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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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それぞれの峠越え

……とにかく、無事に生還した。

それだけで十分に奇跡だと思う。


夜気の残る部屋で椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆う。

掌に残るのは冷たい汗の感触。

心臓はまだ、落ち着いていない。

脳裏には、あの銀髪と青い瞳が何度もちらつく。


思い返せば――本当に、とんでもない夜だった。


リシェリアとセランは、小さい頃から家族ぐるみで一緒に育ち、アスティが保護するまでは放浪の中でも二人きりで何度も野営をしてきたという。

あんな無防備な寝顔を毎晩横で見て、正気でいられるなど尋常じゃない。俺には無理だ。


……あいつ、よくやってきたな。


尊敬を通り越して、もはや呆れる。

本当に人間か?

どうやって本能と理性を切り分けているんだ。あの男の中には、獣を好きな時に檻へ戻す仕組みでもあるのか。

――そんな風にでも言わないと、やってられない。


リシェリアの顔をした“彼女”の訪問。


あれは、理屈を超えた出来事だった。

中身のことさえ考えなければ、望外の甘露。

あの唇の柔らかさ、肌の温もり、息の触れる距離。


――もしあれが夢なら、醒めてほしくなかった。


あの体温を、あの香りを、脳が何度も再生する。


……いや、考えるな。彼女の中身はリシェリアじゃなかった。


あれは夢だ。

甘く、危うく、二度と触れられない幻想。

それでいい。


とはいえ、禁欲的に過ごしてきた反動というやつだろうか。

こうして一人になると、彼女の吐息も、指先も、触れた瞬間の微かな反応も、生々しく焼き付いて離れない。


まぶたを閉じると浮かび上がる。

理性を総動員して抑え込んでも、頭がその場面を勝手に繰り返し、そのたびに心臓が昂ぶり、俺を苛む。


……今夜は絶対に寝られないな。


寝台に戻るどころか、目を閉じたら即座に再生されそうだ。そのくらい鮮明だった。


けれど、妄想だけに浸っているわけにもいかない。

考えるべきことは山ほどある。


あの“氷の彼女”――リシェリアの姿をした何か。


俺の影響で育ったと、彼女は言った。

けれど、いつから存在していた?


なぜ今になって姿を現したのか。

何を望み、何を伝えようとしていたのか。


声をかけなかったのか、それとも――かけられなかったのか。


推測は尽きない。

答えは、彼女の中にしかない。


次に現れた時、俺は何を問うべきか。

何を聞けば、リシェリアを本当に守れるだろう。


深く息を吐く。

窓の外では、夜が少しずつ白み始めていた。

長い夜の果てに、朝は来てしまっていた。


鳥もまだ鳴かない、息を呑むほど静かな時間。

夜の気配が残る灰色の空をぼんやりと眺めていると、扉の方でわずかな気配が動いた。


反射的に顔を上げて声をかける。


「……早いな」


声がかすれて、自分でも驚くほど弱々しい。

結局、一睡もできなかったせいだ。

目の奥がじんじんと痛み、頭の芯が熱をもっているようだった。


扉が軋む音。

ゆっくりと入ってきたのはセランだった。


赤い髪が朝の光をかすかに受けて鈍く光る。

腕には昨日の夏掛け。

俺の部屋から持ち出したものを返しに来たのだろう。


「起きてたか」


静かな声。

その言葉がやけに温度を持って響いた。


俺は軽く息を吐き、かすれた声で返す。


「……寝れなかった」


鏡を見なくても分かる。

目の下の濃い隈、充血した眼。

顔を冷やす気力もない。

頭の中ではまだ昨夜の出来事がくすぶっていて、思考がまとまらない。


沈黙に耐えきれず、俺は口を開いた。


「リシェリア……覚えてたりしないよな……?」


その言葉を出した瞬間、胸の奥にひやりとした冷気が走った。

万が一、あの一部始終を思い出されたら――終わりだ。

祭祀官としても、男としても、何もかも。

冷や汗が頬を伝う。


セランは腕に掛けた夏掛けを持ったまま、妙に同情的な眼差しを向けてきた。

その目には、からかいも非難もない。


よく見れば、セランの顔にも眠った形跡がほとんどなかった。

赤い髪は手で整えただけらしく乱れが残り、金色の目の下には薄い翳りがある。俺ほど露骨に憔悴してはいないが、こいつも昨夜を無事に眠って過ごしたわけではなさそうだった。


