夜を這うもの
夜を這うもの、とはよく言ったものだと、思った。
湿った静けさの中で、どこか遠くの虫の声だけが耳に届く。
深夜だと思う。だが、正確な時刻など知る由もない。
違和感の始まりは、寝苦しさだった。
避暑地といえど夏だ、蒸した空気が肌に纏わりつくのも無理はない――そう思った。
けれど、まぶたを割るように目を覚ましてみれば、それがただの暑さではないと、すぐに分かった。
暗闇で緞帳の隙間からの月光では室内の様子は定かではない。
胸の傍に落ちる、微妙に柔らかく、確かに人の重み。
重さというよりは、心地よい「重なり」だった。
最初は、夢だと思っていた。
ここは街でもない、王都でも実家でもない。
恋に落ちてからというもの、俺の世界はリシェリア一人で満たされている。
他の女性にそういった欲望を寄せるほど、器用ではない。
ここしばらくは、禁欲的どころか、彼女への想いだけで呼吸していたような日々だ。
心地よさの中に、はっきりとした体温。
布をかすめる髪の触感。
吐息に混じる、生きた香り。
……誰かがいる。
途端に頭の中で理屈が動き始め、すぐにここ数日の事を思い出す。
この場所は、イェルス家の保養邸。領主邸でもなく、普段は主人が常駐していない。管理人が維持し、訪れるものがいる時だけ開かれる邸宅だ。
本宅ならともかく、こうした離れでは、大貴族の館といえど管理の手も緩むのかもしれない。
世の中には、侍女の方から玉の輿を狙って忍び込む、ということも――ない話ではないと聞く。
となるとこれは……夜這いってことか。
面倒だな、と息を吐いた。
その女性は、いつの間にか俺の部屋に侵入し、すでに寝台に乗り上げて俺を覗き込んでいたようだった。
意識を巡らすだけで、俺は寝衣を纏ったまま、まだ場を乱されてはいないことはすぐわかる。
事は未然。一安心。
いや、進行中だな。
細い指が俺の胸の上の掛布を静かに引き、今にも覆い被さろうと顔を寄せてきていた。
さて、どこで止めたらいい。
うっかり触ったり相手の機嫌を損ねないようにしなければならない。腹いせに叫ばれるのは御免被りたい。
「君、悪いけど」
彼女の体重移動するほんの少しの合間。密着が離れた瞬間に言葉を放った。
静止の反動で揺れ落ちた髪の毛が胸をくすぐり、その風がふと香った。
「!」
――全身の血が凍った。
花と草の、自然の香り。心臓の奥で、火が跳ねた。
ときめきよりも、今は浮かぶのは混乱だった。
でも間違いようがなかった。
リシェリア。
暗闇の中で、確信だけが光った。
月明かりを遮る緞帳の向こう、ほとんど輪郭しか見えない。
けれど、この気配、この呼吸、この匂い――目を開けていなくても、わかってしまう。
胸の奥が歓喜で満たされる。
会いに来てくれた――そう思ったのは、本当に一瞬だった。
こんな時間に。
どうして、俺の部屋にいる。
……なぜ。
「ふふ」
次の句を放てず固まっていた俺が、許したとでも思ったのか、僅かに微笑んだように聞こえた。彼女の指が、暗闇の中で探し物をしているかのように優しく、俺の顎を撫でる。
そして目当てを見つけたかのように、頬の横に俺を包むように両の掌がとまる。
え、あ。
思考が追いつく前に、唇が重なる。
ちゅっ。
「っ!」
軽い音がした。
逡巡の間にも、二度、三度。
触れるたび、火花のような熱が伝う。
「待……」
待て。待ってくれ。
理性が崩れかける。
やめさせようと、彼女の肩に手を添えた。
だが、指がその線をなぞった瞬間、理屈が霧散する。
――止めなくても、いいんじゃないか?
