夢幻の残香
深夜半。
静寂の底に、妙に規則正しい音が混ざり始めたことに気づいたのは、まだ夢の狭間にいた時だった。
――トントントントントントントントン……。
最初は、遠くの雨音かと思った。それがどうにも一定の間隔で耳を叩くものだから、半ば夢の続きのように布団の中で呟いた。
「るさいな……」
だが、その瞬間、意識が一気に明瞭になる。
寝起きは悪くない。兵として鍛えられた性分が、眠りから覚めるべき時を間違えない。野営の頃は物音一つで目を覚ましたものだ。
それに比べれば、今はずいぶん鈍った。
特に、客人として与えられたこの寝具は柔らかく、いつもより眠りを深くしてくれていた。それでも耳へ届く音の主がただ事ではないことくらいは察せた。
厚い寝具の温もりを惜しみつつ上体を起こす。
――ああ、贅沢な布団だな。
場違いな感想を抱きながら天蓋の影を払い、素足で床を踏んだ。石床の冷たさが残っていた眠気を引き剥がしていく。
扉を叩く音は途切れていなかった。近づくにつれ、隙間から漂う匂いで相手が分かる。
書物と墨、それに少しばかりの香油が混ざったような匂い。
……カイルだな。
眠気を断ち切りながら扉を開ける。
「なんだよ……」
月光を背に立つカイルは、寝衣姿にもかかわらず不自然なほど身なりを整えていた。服はきっちりと着直され、髪まで撫でつけられている。
なのに、灰紫の瞳だけが異様な焦りに濁っていた。
「セラン。俺の部屋に来てくれ」
「は?」
「リシェリアが来てる」
言葉の意味が一瞬頭へ入ってこない。
カイルが畳みかけるように息継ぎもそこそこに早口でまくし立てた。
「……勘弁してくれ。おまえんちのお嬢さん、どういう教育してるんだよ。こんな夜中に寝ぼけて訪問してくるなんて。誓って。俺からは、何もしていない。でも理性にも限界はあるんだ。……頼むから、部屋へなんとか帰してほしい」
問い返す暇もなく、カイルは俺の腕を掴むと、引っ張るように踵を返した。仕方なく後を追い、空室を挟んだ二部屋先の客室へ入る。
部屋へ踏み込んだ瞬間、無意識に室内を見回していた。
寝台。
床。
卓上。
倒れた物もなく、揉み合った跡もない。
カイルの寝衣にも乱れはなく、呼吸だけが妙に浅かった。動揺や緊張の匂いがするが、状況を見れば当たり前とも言える。
そして寝台の上。
夏掛けへぐるぐると包まれたリシェが、銀色の髪だけを覗かせて眠っていた。
「リシェ……」
近づこうとした瞬間、カイルが寝台の上のリシェを抱き起こし、そのまま押し付けるように差し出してきた。
反射的に受け取る。
腕へ収めると同時に、顔色、呼吸、体温、衣服の乱れを確かめた。
頬にはまだ少し熱が残っている。だが苦しそうではない。簀巻きが少し暑いのだろう。
呼吸も穏やかで、襟元にも乱れは見当たらなかった。
カイルは髪まで整えている。やましいことをした男というより、いつ誰に踏み込まれても弁明できるよう必死に身なりを取り繕った男だった。
……危険も、何かされた気配もない。
そう判断したところで、俺を呼びつけた弁解を始める。
「恥は承知の上だ。だけど、こんなに熟睡した人間を運ぶ力は俺にはない。使用人なんて呼べば、何もなくても外聞が悪すぎる。……朝の比じゃない。セラン、お前に頼るしかないんだ」
……。
うん。
だろうな。
状況は混乱するが、光景そのものは分かりやすい。
「どうか信じてくれ」
その一言が、顔中へ書いてある。
考えられるのは、寝ぼけたリシェが部屋を間違えたか、無意識に添い寝を欲して誰かの寝台を探したか。
……カイルも鍵くらい掛けとけよ。
そう思ったが、今ここで言うのは酷だった。
相手はリシェ。
しかも、この時間、この状況。
男として同情する。むしろ、よく耐えた。
理性を保ったこと自体、称賛に値する。
「……お、おう。分かった」
そう返すと、カイルは目に見えて肩の力を抜いた。
腕の中のリシェは完全に脱力している。確かに、カイルの腕力では女性階まで運ぶのは無理だろう。
ふと、思い至る。今朝、カイルはリシェは廊下で行き倒れているのを見つけたと言っていたが……
