなったのも。
全部、俺自身だ。
セランがリシェリアを抱えて去ったあとも、俺は夜が明けるまで、その甘い記憶へ縋ってしまった。
情けないほど、何度も、何度も。
目を閉じるたびに思い出し、忘れようとするほど鮮明になり、そのたび胸の奥が熱を帯びた。
そこにリシェリア自身の意思はなかったとしても、罪悪感だけは十分すぎるほど胸へ刺さっている。
……何か、自然な形で、気づかれずに詫びる方法はないだろうか。
やましい。
そんな後ろ暗さを抱えたまま、俺はリシェリアに似合う宝飾品を見せてもらっていた。
物を贈ったところで、何かが帳消しになるわけではない。
むしろ本人の知らないところで勝手に罪滅ぼしをするなど、結局は自分が楽になりたいだけの自己満足だ。
それでも、何もしないまま甘い記憶だけを抱えているよりはましだった。
そして単純に、好きな女性へ何かを贈りたいという気持ちも、当然ある。
リシェリアが少しでも心を引かれるものがあれば――そう願いながら、並べられた品々と、離れた場所にいる彼女の様子を何度も見比べていた。
しかし、彼女は高級品の棚にはほとんど目を留めなかった。
石の輝きに目を奪われることはある。
けれど、その瞳へ“欲しい”という色は宿らない。
淡い好奇心だけを残し、視線は次の石へ移ってしまう。
宝石そのものよりも、その中へ閉じ込められた模様や、不思議な色の移り変わりに興味を惹かれているようだった。
今までも、そうだった。
彼女は与えられたものを受け入れても、自分から何かを望むことはほとんどない。
そういう女性だと知っていたはずなのに。
……儀式の飾りも、盛装の装身具も。
随分前、ヴァロア子爵の夜会へ出席した時のことを思い出す。
華やかな装いを喜ぶより先に、聖女が着飾って社交場へ出ることそのものへ戸惑っていた。
鏡に映る自分より、周囲へ迷惑を掛けていないかばかり気にしていた姿が脳裏へ浮かぶ。
母の形見の銀時計を、押しつけるように渡したこともあった。
あの時も、喜びより恐縮の方が大きかった。
負担に思わせていないか、今でも確信は持てない。
高価で形に残る品よりも、季節の花や珍しい果物を前にした時の方が、リシェリアはずっと柔らかく笑う。
そのことを俺は知っている。
それでも、何か彼女の手元へ残るものを贈りたいと思うのは……結局、俺自身の身勝手な願望なのだろう。
いや。
将来、彼女が路銀に困ることでもあれば、売ってしまえばいい。
そのくらいの気楽さで考えよう。
そうと決まれば、あとは品物だけだ。
――そうか。
共犯者に聞けばいい。
正確には、共犯者ではない。
昨夜、何も問い詰めずにリシェリアを引き取り、俺の体面まで守ってくれた相手だ。
礼を言って終わるには、少しばかり大きな借りができている。
さらに頼ってしまっていいものかとは思う。
だが、背に腹は代えられない。
俺は思いつき、セランの方へ歩いた。
加工道具の棚を興味深そうに眺めていた彼の背へ声を掛ける。
「セラン、昨夜の……件なんだが。その、不可抗力とはいえ、寝姿を見てしまった。詫びに、リシェリアが気に留めない程度の、何かさりげないものを贈りたいんだが」
言いながら、自分でも苦笑したくなるほど気まずかった。
恋敵へ相談することか、これは。
だが、事情を唯一知り、理解してくれるのは間違いなくセランだ。
そして、リシェリアの好みを最もよく知っているのも彼だった。
最近は――悔しいことだが――恋敵というより、妙に気の合う悪友のように思えてしまっている。
あれほど敵視していた男なのに、この件を相談する相手として真っ先に顔が浮かんだ。
その事実が、俺たちの距離が少しずつ変わっていることを、何より雄弁に物語っていた。
セランは振り返り、手にしていた道具を棚へ戻しながら、軽く眉を上げる。
すぐには答えず、ほんの一瞬だけ俺の顔を見た。
昨夜のことを思い返したのか、何とも言えない表情を浮かべ、それから肩をすくめた。
「ん……? ああ。結局、気づいてるわけじゃないし、いらねえだろ。まあ、分かったところで怒りもしない。そもそも、あっちから来たってのが本当ならな」
特に気を悪くする様子もなく、淡々と返してくれる。
その無頓着さに、少しだけ肩の力が抜けた。
「いや、カイルは抱えて運べないんだから、そこは疑う余地はねえな。悪い悪い」
……と思えば、非力を軽く弄られる。
今回は、それが俺の無実を証明してくれている。
甘んじて受けよう。
「そうだけども。本人は何も知らないままだし」
俺が何を言い繕おうと、理由はいくらでも並べられる。
だが、そのどれもが言い訳だった。
ただ、そうしないと俺自身の気が済まないだけなのだ。
胸に残る甘さと罪悪感のせめぎ合いへ、どうにか自分なりの決着をつけたかった。
けれど、彼女が望みもしない物を押しつけるのは違う。
「高価なものでなくていい。本人が価値なんて気にしなくてもいいんだ。見た時、ほんの少し笑ってくれさえすれば――」
そこまで言ったところで、セランの表情が変わった。
何かを思い出したように、懐へそっと手を当てた。




