公女の八つ当たり
オルシナは、海風の匂いが街路の石畳にまで染み込んでいる。
グラントが治める領内でも、とりわけ活気のある交易都市。土地そのものはネーヴェリアと接していないが、海を渡る航路が直通しており、隣国の沿岸から香料も金属も鉱石も、信じられないほど豊富に届く。
――初秋に予定されている私の生誕祭。
その前後には、母が大量の社交と面会を押し込んでいる。そのどれもが、母クラウディアによって半ば無理矢理ねじ込まれた予定だった。
母が何を考えているかなど、途中から推測するのも馬鹿らしくなる。
結局は、相手が差し出せるものと、母が見積もる私の価値とを秤に掛け、満足のいく釣り合いを探るための場なのだ。
けれど、交流そのものは国家に益をもたらす。
……やるべきことをやるだけだ。
母の意図をそらしながら、親交だけは深めればいい。国内外を問わず、相手がメイスン家に求めるものは財産か、軍事上の便宜か、宮廷や祭祀庁へ繋がる足掛かりか。それとも、リシェリアの異能そのものか。
それを見極める。
その中でも、とりわけ扱いが難しいのが、シルヴィナス北部国境の向こう、ネーヴェリア南部のノード領を治めるランバルト・アドラー辺境伯だった。
アドラー辺境伯をはじめとするネーヴェリア使節との交流だけは、国内の相手と違って、それ自体が外交になる。不手際は起こせない。
相手国の特産品を身につけ、敬意と親善の意思を示すのも、もちろんその一環――政治というものだ。
グラントの紹介で向かったのは、町一番の宝飾品店。イェルス家代々の御用達でもある。
人目のある通りでは、領主とその客という体裁を取っていた。だが、店の奥へ通された瞬間、私は王族アストリット・メイスンとして扱われる。
「本来は邸宅までお伺いするところですのに、お越しいただき誠に光栄です」
店主は最敬礼で迎え、最奥の貴賓用応接室へ通した。
白壁には海色の布が掛けられ、涼しい香油の匂いが漂っている。
「殿下はご多忙の御身で、今日は視察の合間を縫ってお越しになった。相応しいものを用意してくれ」
そうグラントが口にする。
私は城の外では、騎士団の将官として広く顔を知られているわけでもない。格式ある親王家の“貴き身”として扱われる機会も、普段は多くなかった。
姿絵が出回っているわけでもなく、私自身もそういう扱いを好んではいない。
だからこそ今日の装いも、領主の秘書役程度にしか見えないよう整えてある。
「殿下。当日はどのようなお召し物のご予定でしょうか。もし図面などをお持ちでしたら、併せてご提案いたします」
「何もない。今日決めた品を基調に仕立てさせることにする」
「承知いたしました。それでは全霊をもってお仕立ていたします。もしご意向や、お好みの素材、色彩などがあれば」
「任せる。自慢の提案を見せてみろ」
笑う気分には到底なれず、言葉も硬くなった。
当日のことを想像しただけで、胸の奥が重く沈む。
何を着るかすらまだ決めていないのに、宝飾品など身を重くするだけだ。
いっそ男装で行けば、縁談などという誤解もされずに済むか――そんな考えが頭をよぎる。
店主は少し顔色を曇らせ、別室へ引っ込んだ。
ほどなくして戻った店主は、公女としての私にふさわしいとされる華やかな図案を卓上へ並べた。
「……違う。これも違う。華美にすぎる。相手と対等に向き合う場にはふさわしくない」
手を触れず、一瞥しただけで却下する。
最初に並べられた案をすべて退けると、店主は再び品を探しに席を外した。
少し冷えた茶が、沈黙の空気をさらに冷たくしていく。
「殿下……」
グラントが、困惑を隠さず声を掛けてくる。
私の態度に辟易したのかもしれない。
政治目的に応じた条件を何一つ示さず、差し出された案を退けるばかりなのは、彼の知るアストリット・メイスンらしくなかったのだろう。
私は答えない。
公女殿下であるなら、答えたくない問いに答える義務などない。
「アスティ」
正確に空気を読み、彼は呼び変えた。
臣下でもなく、公女でもなく、一個人への声。
第三者もいない。
「なに」
それなら、ただの私として応じる。
「なんだ、あの態度は。私の懇意の商人なんだ。あまり恥をかかせないでくれ」
戸惑いも滲んでいる。
「あら。それじゃあ、未来の公爵夫人に恥ずかしくないものを、貴方が選んでくださるのかしら」
意地の悪い揶揄が、口からこぼれた。
結局、あの場で求婚を断って以降、赤と黒の賭けを続けるか否かについても、話は何一つ進んでいない。
私がもう話を振るなと言ったからではあるが、あれからグラントとは、二人で面と向かって話していなかった。
それ以降に交わしたのは、他者のいる場での上官と部下、あるいは領主と王族としての、上辺だけのやり取りばかりだった。
