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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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真夏の夜の夢

月光を背に佇む彼女は、羞恥に震えることも、取り乱して叫び出す気配もなく、ただそこにいた。


それに内心安堵しながら、きわめて冷静で優しい口調を保って、俺は言った。


「今夜は積極的だね。こんばんは、リシェリア」


緞帳の隙間から差し込む月明かりが、床に淡い影を描いている。

その光を受けて立つリシェリア――いや、そう見える彼女は、さっきまで俺と唇を交わしていた時の名残を残していた。


肩で浅く息をし、胸が上下している。

唇はまだ濡れたように艶を帯び、瞳はどこか遠くを見つめていた。

さっきの感触を、あの熱を、まだ反芻しているようだった。


けれど、そこにあるのは、俺が警戒していたあの存在の、氷のような色の瞳ではなかった。

今の彼女の眼差しは、青く透き通っていて、どこまでも優しい――まるで、いつものリシェリアそのものだった。


そのリシェリアは俺を見つめながら、小さく微笑み、指先を唇に添えた。


「はい、カイル。こんばんは、月が綺麗ですね。……えっと、次はどうすればいいですか?」


その声は柔らかく、少し震えていた。

彼女は再び身をかがめ、寝台の上を俺の方へにじり寄ってくる。

薄い夜着から、肌がわずかに覗く。

月光に浮かぶ肩の線、細い腕、滑らかな髪の影――今度は視覚から、俺の理性を溶かそうと試みている。


青白い光の下、その存在が夢と現実の境を曖昧にするようだった。


「ね? 教えてください。……カイルがしたいこと」


唇が、切なげに言葉を形づくる。

溜息のような声だった。

そんなことを恋しい人に言われたら、どんな男でも舞い上がってしまう。


「うん。……じゃあ、こっちにおいで」


俺は微笑み、両腕を広げた。

きっと、自分でも気づかないほど穏やかで、救われたような笑みだったと思う。


彼女が俺の胸の中へ滑り込もうとする。

柔らかな体温が触れた瞬間、俺は腕を回し、しっかりと抱き留めた。


ほんの一拍だけ。


そのまま傍らにあった夏用の薄い掛け布団を掴み、素早く彼女をぐるぐると包み込む。

ふわりと布が舞い、月光を遮った。


「えっ」


驚いたような声が漏れる。

想定外の拘束に、彼女の顔へ戸惑いが走った。


「残念だけど、教えられない」


俺は静かに言った。


「君は、……リシェリアじゃない」


言葉のあとに、しばし沈黙が落ちる。

彼女――リシェリアの姿をした何かは目を瞬かせ、やがてゆっくりと眉を下げた。

その表情は驚くほど彼女らしく、胸の奥が一瞬だけ痛んだ。


瞼を閉じ、再び開いた時。

そこにあったのは、もう俺の知るリシェリアの青ではなかった。


冷たい氷の光。

神がかった瞳。


「……うまく隠せてたと思ったのに」


声音が変わる。

リシェリアを装っていた存在は、不貞腐れた子供のように頬を膨らませた。


「どうしてわかったの」


「分かるさ」


俺はゆっくりと息を吐き、彼女――それを見据えた。


惹かれる女性は、ただ一人。

俺の身体は嘘をつかない。

胸を打つ高鳴りも、熱も、恋しさも、リシェリア本人にしか感じない。


……いや、誇張は良くないな。最初は暗闇で、本当に騙されていた。


「目の色もちゃんと隠したのに。どこで判断してるの?」


姿を目にすれば、もう分かった。


声も、仕草も、笑う間も、どれもよく似せている。

確かに、先ほどのように言葉を発せず、姿を見せず、瞳の色すら抑えてリシェリアを装えば、区別は格段に難しくなりそうだった。

それでも、やはり違う。


表情。

呼吸。

視線。

声を置く間。


ほんの僅かな不整合が積み重なり、違和感となって俺に訴えてくる。


だからこそ、はっきりと分かる。


今、貼りつけられている笑顔には、リシェリアの輝きがない。


「教えるものか」


「ふうん。まあ、構いません。……ね、カイル。続きをしましょう? この身体に、どんなことがしたいですか? 何をしてもいいんですよ」


簀巻きにされたまま、氷の彼女は顔だけをこちらへ向け、挑発的な笑みを浮かべた。


少し滑稽な姿だ。


それなのに瞳だけは冴え冴えとして、まるで俺の心の奥底まで見透かしているようだった。


「何もないさ」


静かにそう告げると、彼女は唇を歪めた。


「じゃあ、また覗きます? いいですよ。今夜だけは、私のすべてを盗み見るのを許してあげます」


顎を引き、睨み上げる。

青い光が妖しく瞬いた。

神聖でありながら、底知れぬ誘惑を含むその眼差しに、空気が凍る。


「それも、もうしない」


朝、責められて決めたことだった。

俺の意思では、もうあれを繰り返さない。


「いったい俺を困らせて、何がしたいんだ」


いつから、こんなに人間らしくなったのだろう。


リシェリアが大きな力を発する時、その瞳は、氷の奥底に封じられた神の光を宿す。