……そうだよな。

例えリシェリアを抱える腕力はあっても、隠密で女性階に忍び込んだりするのは別問題だよな。

完全に、巻き込んでしまった俺のせいだ。少し申し訳ない気持ちが沸き上がる。


「あの後、部屋に転がすまで少しも起きなかった。いつも寝起きは良くないし、ああいう感じなら大体覚えてない。……だから、自分で部屋を出たことにも気づいてないと思う」


覚えていない可能性が高いと聞いて、全身の力が抜ける。

肺の奥から長く息を吐いた。


「……はぁ……」


情けない音が漏れる。

心臓がようやく落ち着きを取り戻す。


「……社会的に破滅するところだった……頼ってすまない。セランしかいなかった」


普段なら、ここまで率直な言葉は使わなかっただろう。

けれど今は、睡眠不足で余計な壁を作る気力もなかった。

本音がするりとこぼれた。


セランはわずかに眉を上げて、呆れたように言う。


「普段、あんなに顔だけは取り繕ってたのに、意外な反応だな」


嫌味ではなかった。

むしろ、どこか感心しているような声。

彼の金色の目が、半分笑いを含みながら俺を見ている。


苦笑で返す。


「いや……そりゃ普通なら願ったりかなったりだしな。本人が望んで来てくれてたなら、拒む理由なんてない。……でもあの状態なんて寝込みを襲うようなもんだ。一方的なことは……したくない」


口に出して初めて、言葉が重くのしかかる。

リシェリアが眠っている間に身体だけ借りて現れた別人。あっちの合意があったとて、本人にとっては寝込みに違いない。


踏み越えなかった自分を、少しだけ誇らしく思った。

……同時に、ほんのわずかな後悔も残っている。


「次は、きっちり合意を得た上で、お前より先へ進む。せいぜい油断していてくれ」


いつものように焚きつけるつもりで軽口を叩いたが、セランは意外にも応じなかった。

いつもなら、俺の宣戦布告にはすぐ噛みついてきたはずなのに、煽り返すことも、鼻で笑っていなすこともなく、わずかに目を伏せる。


「……そうだな」


声が僅かに掠れていた。

腕に掛けた夏掛けを握る指へ、わずかに力がこもる。


「そういうところは、お前、すごいよな。……リシェを守ってくれて、ありがとう」


感心だけではない。

妙に苦い響きが混じっている気がした。


「……いや、セランの日頃の忍耐力にこちらこそ脱帽だ。今度鍛え方を教えてくれ」


この時間にもっと知りたいこともある。

もう一人のリシェリアのことを、本当はセランにも聞きたい。知っているのか、知らないのか。

どうしてあいつはセランをないがしろにする発言をするのか。


だけれど、体は限界だ。


まぶたが重い。


「……ダメだ……安心したら眠くなってきた。聞きたいこと……あるなら、後にしてくれ……」


自嘲混じりに言ったあと、大きなあくびが出た。

もう、何を話しているのかも曖昧になってくる。


「今から少し寝る……」


呟く声が、半分夢の中に溶けていく。

セランはため息をつきながら、腕に抱えていた夏掛けを放るように寄越した。

ふわりと顔に当たり、そのまま抱きしめる。


夏掛けを放ったセランは、俺がそれを抱き込むのを見て、わずかに眉を寄せた。何か言いたそうに見えたが、結局、口にはしなかった。


いいだろこれくらい。もともと俺の部屋のものだ。


柔らかくて、花と草。どこか甘い匂い。

リシェリアの香りだ。


意識が溶けていく。

ようやく、静かな眠りが迎えに来た。


――今度こそ、いい夢に誘われそうだった。

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