離そうとした手が、そのまま肩を抱き寄せていた。
俺は何もしていない。向こうから来た。
ここは王都から遠く離れたイェルス家の敷地で、私的空間で、夜間。
なら……、二人とも合意なら受け入れてもいいはずだ。
海でのあの会話が頭をよぎる。
最近、俺がリシェリアから一歩引いていたから、好きじゃなくなったのかと寂しく思ってくれていた。休みやセランの登用の手回しも、感謝してくれていた。
……もしかしたら、思いの外リシェリアの心を掴んだのだろうか。
いや、都合が良すぎる。さすがに夢だな。
さすがのリシェリアも、ここまで大胆なことをするはずない。
久しぶりにあまりにも至近距離で彼女の近くにいられたから。今日一日中、彼女の事を考え続けていたから。
体に焼き付いた思いが夢を見させているのだろう。これほどに現実感があるのも、……きっと明晰夢というやつだ。
――だから、やはり甘い夢の中にいるんだと、自分へ言い聞かせた。
それなら少しくらい、叶えてもいいはずだ。
肩を抱き寄せたまま顔を近づけ、顎へそっと指を添えた。
小さく「あ」と声が漏れた。
その隙間に、自分の唇を押し当てた。
今度は、俺の番だ。
「……!……ん……ん!」
彼女の唇の内側は熱く、柔らかかった。
自分から来たくせに、まるで驚くように震えている。
その様子が可愛くて、愛おしくて、もう。
止まれなかった。
微細な質感が伝わってくる。
柔らかさ。
瑞々しさ。
息遣い。
舌に触れる歯。
頬が火照り、頭がのぼせる。
これが、リシェリアの味。
肩を支えていた手を、背中へ滑らせる。
夜着越しに触れる肌は、陶磁のように滑らかだった。
その下の温もりを思うだけで、指先が疼く。
もっと触れたい。
余すことなく確かめたい。
だが、覆い被さられている今の体勢ではそこまでできないな。
まるで意地悪な神に試されているようなもどかしさ。
それに……夢とはいえ。
すぐにこの先まで進めてしまうのは、ちょっと拙速がすぎるはしないか?
「んっ……んん」
跳ね除けるのではなく、近くに引き寄せるように俺を掴んでいる手は、そんな不埒な欲望も受け入れてくれているようにも思えた。
肌が微かに汗ばんで、存在感が濃くなる。
お互いの体温が境界をなくすように馴染んで近くなっていく。
なにもかも感動的だった。
これが、恋焦がれて、ようやく届いた本物の感触。
まるで現実の質感だ。
……現実?
自分の鼓動が耳の奥で暴れている。
匂いや味覚や五感。こんな生々しさを、夢は再現しないはずだ。
――まずい。本当に、現実だ。
冷静な自分が戻ってきた。
このままでは、取り返しがつかない。いや、すでにかなりまずい。
食事の席以外では彼女は終日、大事をとって安静にしていたはずだ。
晩餐に酒を呑むようなことも避けていたはずだ。
いや、そもそも今、触れ合っている吐息に酒の味はしない。
何がどうなって、俺の寝室に紛れ込んだのか全くもって分からない。わからないけれど唇を離した途端、叫ばれるかもしれない――その考えが一瞬よぎる。
愛する人と今、寝室にいる。それも向こうからきている。
俺へは同意も許可も不意打ちで、一切聞かれなかったけれど、この際どうだっていい。どうせ事前に言われても承諾するしかない。
今まで、こんな僥倖な事はなかった。それなのに、それなのに。
……なぜか、止めて追い返さなければならない。
このまま愛と欲望に任せて、続けてしまっても明日の彼女が困る。
他人の家だ。すぐにも露見する。そうなればグラントにも顔向けできない。アスティに見下げ果てられる。そしてセランに……。
たとえ。リシェリアが本気で俺を愛してくれていたのだとしても、まだ正しい段階を踏んでいない。
……。
数秒ほど逡巡して、観念して全てを停止した。
そっと彼女を引き剥がし、距離をとるために俺は一気に起き上がった。
女性一人を引き離すくらいなら、今の俺にも難しくはなかった。
どうか、リシェリアであってほしい。この甘い体験を本物だと信じたいから。
だけど、リシェリアでないでほしい。こんな風に突き飛ばされたような一歩を踏み出したくないんだ。
緞帳の紐を掴み引いた。
月光が、薄く部屋に流れ込む。
寝台に座り込む彼女の銀の髪が光を返し、青い瞳が揺れる。
そこにいたのは――やはり、まごうことなくリシェリアだった。