青白く、冷たく、触れれば指先から砕け散りそうな、凍てつく威容。

それは人ならぬ存在の気配を帯びながらも、最初のうちは、確かに心だけはリシェリア本人のままだった。


けれど、あの石室の出来事以来、少しずつ異変があった。

俺が知る限りでは、あの時が最初だ。

リシェリアが忘我した瞬間、彼女の身体を何かが使って現れた。

その何かは、彼女の声で話し、彼女の手で、本人も知らない術を使った。


それでも、あの時も、今朝の海でも、理由はあった。

力を使わなければならない状況だった。

生きるため。

守るため。

癒すため。


だから俺は、それを心の防衛機構のようなものだと考えていた。

人が耐えられない痛みに晒された時、無意識に人格を分けることがある。

それと同じく、力と心の均衡を保つための現象なのだと。


なのに。


今のこれは、何だ。

理由もなく現れるなんて。


溜息混じりに問うと、彼女は少しだけ視線を逸らした。

挑発の色が薄れ、口元へ影が落ちる。


「用事のついでに……お礼をしようと思って」


その声は先ほどまでとは違い、年若い少女のように柔らかかった。


「お礼?」


「そう。リシェリアに、力の使い方を教えてくれて。考え方を教えてくれて。言葉を教えてくれて」


月光に照らされた横顔が、まるで本物のリシェリアのようで、胸がわずかにざわめく。


「そんなのは……お前のためじゃない」


「でも、それが私を形作った。貴方が、私を育てた。……まだ未熟だけど、力を使うための合理的な器ですよ。……違うかな? もともと、私もいたんだもの」


にこりと、可愛らしく無邪気に微笑んだ。

その笑みが、リシェリアを装うための笑顔であることに、背筋が粟立つ。


「きっとリシェリアも感謝してます。少なくとも、これで我を忘れるようなことが起きても、暴発して一帯を更地にするようなことは起きません。……多分?」


恐ろしいことを、さらりと言う。


沈黙が降りる。


もし今の言葉が本当なら、彼女はリシェリアの一部。

心の奥から生まれた、もう一つの面。


そして、俺が育てた存在。


胸の奥で、冷たいものと熱いものがせめぎ合った。

理解が追いつかない。

だが、少なくとも対話はできる。


これまで得られなかった、意志ある神との初めての会話。


願わくば、こんな時間と場所でなければ、もっと歓迎できたのに。


だから、俺は提案した。


「お礼と言うなら……俺が大好きなリシェリアの時に来てほしいな。それなら、したい事はいくらでもある」


「この体は間違いなく、本物なのに」


彼女は自分の身体を示し、指先で唇をなぞった。

青白い光がその輪郭を縁取り、挑発的な笑みが浮かぶ。


その瞳が一瞬、淡く発光した。

まるで、俺を魅了しようとするように。


目を逸らせなかった。

捕らえられたように、意識を引き込まれる。


今すぐ、彼女を巻いた布団を剥ぎ取って、今度こそ――。


そんな衝動が全身を突き上げる。


流されないように、がむしゃらに言葉を紡いだ。


「ごめんだね。君が表にいる時は、リシェリアは起きたことをあまり覚えていない。一夜の夢にされたら嫌だ。絶対に嫌だ」


必死だった。

だが、それを悟らせないよう、冗談めかして言う。


本当は、心臓が痛いほど速く脈打っている。

それでも目を逸らさず、彼女を見返した。


「それで、用事は何なんだ? からかいに来たというなら、さっさと帰ってくれ」


絞り出すように拒絶の言葉を吐き、声の温度を落とす。

親愛を一切抜いた、冷静な口調へ戻した。


「カイルって、なかなか手強いですね。はぁ」


彼女は肩をすくめ、残っていた誘惑の気配を霧のように解いた。

ようやく本題に入る気らしい。


「今朝、霊質を吐き出しすぎちゃったって言いましたよね。ちょっと今度は足りなくて」


彼女は続けた。


「貧血みたいな感じです。整えるために、ほんの少しだけ、あなたの霊質をもらおうかなって。対価とお礼も兼ねて、たまには好きなことをさせてあげようと」


やはり、そうか。


思わず額を押さえたくなる。

たまに異能を使いすぎて倒れる人間がいる。

典型的な症状だ。


そんなことで、風紀を乱さないでほしい。

心臓に悪い。


「……そんなの、普通に聞いてくれたら渡すから。今度からそうしてくれ」


溜息交じりに言った。

そんなもの、掌を重ねるだけで簡単にできる。


「リシェリアは溜まりすぎることはあっても、足りなくなることはなかったですから。初めての経験で、本人には分からなかったんです。でも、喜んでくれると思ったのにな」


彼女は少ししょげた顔をした。

まるで、本物のリシェリアのように。


別に、喜んで無いわけではない。完全に偽物でもないんだから。


だから、いっそう質が悪いと思いながらも、心の奥が痛んだ。

夏の章、章タイトル回収①です

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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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