潮光の港都オルシナ
馬車の車輪が白灰色の石畳を軋ませながら、緩やかな坂を下っていく。
開けた窓から入り込んだ潮の香りが風に混じり、鼻先をくすぐった。イェルス家の保養邸を出て半日。眼下に広がるのは、海と風と光の街、オルシナだった。
今日はグラントとアスティが先行する馬車に乗り、俺はリシェリアとセランとともに後続へ乗り込んでいた。領主と公女、聖女と担当官、それを護衛する兵士。表向きの役割に従えば、自然な分かれ方ではある。
もっとも、俺はその役割に徹して大人しく座っていたわけではない。二人の正面に陣取り、教師よろしく領地の説明を続けていた。
「ここがオルシナ。イェルス家の領地の中心――そして、王国で最も大きな海都だ」
そう告げて、窓をさらに大きく開ける。
潮風が勢いよく吹き込み、塩気に混じって乾いた金属の匂いが届いた。遠くでは船の鐘が鳴り、上空には海鳥の声が響いている。白い壁と青い屋根が連なる街並みの向こうには、陽光を反射する帆船の群れが見えた。海上には小島や遺跡が点々と浮かび、港を包む天然の入り江が金色に輝いている。
「交易と造船で栄えた港だ。香料や金属細工、珍しい石……王都では見ないものも多い。それに、潮風と風向きを読む文化があって、信仰も少し変わっている。ここでは大樹のほかに、“風と潮”も重んじられている」
俺はわずかに苦笑して付け加えた。
「祭祀庁としては遺憾だけど……海岸では、大樹の恵みだけに暮らしを委ねるわけにもいかないからね。漁師なんかは、もっぱら風への信仰の方が強いと聞く」
もちろん、木は海辺にも育つ。環境に合わせて姿を変え、それでも根を張り、生き延びる。
オルシナの分霊樹も、潮風に耐えるよう低く広がり、王都のものとは異なる枝ぶりをしていた。その生命力への畏敬もまた、大樹信仰の一部ではある。
だが、潮風も塩も、多くの樹木にとっては厳しい。波は大地を削り、塩は植物を弱らせ、金属を錆びさせる。そうした土地で生きる者たちが、大樹だけでなく風や潮そのものへ祈りを捧げるようになったのは、自然な成り行きなのだろう。
リシェリアは窓際へ身を寄せ、外を見つめていた。
潮のきらめきに照らされた横顔には、静かな安堵が浮かんでいる。薄いスカーフ越しに銀の髪が光を弾き、青い瞳には海の色が映り込んでいた。驚きと、ほんのわずかな憧れが、その表情の中で柔らかく混じり合っている。
「風が……やわらかいですね。同じ海なのに、先日の入り江とも全然違う」
呟いた声が、吹き込む潮騒に溶けていった。
港町特有の塩気を帯びた空気の中で、彼女の白い横顔は、すぐ傍にいるのに、どこか遠い場所を見ているように思えた。心なしか、セランも少し神妙な顔をしている。
彼女とセランには、海にまつわる嫌な記憶があると、この休暇の初めに本人から聞いたばかりだった。
……だから、この海の街で得るものが、楽しく美しい記憶として積み重なり、彼らの中に残る海の痛みを、少しでも薄めてくれればいい。
そんな思いで、俺は解説を続けていた。
やがて馬車は、港を見下ろす石畳の広場へ滑り込んだ。御者が馬を止め、扉を開く。
「やっと着いたか。肩が凝った……」
先に降りたセランは、その場で大きく背を伸ばし、深く息を吸い込んだ。
潮と鉄と花の香りが混ざる空気を胸いっぱいに取り込み、眩しそうに目を細める。陽光を受けた赤い髪が風に揺れ、灯火のように鮮やかにきらめいた。
「……座っていただけだろう」
俺も続いて馬車を降りる。
「そういうのに慣れてないんだよ。警護なんだから気が抜けるわけでもないし、見通しも匂いも遠くなる。馬で伴走する方がずっといい」
昨夜、こちらの都合に巻き込んで寝不足にさせた詫びとして、少しでも楽をさせてやろうと車内に座れるよう手を回したのだが、どうやら余計な気遣いだったらしい。
「なら、帰りは御者台でいいよな。なぜか車内が狭かったから助かる」
それはそれでいい。
そうなれば、リシェリアと二人きりになれる。願ってもない。
ちらりと彼女へ視線を向けた瞬間、こちらの意図を予測していたかのように、セランがすぐ口を挟んだ。
「は? それとこれとは別だ」
「もう、二人とも。アスティたちが先に行ってしまいますよ」
リシェリアが、さっきまでの憂いなど微塵も感じさせない笑顔で、戯れる俺たちを楽しそうに見ながら促した。
「まあ、訪問先は分かっているから、焦らなくてもいいさ」
領主である総長グラントも、公女であり軍人でもあるアスティも、さまざまな目的で何度もこの街を訪れている。だが、リシェリアとセランにとっては初めての来訪だ。歩く速度まで揃える必要はない。
多少はぐれても困らないよう、落ち合う場所も先に決めてある。俺は懐から地図を取り出し、二人へ広げて見せた。
「ほら、あの高台に見える白い塔――あれが海風の塔だよ。風と潮の巡りを読み、船の航行と祈祷を司る。海風観測所も近い。祭祀庁の支部が置かれているのも、その一帯だ」