「まさか今朝も」
リシェが部屋に紛れ込んで来てたんじゃねえだろうな。
「いや、違うからな! 今朝は部屋まで来られてない」
一瞬だけ目が泳いだ。……何かを隠している気もしたが、まあ今追及することでもない。
「追加の説明が必要なら、明日あらためてする。頼む!」
「……分かった」
リシェを抱え直す。
体温は安定していた。朝のような苦しげな呼吸も残っていない。
それを確かめると、カイルは力が抜けたように部屋の奥へ下がっていった。
今夜のことを思い返すたび、胃を痛めそうな背中だった。
……俺も同じだろうけど。
「ったく」
息をつき、リシェを肩へ担ぎ直す。
この時間に誰かへ見られれば、誤解は免れない。カイルが証言してくれるとしても、説明するだけで面倒だ。俺にだって名誉はある。
早く片づけるに越したことはない。
慎重に廊下へ出る。
石床の冷たさを素足で拾いながら、音を立てないよう足を運んだ。リシェの銀髪が背中で静かに揺れる。寝息は穏やかで、その重みは不思議と軽かった。
夜の館は、まるで世界全体が眠りに沈んでいるようだった。夜番の使用人や巡回はいるが、人間しかいない。
だが、森や昼ほど雑音も遮蔽もなく気配は掴みやすい。遭遇を躱すのはいっそたやすい。足音を消し、足早に先へ進んだ。
そうして誰にも見られないまま階段を上がり、女性階へあっさりと上がる。
視覚ではなく匂いを頼りに、リシェの部屋の前へ忍び寄った。
取っ手へ指を掛け、静かに押す。当たり前だが、部屋主はここにいる。鍵は掛かっていなかった。
扉を細く開くと、人のいなかった部屋の冷めた空気が肌を撫でた。中は暗く、窓の緞帳の隙間から、かすかな月光だけが漏れている。その細い光が、誰もいない寝台の輪郭を淡く照らしていた。
慎重に足を運び、簀巻きにされたままのリシェを寝台へ横たえる。
柔らかな寝具へ沈んでも、微動だにしなかった。
まぶたは閉じたまま。呼吸も乱れず、胸が穏やかに上下している。熱もない。朝の苦しげな様子は、もうどこにも残っていなかった。
「……よく寝てんな」
思わず小声が漏れる。
この状況でも目を覚まさない神経の太さには、感心を通り越して呆れるほどだ。
リシェは子供の頃から特別、添い寝が好きだった。
家ではいつも、誰かの横へ転がり込んで眠っていた。大抵は俺とソーマでリシェを挟んで、たまにウルが隙間に鼻面を捩じ込んでくる。
初めは俺も、それが普通のことだと思っていた。けれど、トルニカとサリーナで別れて暮らした頃には、そういうことをするのは幼い子供だけなのだと知った。
それでも、放浪の中で再会してからは、また俺たちの常識へ戻った。
互いの体温が隣にある。ただそれだけで生き延びるための力になったし、その頃には――リシェは悪夢を見るようになっていたから。
……だから、カイルに「どういう教育をしている」と言われても、全く反論はできない。
確かに淑女らしさとは程遠い。
けど、俺はリシェを淑女にするつもりなど、最初からなかった。そんなことより、こうして幸せそうに眠っていることの方が、俺には何倍も大切だった。
今までは。
でも最近。寝惚けてリシェに手を出しかけた。
謹慎にもなって、しばらく会えなかった。
だから、けじめがつくまで添い寝はやめると言った。
……それが、リシェを寂しくさせたのだろうか。
こっちに来てから、妙に優しいし隙を見て俺を甘やかそうとするし、しつこかった。まとわりつくように話しかけてくるし、目が合えば笑い、少し拗ねたりしていた。
……うん、可愛かった。
胸の奥へ、締めつけられるような愛しさが広がる。
寝惚けて、俺を探して来たんじゃないか? そして鍵のかかってない部屋に入り込んだ。
可愛いやつだ。
早くリシェを俺へ恋させて、また添い寝を解禁してやらないと。
……そう思い上がってしまうくらいは、許されてもいいだろ。
寝顔を眺める。
淡い銀髪が頬へかかり、月光を受けて白く浮かんでいる。その静かな呼吸を聞いているだけで、心臓が落ち着かなくなった。
ふと、リシェを包んでいる寝具へ目を向ける。
……これ、カイルの部屋の掛け布団か。
