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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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真夏の夜の現

「その程度のことに対価はいらない。さ、手のひらを貸して。すぐ済ませよう」


溜息をついて、手を差し伸べる。


「出せません」


簀巻きのリシェリアが半眼で俺を睨んだ。


「おっと。ほら」


そうだった。

慌てて布を緩めると、彼女はおずおずと片手を出した。


それを、しっかりと掴んだ。

握手をするように。


そしてわかった。……付き合い方を間違えていた。


「縁は、こうして繋ぐべきだったんだ。最初から」


「……馬鹿みたい」


重なる手のひらから、緩やかに揺らぎが流れていく。もちろん霊質は誰それと渡せるわけではないけれど、俺とリシェリアは大樹が認めて繋いでくれた相性で、当たり前に馴染む。


「対価というなら、別の機会にきちんと話せる時間をくれないか。他の人にも立ち会わせたい。あと、どんなことができるのかとか、何で知識が古代――」


言いながら、言葉が滑り落ちるように早口になる。

思考が熱を帯び、言葉が追いつかない。興奮ではなく、焦りに近かった。

理性の隙間へ流れ込む現実感が、俺を無理やり地上へ引き戻していた。


「……そんなのでいいんですか? 普段は恋だの愛だの言っているのに。そんなに悠長だと、よだれを垂らしたあの犬に、ぺろりと食べられちゃいますよ」


小首を傾げて、冷ややかに笑う。


こっちの方は、まだ納得がいかないらしい。

氷のような声だった。挑発を聞いた瞬間、胸の奥がひやりと冷える。


「相棒で護衛で、あいつは幾度となくリシェリアを守ってきたのに、その言いよう。そういうのは嫌いだな」


軽く反論しても、彼女の唇はかすかに上がったままだ。

俺の心を測るように、じっと見つめている。


「分からない。いつからそんなに仲良くなったの? ……もう、いいです。でも、対価はいらないって言ったんだから、次の約束はしてあげません。今晩、私を振ったことを後悔してください」


その言葉で、一つだけ確信に近いものを得る。


少なくとも、この存在はリシェリアが見聞きしたものを、常にすべて共有しているわけではない。


俺とセランが、ここ数日、多少なりとも談笑できる関係になっていることを知らないのだから。

つまり、この氷の彼女は、あくまで分離された断片だ。


そう思うと、少しだけ気が楽になった。


「せめて、もう一回、口づけしておきませんか?」


彼女は、ほら、と言わんばかりに唇を差し出した。

柔らかな月光が、その輪郭をなぞる。


あまりに自然で、あまりに美しい。


正直、魅力的な提案だった。

いや、こちらから願いたいと言ってもいい。


ほんの少しの接吻くらい、悪くない――そう思いかけた瞬間、理性が心臓を掴んで止めた。


リシェリアが許しているわけではない。

本物の彼女がこれを知ったら、どう思うだろう。そして代替えで渇きを癒そうとする自分が卑しくすら思う。


「人間ってのはさ、心も含めてなんだ。俺はまだ、君のことを好きになるほど知らない。……好きじゃない人とは口づけしない。礼儀の問題だ」


「そんなこといって、したくせにね。最初は」


唇へ触れることはできない。

けれど、宥める程度なら、拒絶とは違う形で応じてもいいと思った。


ここ最近、自我が強まったのなら、生意気な口を聞いても、きっとまだ子供なのだと、ふと思えた。

あの心象世界で会った、幼いリシェリア。

こちらの姿より、あの幼い姿の方が、この子にはやけにしっくりくる。


だから、拗ねた子供を宥めるように、軽く頭へ手を置いた。

撫でられる方が似合っている。


「……最初はリシェリアだと思っていたから。それも間違ってない」


「ふふ、屁理屈」


そう言うと、彼女は楽しげに笑った。

氷が溶けるように、表情が柔らかくなる。


まるで、彼女の中で育ち始めていた人間らしさが、また一歩進んだようだった。


「さ、このくらいで平気だろ。もう目的も達成したなら、帰ってくれ。また会おう」


なるべく優しい声で諭しながら、重ねていた手を離す。

手のひらの間を流れていた霊質も、そこで途切れた。


そっと彼女を立たせようと、俺も腰を上げる。


「……わかり、ました。じゃあ、ね」


最後の一音だけが、不自然に細く途切れた。


瞳の氷色が奥へ沈み、身体を支えていた意思そのものが抜けていく。

その瞬間、彼女の身体から威圧的な気配がすっと消えた。


空気が変わる。


残されたのは――眠りから醒めたように、ぼんやりとしたリシェリア本人だった。


は!?


おい!おいおいおい!


置き去り!?


帰れって、そういう意味じゃない!

お前もリシェリアだってんなら、身体だけ置いていくな!!


「……!」


喉まで出かかった叫びを飲み込む。


深夜だ。

叫ぶわけにもいかない。

あまりに物音を立てれば、誰かが駆けつけてくるかもしれない。


胸の中で怒鳴り散らす。


ふざけたことを。

こんな、とんでもない火種を置いていくなんて。

少しは分かり合えたかと思ったのに。嫌がらせだろうか?

……完全に、油断していた。


まずい。

とにかくまずい。


とりあえず、だらしなく乱れた自分の寝衣を正す。

いつ誰に踏み込まれても困らないよう、ボタンをきちんと留め、裾を整え、髪を撫でつけた。


その次に――次に、どうする?