リシェリアは地図を覗き込みながら、指先で港の輪郭をなぞった。紙の上に記された街の形を、実際の景色と結びつけようとしているらしい。
「この通りを真っ直ぐ抜けると市場だ。北側が職人街、南側が港へ続く交易路。今日はこのまま繁華街を通って、宝飾店街へ向かうことになっている」
彼女の指先は、紙に描かれた輪郭を一つずつ確かめるように動いていた。セランはそんな彼女を一瞥し、口元にかすかな笑みを浮かべている。
俺は顔を上げ、空を見た。
帆を張った船の青と、屋根の上で回る風見鶏の金属の光が重なり、風の中で揺れている。
「オルシナは“潮光の港”とも呼ばれている。風を読める者だけが商機を掴める――そう言われるくらい、風がすべての街だ。優秀な風師は、船乗りや商人からも深く尊敬されている」
沖合から吹く風は、他の地域にはない独特の流れを持っていて、その流れを正しく捉えた船は、通常よりもはるかに短い日数で海を渡れるらしい。オルシナが輸出入によって他の都市以上に栄えている理由も、そこにある。
「風も波も、生き物みたいですね」
「へえ。馬の機嫌なら分かるんだけどな」
この土地では常識で、旅人向けの案内書にも載っているような、ありきたりな俺の講釈。それでも二人は、それぞれ素直に感想を返してくれる。
……なんだか、楽しい。
いつか領地へ引っ込んだら、子供相手に講義でもしてみようか。
広場から通りへ出ると、オルシナ特有の明るい喧騒が一気に押し寄せてきた。
アスティの希望で宝飾店街へ向かうため、俺たちは徒歩で街を抜けていく。潮の匂いは濃いが、船荷や汚泥の臭気は意外なほど薄い。石灰を混ぜた白壁と青い庇が連なり、強い陽光を跳ね返している。
隣国ネーヴェリアの文様が刻まれた看板や、異国語で値段を叫ぶ商人の声も混じっていた。鉄、香料、海産物、金属細工。あらゆる交易品が通りに並び、人の往来は途切れない。王都とは異なる、開放的で風通しのよい活気が街全体に満ちている。
「少しだけ……シルヴィナスとは違う国みたい」
リシェリアの呟きを、海風がそっと攫っていく。
銀髪が光を受けて柔らかくきらめき、青い瞳には次々と珍しい景色が映っていた。視線が忙しく動くたび、連れてきてよかったという満足が胸の内に静かに広がる。
先行していたアスティたちと合流し、彼女の案内でいくつかの店を軽く覗きながら、繁華街の中心へ向かった。
その奥、通りの喧騒がわずかに落ち着いた一角に、目的の宝飾品店があった。
青い帆布を模した看板には、銀細工の海鳥が飾られている。イェルス家代々の御用達で、隣国の特産宝石を扱う最高級店の一つだ。
お忍びとはいえ、アスティと聖女を含む一行である以上、店側も心得ていた。表立って騒ぐことはなく、貴賓室へ続く奥の区画だけを静かに人払いし、俺たちを案内した。
外交用の宝飾品を選び、発注する。それが今日の主目的だ。
アスティは並べられた宝石を落ち着いた目で吟味し、店主の説明を聞きながら、用途や贈る相手の身分、相手国の文化との整合性まで確認している。その姿は公女であると同時に、実務を担う騎士そのものだった。
俺は近くに控えていた店員へ視線を送り、軽く顎をしゃくった。
「殿下を待つ間、少し見せてくれ。良いものがあれば、考えよう」
視線だけでリシェリアを示す。
せっかくだから、こっそり何か押さえておこう。
店員は心得たように頷き、言葉にしなくてもリシェリアの髪と瞳の色に合わせた宝石を次々と卓上へ並べていく。
青、白銀、水色、薄紫。どれも海都らしい光を宿した、透明度の高い石ばかりだった。
「こちらは潮風に強い加工でして――」
「見たことのない地金だな。新しい鉱石を使っているのか?」
「はい。隣国で新たに見つかった鉱床から採掘された鉱石を精錬し、銀と混ぜたものでして――」
つい職業病のように、石の性質や加工法を掘り下げてしまう。店員も知識を披露できるのが嬉しいのか、次々と詳しい説明を重ねてきた。
その間に、リシェリアとセランは少し離れた棚へ移動していた。
床から天井まで続く棚一面に並んだ研磨前の原石や鉱石を、二人は揃って見上げていた。
リシェリアは両手を胸元で軽く重ね、一つひとつを覗き込むように眺めている。光を吸い込み、内側から淡く輝く原石を映して、青い瞳が静かに揺れていた。
セランは腕を組んだまま、無骨な手つきで石を持ち上げ、表だけでなく裏側や欠けた断面まで確かめていた。赤い髪に店内の灯りが反射し、わずかに橙色を帯びている。
「この石、見た目より……重いな」
「ね、見てみて。水晶の中に虫が閉じ込められてる」
「これ、ジェスの目の色だな。あいつ何してっかな」
二人の声には、飾られた宝石を愛でるのとは違う、素朴な驚きが滲んでいた。
その棚の前だけは、高級宝飾店というより、鉱山から掘り出したばかりの石を囲む工房のような空気になっている。
金と潮の光が交わる店内で、俺たちは石を前にしながら、それぞれ違う輝きを追っていた。




