相似する双事
湯上がりの熱がまだ抜けきらないまま、俺は小執務室の扉を押し開けた。
「アスティ。そろそろ朝食の時間になる」
淡い陽光が差し込む部屋の中では、アスティが手紙の束を前に、まだ筆を走らせていた。
黒髪を後ろで流し、絹のような白い襟元に視線を落としながら、夏の日差しをまるで意に介していない。
「ん~? わかってるわよ。って……なんで朝っぱらから湯上りなのよ」
鋭い視線。眉が小さく跳ねる。
彼女の瞳に射抜かれると、やましいことなど何一つないのに、なぜか姿勢が正された。
「昨日からのリシェリアの体調不良、霊質の溜めすぎだった。朝にちょっと海に行ってきて、異能を使わせてきたんだ」
俺はそのままアスティの正面に陣取り、椅子に腰を下ろす。
「それで濡れてね。リシェリアの方はもう顔色も良かったから、午後には元気に過ごせると思うよ」
アスティは筆を止め、視線だけをこちらに向けた。
「――ああ、成程。そういえば、そういうことあったわね。良かったわ……それで? 何か用があるんでしょ」
鋭い。
類似の体調不良は登城前、メイスン家保護時代にも何度かあった事なのだろう。すぐに頷くと別の事に思考を切り替えていた。
もちろん、俺も“世間話”で済ませるつもりもない。
俺が腰を据えたのを見て、早くも構えを取ったようだ。
「……また、出た」
テーブルの上に置かれた手紙を何気なく覗きながら、核心を口にした。
「は?」
筆先が宙で止まる。
「リシェリアの中の、もう一人」
アスティの視線が真っ直ぐに俺を射抜く。その目には、ただの興味でも困惑でもない。何を見たのかを聞き出そうとする、観察者の眼だ。
「表向きは俺がリシェリアを連れだしたことにしているが、……実際はそいつが、俺を呼び出してきたんだ。霊質を放出させる方法を考えさせるためにだ。リシェリアは歩き回れるほどには体調が良くなかった。意識も朦朧としていた。……おそらく、あいつはリシェリアの危機に応じて動いた、と俺は見ている」
静かな間。
アスティの眉がほんの僅かに動いた。
彼女が状況を整理しているときの癖だ。
「今朝は以前と違って、わりと普通に会話はできたよ。……その後起きたリシェリアは、会話の内容を覚えてなかった」
アスティはしばらく沈黙し、筆を置いた。
「そんなこと言われてもね……見てないから、はいそうですか、ってならないのよね。それでも……喫緊の危険はなさそう、でいいのかしら」
「当座は。……今のところ、リシェリア自身では処理しきれない何かが起きた時に現れる、と見ている」
俺は短く答える。
だが、心の底では確信が持てていなかった。
ラトリエはセランが庇わなければリシェリアは危なかった。その後、我を忘れそうに取り乱していた時もあった。それでも、あの存在は表に出てきていない。そうかと思えば、石室で顕現した時はリシェリアが”うまくやりたい”と思っていたからみたいな動機だった。
……危機そのものに反応しているわけではない。
リシェリアが自力では処理できないと判断した時だけ、代わりに表へ出るのか。
だが、その判断を誰が、どの基準で下しているのかは分からない。
「リシェリアには?」
リシェリア本人に問いただしたのか。心当たりがあるのか。それとも、このまま伏せておくつもりなのか。
短い問いだったが、いくつもの意味を含んでいた。
「いや、まだ。もう少し観察したいと思っている。……それに病み上がりでもあるし」
最後に、言い訳のように付け加えた。
リシェリア自身もぼんやりとは見えていたり、覚えていることもある。完全に無私でもない。
もっと聞いて、本人に調査に協力してもらった方が良いのかもしれない。
「本人に聞いたほうが早いこともある」
「わかってる。それでも、繊細な部分だ」
……だけれど、それはまだ早い。
「心の傷に触れるかもしれない。逆に良くない扉を開くかもしれない。前にも言った通りだ。恐ろしいものに繋がるようなら、俺が必ずそれを閉じる。だから見極める時間が欲しい」
あの存在の今朝の立ち回り。俺とセランを思い通りに動かすように策を巡らせていたし、軽口を叩き俺と口論した。賢く、無機質でも無感情でもない。
もし、機嫌を損ねれば、二度と会えなくなってしまうように思えた。
「……わかった。まあ、前にも、判断はあんたを信じて任せるって言ったしね」
「だから、ちゃんと報告したろ」
「そうね、偉い偉い」
張りつめた空気を解くように、アスティが口の端を緩めた。
――セランの報告を思い出す。
俺の名前で書かれたという走り書きは、跡形もなく消えていた。
俺の部屋の扉の下へ差し込まれていた呼び出しの手紙も、海から戻った時には、まるで初めから存在しなかったかのように消えていた。
紙も封も、すべてが幻のように失われている。
転写によって作られたものが消えたのか。
それとも、物そのものが存在していたのかさえ定かではない。
「それに、こちらから会える手段は、まだ見当もついてないんだ。……次、石室に降りる時、アスティも同席してもらえた方がいいかもな」