カイルやセランたちが何やら話し合っていることも察している。
リシェリアを使って探りを入れ、私を恋愛の土俵へ引きずり出す、小賢しい包囲網でも考えているのか。
何にせよ、まっすぐではない。
「……侮らないでくれ。君が相手でなくとも、そのような思い上がった先走りはしない」
「それは失礼。悪かったわ」
横目だけ向けて、口先の謝罪だけを投げる。
「……衣装の調達も公務の一つだろう。せめて方向性や要望を述べてくれ。なぜ、そんなに苛ついている?」
対等な立場の声音だった。
彼の苦言は正しい。意地を捨てて要望を口にすれば、すべてがもっと楽になる。
互いに時間を浪費するのは、本来どちらも好まない性質だ。
……分かっている。
私が悪い。
ただの八つ当たりだ。
「……」
けれど、まだ折れたくなかった。
胸の底で鳴り続ける不協和音を、どう扱えばいいか分からない。
そこに並ぶ図案や宝飾品の見本は、“ここにいない、想像上の令嬢”を飾ろうとするものばかりだった。
虚飾の山。
現実の私には、一歩も触れようとしない。
並べられた品を見ているうちに、つい先日、グラントとの間で交わした、“求婚”の名を借りた冷ややかな応酬まで思い出された。
……求婚されたことそのものではない。
あの日、私という人間より先に、身分と婚姻の形だけを差し出されたような不快感が、予想以上に胸へ残っていたのだろう。
答えない私に根負けしたのか、グラントは突然立ち上がると、店主が使っていた席へ腰を下ろした。
足を開き、飾り気のない自然体のまま、無言でこちらを見据える。
「拙速を尊ぶ、いつもの君らしくない」
視線を受ければ、こちらも合わせざるを得ない。
私らしさ。
どの顔が、私らしいのだろう。
公女としての仮面か。
士官としての冷静さか。
それとも、誰の肩書も背負わない素顔か。
今、自分がどんな顔をしているのかさえ分からなかった。
グラントには、どの私が見えているのだろう。
「大樹に誓って、この休暇中はもう例の話をしない」
表情を変えず、ただ率直に。
交渉の響きがあった。
「そして殿下。臣下として私をお信じいただけないのであれば、ここで席を外しましょう」
臣下としての言葉。
「これは友人として。アスティ。……滅入るから機嫌を直してくれ。この後に飲む酒がまずくなるだろうが」
渋い顔で、困り果てて。
珍しく弱った声音だった。
「私たち、いつから友人になったのかしら?」
そう返した瞬間、彼の顔がひどく気まずそうに固まった。
その表情が可笑しくて、堪えきれずに吹き出してしまう。
「……ふっ」
笑いは一度漏れると止まらなかった。
「ふふっ、あはは……」
手で口を押さえても、声がこぼれる。
今笑っているのは、公女でも、士官でもない。
ただの私がそこに残った。
「悪かったって。……ちょっと嫌なことを思い出してね。これを身につけて臨む相手のことを考えると、特に気が重くて」
店にも、グラントにも、本来ぶつけるべき苛立ちではなかった。
私は感情を引きずらない人間だと思っていたのに。
先日の一件が、予想以上に胸へ残っていたのだろう。
「そうね。……相手に媚を売りたいわけじゃない。私らしく、それでいて相手と対等であることを示したい。そのために必要なものが欲しい」
正直に言うと、グラントは静かに思案した。
グラントが見ている“私らしさ”。
その意見が聞きたかった。
「そうだな。それでは、意見を奏上するならば」
グラントは卓上の図案へ視線を落とし、必要なものだけを拾い上げるように言葉を選んだ。
「石は粗削りな結晶を生かし、素材そのものの力強さを出す。装飾は直線を基調にして、飾りは少なく洗練させる。地金だが……私の知るアストリット・メイスンには、鋼の色が合う」
公女という肩書だけではなく、私の好みと性質を見て選んでいる。
誰よりも、私がどんなものを好むかを知っている声だった。
「いいね。……それにする」
思わず、少し笑ってしまう。
グラントもようやく安堵したように、肩を落とした。
ちょうどその時、店主が新しい図案を抱えて戻ってくる。
彼の言葉を借りているはずなのに、口にしてみれば、どれも以前から自分の中にあった望みのように、不思議なくらい馴染んでいた。
私は今度こそ、自分の言葉で条件を伝えた。
「原石の型を生かした意匠を基調にする。地金は鋼色。直線を生かし、繊細な飾りはいらない。華麗さではなく、そう……しなやかさを表して欲しい」
店主の強張っていた顔に、ようやく職人らしい光が戻る。
「承知いたしました。では、その方向で改めてご提案いたします」
卓上へ新しい紙が広げられ、筆先が動き始める。
グラントはもう口を挟まず、冷めた茶へ手を伸ばしていた。




