真夏の夜の夢
月光を背に佇む彼女は、羞恥に震えることも、取り乱して叫び出す気配もなく、ただそこにいた。
それに内心安堵しながら、きわめて冷静で優しい口調を保って、俺は言った。
「今夜は積極的だね。こんばんは、リシェリア」
緞帳の隙間から差し込む月明かりが、床に淡い影を描いている。
その光を受けて立つリシェリア――いや、そう見える彼女は、さっきまで俺と唇を交わしていた時の名残を残していた。
肩で浅く息をし、胸が上下している。
唇はまだ濡れたように艶を帯び、瞳はどこか遠くを見つめていた。
さっきの感触を、あの熱を、まだ反芻しているようだった。
けれど、そこにあるのは、俺が警戒していたあの存在の、氷のような色の瞳ではなかった。
今の彼女の眼差しは、青く透き通っていて、どこまでも優しい――まるで、いつものリシェリアそのものだった。
そのリシェリアは俺を見つめながら、小さく微笑み、指先を唇に添えた。
「はい、カイル。こんばんは、月が綺麗ですね。……えっと、次はどうすればいいですか?」
その声は柔らかく、少し震えていた。
彼女は再び身をかがめ、寝台の上を俺の方へにじり寄ってくる。
薄い夜着から、肌がわずかに覗く。
月光に浮かぶ肩の線、細い腕、滑らかな髪の影――今度は視覚から、俺の理性を溶かそうと試みている。
青白い光の下、その存在が夢と現実の境を曖昧にするようだった。
「ね? 教えてください。……カイルがしたいこと」
唇が、切なげに言葉を形づくる。
溜息のような声だった。
そんなことを恋しい人に言われたら、どんな男でも舞い上がってしまう。
「うん。……じゃあ、こっちにおいで」
俺は微笑み、両腕を広げた。
きっと、自分でも気づかないほど穏やかで、救われたような笑みだったと思う。
彼女が俺の胸の中へ滑り込もうとする。
柔らかな体温が触れた瞬間、俺は腕を回し、しっかりと抱き留めた。
ほんの一拍だけ。
そのまま傍らにあった夏用の薄い掛け布団を掴み、素早く彼女をぐるぐると包み込む。
ふわりと布が舞い、月光を遮った。
「えっ」
驚いたような声が漏れる。
想定外の拘束に、彼女の顔へ戸惑いが走った。
「残念だけど、教えられない」
俺は静かに言った。
「君は、……リシェリアじゃない」
言葉のあとに、しばし沈黙が落ちる。
彼女――リシェリアの姿をした何かは目を瞬かせ、やがてゆっくりと眉を下げた。
その表情は驚くほど彼女らしく、胸の奥が一瞬だけ痛んだ。
瞼を閉じ、再び開いた時。
そこにあったのは、もう俺の知るリシェリアの青ではなかった。
冷たい氷の光。
神がかった瞳。
「……うまく隠せてたと思ったのに」
声音が変わる。
リシェリアを装っていた存在は、不貞腐れた子供のように頬を膨らませた。
「どうしてわかったの」
「分かるさ」
俺はゆっくりと息を吐き、彼女――それを見据えた。
惹かれる女性は、ただ一人。
俺の身体は嘘をつかない。
胸を打つ高鳴りも、熱も、恋しさも、リシェリア本人にしか感じない。
……いや、誇張は良くないな。最初は暗闇で、本当に騙されていた。
「目の色もちゃんと隠したのに。どこで判断してるの?」
姿を目にすれば、もう分かった。
声も、仕草も、笑う間も、どれもよく似せている。
確かに、先ほどのように言葉を発せず、姿を見せず、瞳の色すら抑えてリシェリアを装えば、区別は格段に難しくなりそうだった。
それでも、やはり違う。
表情。
呼吸。
視線。
声を置く間。
ほんの僅かな不整合が積み重なり、違和感となって俺に訴えてくる。
だからこそ、はっきりと分かる。
今、貼りつけられている笑顔には、リシェリアの輝きがない。
「教えるものか」
「ふうん。まあ、構いません。……ね、カイル。続きをしましょう? この身体に、どんなことがしたいですか? 何をしてもいいんですよ」
簀巻きにされたまま、氷の彼女は顔だけをこちらへ向け、挑発的な笑みを浮かべた。
少し滑稽な姿だ。
それなのに瞳だけは冴え冴えとして、まるで俺の心の奥底まで見透かしているようだった。
「何もないさ」
静かにそう告げると、彼女は唇を歪めた。
「じゃあ、また覗きます? いいですよ。今夜だけは、私のすべてを盗み見るのを許してあげます」
顎を引き、睨み上げる。
青い光が妖しく瞬いた。
神聖でありながら、底知れぬ誘惑を含むその眼差しに、空気が凍る。
「それも、もうしない」
朝、責められて決めたことだった。
俺の意思では、もうあれを繰り返さない。
「いったい俺を困らせて、何がしたいんだ」
いつから、こんなに人間らしくなったのだろう。
リシェリアが大きな力を発する時、その瞳は、氷の奥底に封じられた神の光を宿す。