「あ……え?」


リシェリアの意識が戻る気配。


焦点の合わない瞳が左右へ泳ぎ、ここがどこなのか確かめるように俺を見た。


「違うから。まず、誤解しないでほしいのだけど……」


なぜ俺がこんなに焦っているのか、自分でも分からない。

けれど、言い訳せずにはいられなかった。


全力で、静かに、弁明しようとして、リシェリアの視線がこちらを見ていないことを理解する。


「なる……うん……おやすみ、な……さい」


何やら、もにゃもにゃと呟く。

そして微笑みながら頷くと、そのまま身体を丸めて眠ってしまった。


穏やかな寝息だった。

さっきまで、あれほど俺を振り回していたとは思えない。


……可愛い。


叫ばれなかったことに胸を撫で下ろし、一瞬だけ見守ってしまった。


いや、違う。


寝ないでくれ。

事情を理解した上で、自分の足で部屋へ戻ってもらわないと、俺が困る。


誤解されなかったことだけは僥倖だが、このまま朝を迎えれば、確実に使用人へ見つかる。


想像しただけで胃が痛い。


もはや、触るかどうかで躊躇している段階ではなかった。

背を支えて少しだけ身体を起こし、意識が戻っていることを確かめる。

側机の水差しから杯へ水を注ぎ、唇へ当てて、少しずつ飲ませてみた。


それから、ゆっくりと身体を起こし、立たせようとする。


「ん……いや。もう、ちょっと……」


小さく甘えるような声だった。


永遠に寝かしつけて、甘やかしたい衝動に駆られる。

あまりの破壊力に、それ以上迷わずに済むよう、俺はもう一度彼女を簀巻きにし直した。


病み上がりで疲れているのか。

それとも、単に寝起きが悪いのか。


普段からこうなのかもしれない。


今回ばかりは、それが幸いした。

変な騒ぎにならずに済む。


もはや、このまま健全に、そして確実に部屋へ戻すしかない。


俺は一旦、リシェリアを寝台へ戻した。

それから一人で、静かに部屋の外へ出る。


扉を細く開け、廊下の物音を探った。

人影がないことを確かめる。


この館にも、夜番の使用人や巡回はいる。

けれど、昼に比べれば人数も頻度も少ない。

慎重に見計らえば、誰にも見られず移動できるだろう。


ただし、それも俺一人ならの話だ。


リシェリアを抱えて女性階に上がり、暗がりに廊下を歩き、彼女の部屋へ寝かせることなど、……到底できない。


助けを呼ぶしかない。


脳裏に浮かんだのは、朝のリシェリアを迎えに来たセランの姿だった。

軽々と片腕で抱え上げ、そのまま館まで連れ帰っていた。


朝は、あの身体能力を羨ましいと思った。

二人の積み重ねを思えば、嫉妬も覚える。


それでも今は、あれほど頼れる姿は他に思い浮かばなかった。


息を殺し、一人で足音を殺して進む。


空室を挟んだ二部屋先。

セランの部屋の扉の前に立つ。


願いを込めて、大きな音を立てぬよう、それでも途切れなくノックを続けた。


トントントントントントントントン……。


しばらくして、解錠の音がした。


「なんだよ……」


寝乱れた赤髪を掻き上げながら、セランが顔を出す。

寝起きにもかかわらず、意識ははっきりしていた。


「……カイル?」


「セラン。俺の部屋に来てくれ」


「は?」


「リシェリアが来てる」


俺は一気にまくしたてた。


「……勘弁してくれ。おまえんちのお嬢さん、どういう教育してるんだよ。こんな夜中に寝ぼけて訪問してくるなんて。誓って。俺からは、何もしていない。でも理性にも限界はあるんだ。……頼むから、部屋へなんとか帰してほしい」


誤解も文句も言わせないために。

そして、殺されないために。


最悪、ここでセランと揉めているところを見られても構わない。


「え、は? おい」


「いいから」


呆気に取られているセランを、有無を言わせず引っ張り出す。

背中を押し、俺の部屋へ入れた。


セランは部屋へ入った瞬間、寝台、床、乱れた様子のない室内を素早く見渡した。

次に俺の姿を確認し、最後に、寝台の上で簀巻きにされているリシェリアへ視線を止める。


「リシェ……」


勢いのまま、俺は寝台の上のリシェリアを引き寄せ、セランへ押しつけた。


セランは呆然としながらも、反射的にその身体を受け取る。

腕の中へ収めると同時に、顔色、呼吸、衣服の乱れまで一瞬で確かめたようだった。


リシェリアに異常はないと分かったのか、ようやく肩の力がわずかに抜ける。


「恥は承知の上だ。だけど、こんなに熟睡した人間を運ぶ力は俺にはない。使用人なんて呼べば、何もなくてもあまりに外聞が悪い。……朝の比じゃない。セラン、お前に頼るしかないんだ」


俺には、せいぜい寝台から扉の近くまで引きずるくらいしかできない。

完全に弛緩した彼女を、自室まで連れ帰る腕力などなかった。

本当の事情は、説明できるようなものではない。


「追加の説明が必要なら、明日あらためてする。頼む!」


言えないこともある。

……口づけまでは、不可抗力だ。少なくとも俺が始めたわけじゃない。あと、多少は触れたり撫でたりしたか。

「何もしていない」と言い切るには、少しだけ後ろめたい。でもそのくらいは迷惑料で相殺ということにしてほしい。


「……お、おう。分かった」


セランは驚いたように目を瞬かせたが、ようやく状況を呑み込んだらしい。


寝相に心当たりでもあるのか。

それ以上責めることなく、リシェリアを静かに抱え直した。


その安堵の瞬間、全身から力が抜けた。


「……頼んだ」


俺はそれ以上何も言わず、その場を離れるセランを見送って扉を閉めた。


廊下を去っていく足音が完全に遠ざかるまで耳を澄ませる。ようやく静かになったと分かったところで、安堵に膝をついた。


心臓の鼓動だけが、やけにうるさかった。

夏の章、タイトル回収のそのニ

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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