緊急回避で、とっさに包んだのだろう。
この簀巻きを抱えきれず、必死に寝台の端まで引きずるカイルの姿を思い出すと、申し訳ないが、笑いが込み上げてきた。
剥がして返してやるか。
そう思い、寝具の端へ指を掛ける。
リシェの身体を少しだけ転がし、布を浮かせた、その時だった。
「ん……」
小さな吐息。
薄ら寒かったのか、寝返りを打つように身体をわずかによじる。
持ち上げた夏掛けの隙間から、何かが先に溢れ出した。
「あ……」
いつもの香りだったはずだ。
花と草、湿った大気、淡い蜜。
ただし、夏掛けの中へ籠もっていたリシェの匂いが、一気に鼻腔へ流れ込んでくる。
「う……っ、ぐ……!」
膝が崩れかけた。
頭の芯が痺れ、喉の奥へ熱がこもる。
脳天を直接殴りつけるような甘い香り。
抗いがたいほどに俺の何かを揺さぶる。
心臓が鷲掴みにされているように、激しく高鳴っていた。
嗅ぎ慣れた、いつもの香りのはずなのに。
それなのに、一度吸い込んだだけで、理性の輪郭が削られていく。
雄の本能が、容赦なく目を覚ます。
布がほどけ、仰向けになったリシェの姿が露わになる。
緩んだ襟元から覗く喉の線。
無防備な寝顔。
上下する胸。
朝から身体へ残っていた熱が布の中に籠もり、肌の匂いを濃くしている。
……飛び込みたい。
胸の奥が軋んだ。愛おしさと、暴力的な欲望。
その向こうから、あの日の記憶が勝手に蘇る。
唇の感触。
腕の中へ閉じ込めた身体の熱。
……歯が覚えている喉の弾力。
自分が制御を失い、リシェを食い尽くそうとしたあの歪んだ時間が、甦る。
呑まれる。檻が壊れる。
獣が目を覚ましてしまう。
「やばい……やばい……!」
反射的に鼻をつまんで、その場にへたり込んだ。
呼吸を整えようとして、口だけで浅く空気を吸う。視線を床へ固定し、意識を無理やりそこへ縫いつける。
見るな。
考えるな。
近寄るな。
それでも、残り香は俺を逃がしてくれない。
一度嗅いだだけのはずなのに、肺の奥へ染みつき、離れなかった。
甘い。
切ない。
痛いほど愛しい。
この匂いの中へ沈みたい。
肌を重ねて、溶け合い、呼吸まで一つにしたい。
そんな衝動が、思考を内側から食い破ろうとする。
……これを。
カイルは耐えたのか。
自分の部屋へ、夜着姿のリシェが現れた。
勝手に寝台に上がり込んで。隣に丸まって?
こんな匂いの雌が隣に来て、それでも、あいつは何もしなかったのかよ。
……尊敬を通り越して怖い。
昼間に少し見直したばかりだったが、今度こそ本気で認めざるを得ない。
だが、それを考えている間にも、香りは容赦なく身体へ入り込んでくる。
鼻をつまんでいても、残り香が隙間から忍び寄る。
目も鼻も塞いで、距離をとったのに、まだ耳が空いている。
リシェが、何か言葉を漏らしたら。
うわ言で、俺を呼んでも堪えられるだろうか。
無理だ。
いや、それが誰の名前でも耐えられる自信なんてない。決壊するのが愛か嫉妬かの違いだ。
今度こそ崩れる。
「……駄目だ。駄目だ、駄目だ、駄目だって……!」
声を押し殺しながら、自分へ言い聞かせる。
あの昼を繰り返すわけにはいかない。
冷やさないよう、布団を掛け直してやる??
無理だ。
今の俺には、もう振り返ることすらできない。
膝をついたまま、少しずつ遠ざかる。
視線を逸らし、鼻を塞ぎ、息を殺す。
足だけで距離を取り、扉まで辿り着くと、半ば逃げるように部屋を出た。
廊下の闇は何事もなかったように静かだ。
外の空気へ触れた瞬間、背中を汗が流れ落ちた。
喉が焼けるほど乾いて、心臓が痛いほど鳴っていた。
危なかった。
扉を閉め、そのまま冷たい石壁へ背を預ける。
石の感触が、かろうじて現実を繋ぎ止めてくれた。
早朝、使用人が動き始めた頃に、侍女の誰かへ頼もう。リシェへきちんと布団を掛け直し、カイルの夏掛けを持ち出してもらえばいい。
足元は覚束なかった。
帰り道は、来た時の三倍は長く感じた。
カイルは常人の嗅覚なので、セランほど喰らわないのですが、セランも自分の鼻が良すぎることを忘れるくらい混乱しています。