青白く、冷たく、触れれば指先から砕け散りそうな、凍てつく威容。
それは人ならぬ存在の気配を帯びながらも、最初のうちは、確かに心だけはリシェリア本人のままだった。
けれど、あの石室の出来事以来、少しずつ異変があった。
俺が知る限りでは、あの時が最初だ。
リシェリアが忘我した瞬間、彼女の身体を何かが使って現れた。
その何かは、彼女の声で話し、彼女の手で、本人も知らない術を使った。
それでも、あの時も、今朝の海でも、理由はあった。
力を使わなければならない状況だった。
生きるため。
守るため。
癒すため。
だから俺は、それを心の防衛機構のようなものだと考えていた。
人が耐えられない痛みに晒された時、無意識に人格を分けることがある。
それと同じく、力と心の均衡を保つための現象なのだと。
なのに。
今のこれは、何だ。
理由もなく現れるなんて。
溜息混じりに問うと、彼女は少しだけ視線を逸らした。
挑発の色が薄れ、口元へ影が落ちる。
「用事のついでに……お礼をしようと思って」
その声は先ほどまでとは違い、年若い少女のように柔らかかった。
「お礼?」
「そう。リシェリアに、力の使い方を教えてくれて。考え方を教えてくれて。言葉を教えてくれて」
月光に照らされた横顔が、まるで本物のリシェリアのようで、胸がわずかにざわめく。
「そんなのは……お前のためじゃない」
「でも、それが私を形作った。貴方が、私を育てた。……まだ未熟だけど、力を使うための合理的な器ですよ。……違うかな? もともと、私もいたんだもの」
にこりと、可愛らしく無邪気に微笑んだ。
その笑みが、リシェリアを装うための笑顔であることに、背筋が粟立つ。
「きっとリシェリアも感謝してます。少なくとも、これで我を忘れるようなことが起きても、暴発して一帯を更地にするようなことは起きません。……多分?」
恐ろしいことを、さらりと言う。
沈黙が降りる。
もし今の言葉が本当なら、彼女はリシェリアの一部。
心の奥から生まれた、もう一つの面。
そして、俺が育てた存在。
胸の奥で、冷たいものと熱いものがせめぎ合った。
理解が追いつかない。
だが、少なくとも対話はできる。
これまで得られなかった、意志ある神との初めての会話。
願わくば、こんな時間と場所でなければ、もっと歓迎できたのに。
だから、俺は提案した。
「お礼と言うなら……俺が大好きなリシェリアの時に来てほしいな。それなら、したい事はいくらでもある」
「この体は間違いなく、本物なのに」
彼女は自分の身体を示し、指先で唇をなぞった。
青白い光がその輪郭を縁取り、挑発的な笑みが浮かぶ。
その瞳が一瞬、淡く発光した。
まるで、俺を魅了しようとするように。
目を逸らせなかった。
捕らえられたように、意識を引き込まれる。
今すぐ、彼女を巻いた布団を剥ぎ取って、今度こそ――。
そんな衝動が全身を突き上げる。
流されないように、がむしゃらに言葉を紡いだ。
「ごめんだね。君が表にいる時は、リシェリアは起きたことをあまり覚えていない。一夜の夢にされたら嫌だ。絶対に嫌だ」
必死だった。
だが、それを悟らせないよう、冗談めかして言う。
本当は、心臓が痛いほど速く脈打っている。
それでも目を逸らさず、彼女を見返した。
「それで、用事は何なんだ? からかいに来たというなら、さっさと帰ってくれ」
絞り出すように拒絶の言葉を吐き、声の温度を落とす。
親愛を一切抜いた、冷静な口調へ戻した。
「カイルって、なかなか手強いですね。はぁ」
彼女は肩をすくめ、残っていた誘惑の気配を霧のように解いた。
ようやく本題に入る気らしい。
「今朝、霊質を吐き出しすぎちゃったって言いましたよね。ちょっと今度は足りなくて」
彼女は続けた。
「貧血みたいな感じです。整えるために、ほんの少しだけ、あなたの霊質をもらおうかなって。対価とお礼も兼ねて、たまには好きなことをさせてあげようと」
やはり、そうか。
思わず額を押さえたくなる。
たまに異能を使いすぎて倒れる人間がいる。
典型的な症状だ。
そんなことで、風紀を乱さないでほしい。
心臓に悪い。
「……そんなの、普通に聞いてくれたら渡すから。今度からそうしてくれ」
溜息交じりに言った。
そんなもの、掌を重ねるだけで簡単にできる。
「リシェリアは溜まりすぎることはあっても、足りなくなることはなかったですから。初めての経験で、本人には分からなかったんです。でも、喜んでくれると思ったのにな」
彼女は少ししょげた顔をした。
まるで、本物のリシェリアのように。
別に、喜んで無いわけではない。完全に偽物でもないんだから。
だから、いっそう質が悪いと思いながらも、心の奥が痛んだ。
夏の章、章タイトル回収①です