きっと、また“あれ”に会う。
そして、俺一人では判断を誤る可能性がある。
アスティは頷き、軽やかに予定の帳面を開いた。
「わかった。特に何もなければ今年は残り二回だものね。予定空けるようにしておく」
「頼む。……ところで、それ。昨日から何かやっていると思えば、こんな所まで届いた社交の招待状への返事か?」
俺は机の上に積まれた手紙へ視線を落とした。金の縁取りに、貴族家ごとの封蝋。どう見ても公務ではない。
「うん、そうね。無視していたんだけど、お母様がうるさくて。……休み明けに、どうしても何軒かは行かなくちゃだめそう」
溜息混じりの声だった。
返事を受け取るまでは帰れないと、昨日から伝令が詰めているらしい。晩餐までには書き終えられず、昨夜は近くの宿場へ留め置いたという。
「せっかくの休みだってのに!」
アスティが愚痴をこぼすのは珍しい。
黒髪が陽光にわずかに透け、普段は張り詰めている表情も、疲れの分だけ柔らかく見えた。
「ご愁傷様。……クラウディア様も必死だな。アスティがそんなだから、行き遅れが心配なんだろ」
「言ってろ」
軽く舌打ちされた。
筆を走らせる手にも、わずかに力がこもる。
「それじゃあ、どの誘いにもリシェリア同伴でって書いてあるんだけど、連れて行ってもいいわよね?」
「……すまない。謝罪する。申し訳なかった」
反射的に頭を下げると、アスティの口元が僅かに緩んだ。
「というか、アスティとの社交なのに明らかにリシェリア狙いじゃないか。もう全部断ってしまえ」
「は。断れたらいいわよね。まあ普通に、リシェリアには公務があるからって連れて行かないから安心して。適当に流すわ」
アスティは書きかけの手紙を重ね、机の端に置かれた茶を一口すすった。
その何気ない仕草にまで、王族として染みついた気品がある。
それを眺めながら、昨夜の相談を思い出した。
グラント兄は、クラウディア様の意向をどう越えるつもりでいるのだろう。
ひとつ、クラウディア様の陣営へ与する。
現王派最大の支柱であるイェルス家が彼女の側へ回れば、宮廷の旗色は大きく変わる。心証を得る方法としては、最も分かりやすい。
だが、それは簡単に見えて、最初から選択肢にはならない。
恋路一つのために一族郎党の方針を覆し、王権の正統性まで揺るがすなど、グラントが選ぶはずもない。まして千年祭を控えたこの時期に、国を割るような擾乱を起こすほど愚かな男ではなかった。
国を傾けてまで一人の女を手に入れる。
物語としては映えるのだろうが、そんな筋書きはグラントには似合わない。
もうひとつ、メイスン家の格を落とす。
取り潰すほどではなくとも、不祥事の一つや二つ、グラントなら探り当て、あげつらうことはできるだろう。たとえ主家に瑕疵がなくても、配下、縁戚、使用人、代官、領民まで、そのすべてが潔白であり続けることなど、人の数が増えるほど難しくなる。
弱みを集めて屈服させ、その後に救いの手を差し出す。
政敵や、商売上の脅威を取り込む時には有効な手段だ。
だが、それを行えば、どれほど巧妙に隠してもアスティは察するだろう。
そして、一度失われた信頼は二度と戻らない。
彼女は母親に辟易している。嫌悪している部分もある。
それでも、憎んでいるわけではない。
母に膝を折らせた男へ嫁いだところで、形式上どれほど近くなろうと、心は生涯届かない。
そうなれば、やはり残るのは本人同士の合意だ。
二人が互いを選び、覚悟を決めるなら、政治は後から形を整えざるを得ない。
グラントは陛下とも近い。
陛下の近侍にはイェルス家の者が多く、国事ではグラント自身が護衛騎士を務める。聖女との婚約という国家的な案件でも、彼の提案が受け入れられる程度には信頼されている。
建国王の系譜に連なるイェルス家の意見は、貴族院でも重い。
本人たちの意思が固まり、陛下の許可を得られれば、メイスン家が表立って異を唱えることは難しいだろう。
だが、王命で婚姻そのものを押し通せたとしても、それでは意味がない。
クラウディア様の代わりに、今度はグラントがアスティの人生を決めることになる。
彼女が自分で選び、自分の未来として受け入れなければ、何をどう整えても、グラントの望む結婚にはならない。
……だから、それが一番難しい。
アスティは今、恋でも愛でもなく、その先にある何かを見ている。
自分の人生を、自分一人の幸福ではなく、国の形へ置き換えて考える女だ。
リシェリアの方がまだ、恋という不合理を知ろうとしてくれている分、答えへ近づく余地はあるのかもしれない。
昨夜、自分がグラント兄へ並べた言葉が、そのまま返ってくる。
本気を示す。
同じ土俵に立つ。
相手を理解する。
相手の望みを知る。
断る理由を一つずつ解く。
言うだけなら簡単だった。
俺はまだ、リシェリアが望む未来をすべて理解しているわけではない。
触れていい距離さえ、これから探していこうと話したばかりだ。
……ままならないな。
アスティのまっすぐな背筋を見つめながら、俺はグラント兄の恋路と、自分自身の恋路の難しさに、静かに息をついた。




