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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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相似する双事

湯上がりの熱がまだ抜けきらないまま、俺は小執務室の扉を押し開けた。


「アスティ。そろそろ朝食の時間になる」


淡い陽光が差し込む部屋の中では、アスティが手紙の束を前に、まだ筆を走らせていた。


黒髪を後ろで流し、絹のような白い襟元に視線を落としながら、夏の日差しをまるで意に介していない。


「ん~? わかってるわよ。って……なんで朝っぱらから湯上りなのよ」


鋭い視線。眉が小さく跳ねる。


彼女の瞳に射抜かれると、やましいことなど何一つないのに、なぜか姿勢が正された。


「昨日からのリシェリアの体調不良、霊質の溜めすぎだった。朝にちょっと海に行ってきて、異能を使わせてきたんだ」


俺はそのままアスティの正面に陣取り、椅子に腰を下ろす。


「それで濡れてね。リシェリアの方はもう顔色も良かったから、午後には元気に過ごせると思うよ」


アスティは筆を止め、視線だけをこちらに向けた。


「――ああ、成程。そういえば、そういうことあったわね。良かったわ……それで? 何か用があるんでしょ」


鋭い。

類似の体調不良は登城前、メイスン家保護時代にも何度かあった事なのだろう。すぐに頷くと別の事に思考を切り替えていた。

もちろん、俺も“世間話”で済ませるつもりもない。


俺が腰を据えたのを見て、早くも構えを取ったようだ。


「……また、出た」


テーブルの上に置かれた手紙を何気なく覗きながら、核心を口にした。


「は?」


筆先が宙で止まる。


「リシェリアの中の、もう一人」


アスティの視線が真っ直ぐに俺を射抜く。その目には、ただの興味でも困惑でもない。何を見たのかを聞き出そうとする、観察者の眼だ。


「表向きは俺がリシェリアを連れだしたことにしているが、……実際はそいつが、俺を呼び出してきたんだ。霊質を放出させる方法を考えさせるためにだ。リシェリアは歩き回れるほどには体調が良くなかった。意識も朦朧としていた。……おそらく、あいつはリシェリアの危機に応じて動いた、と俺は見ている」


静かな間。


アスティの眉がほんの僅かに動いた。

彼女が状況を整理しているときの癖だ。


「今朝は以前と違って、わりと普通に会話はできたよ。……その後起きたリシェリアは、会話の内容を覚えてなかった」


アスティはしばらく沈黙し、筆を置いた。


「そんなこと言われてもね……見てないから、はいそうですか、ってならないのよね。それでも……喫緊の危険はなさそう、でいいのかしら」


「当座は。……今のところ、リシェリア自身では処理しきれない何かが起きた時に現れる、と見ている」


俺は短く答える。

だが、心の底では確信が持てていなかった。


ラトリエはセランが庇わなければリシェリアは危なかった。その後、我を忘れそうに取り乱していた時もあった。それでも、あの存在は表に出てきていない。そうかと思えば、石室で顕現した時はリシェリアが”うまくやりたい”と思っていたからみたいな動機だった。


……危機そのものに反応しているわけではない。


リシェリアが自力では処理できないと判断した時だけ、代わりに表へ出るのか。

だが、その判断を誰が、どの基準で下しているのかは分からない。


「リシェリアには?」


リシェリア本人に問いただしたのか。心当たりがあるのか。それとも、このまま伏せておくつもりなのか。

短い問いだったが、いくつもの意味を含んでいた。


「いや、まだ。もう少し観察したいと思っている。……それに病み上がりでもあるし」


最後に、言い訳のように付け加えた。

リシェリア自身もぼんやりとは見えていたり、覚えていることもある。完全に無私でもない。

もっと聞いて、本人に調査に協力してもらった方が良いのかもしれない。


「本人に聞いたほうが早いこともある」


「わかってる。それでも、繊細な部分だ」


……だけれど、それはまだ早い。


「心の傷に触れるかもしれない。逆に良くない扉を開くかもしれない。前にも言った通りだ。恐ろしいものに繋がるようなら、俺が必ずそれを閉じる。だから見極める時間が欲しい」


あの存在の今朝の立ち回り。俺とセランを思い通りに動かすように策を巡らせていたし、軽口を叩き俺と口論した。賢く、無機質でも無感情でもない。

もし、機嫌を損ねれば、二度と会えなくなってしまうように思えた。


「……わかった。まあ、前にも、判断はあんたを信じて任せるって言ったしね」


「だから、ちゃんと報告したろ」


「そうね、偉い偉い」


張りつめた空気を解くように、アスティが口の端を緩めた。


――セランの報告を思い出す。


俺の名前で書かれたという走り書きは、跡形もなく消えていた。

俺の部屋の扉の下へ差し込まれていた呼び出しの手紙も、海から戻った時には、まるで初めから存在しなかったかのように消えていた。


紙も封も、すべてが幻のように失われている。


転写によって作られたものが消えたのか。

それとも、物そのものが存在していたのかさえ定かではない。


「それに、こちらから会える手段は、まだ見当もついてないんだ。……次、石室に降りる時、アスティも同席してもらえた方がいいかもな」


きっと、また“あれ”に会う。

そして、俺一人では判断を誤る可能性がある。


アスティは頷き、軽やかに予定の帳面を開いた。


「わかった。特に何もなければ今年は残り二回だものね。予定空けるようにしておく」


「頼む。……ところで、それ。昨日から何かやっていると思えば、こんな所まで届いた社交の招待状への返事か?」


俺は机の上に積まれた手紙へ視線を落とした。金の縁取りに、貴族家ごとの封蝋。どう見ても公務ではない。


「うん、そうね。無視していたんだけど、お母様がうるさくて。……休み明けに、どうしても何軒かは行かなくちゃだめそう」


溜息混じりの声だった。


返事を受け取るまでは帰れないと、昨日から伝令が詰めているらしい。晩餐までには書き終えられず、昨夜は近くの宿場へ留め置いたという。


「せっかくの休みだってのに!」


アスティが愚痴をこぼすのは珍しい。

黒髪が陽光にわずかに透け、普段は張り詰めている表情も、疲れの分だけ柔らかく見えた。


「ご愁傷様。……クラウディア様も必死だな。アスティがそんなだから、行き遅れが心配なんだろ」


「言ってろ」


軽く舌打ちされた。

筆を走らせる手にも、わずかに力がこもる。


「それじゃあ、どの誘いにもリシェリア同伴でって書いてあるんだけど、連れて行ってもいいわよね?」


「……すまない。謝罪する。申し訳なかった」


反射的に頭を下げると、アスティの口元が僅かに緩んだ。


「というか、アスティとの社交なのに明らかにリシェリア狙いじゃないか。もう全部断ってしまえ」


「は。断れたらいいわよね。まあ普通に、リシェリアには公務があるからって連れて行かないから安心して。適当に流すわ」


アスティは書きかけの手紙を重ね、机の端に置かれた茶を一口すすった。

その何気ない仕草にまで、王族として染みついた気品がある。


それを眺めながら、昨夜の相談を思い出した。


グラント兄は、クラウディア様の意向をどう越えるつもりでいるのだろう。


ひとつ、クラウディア様の陣営へ与する。


現王派最大の支柱であるイェルス家が彼女の側へ回れば、宮廷の旗色は大きく変わる。心証を得る方法としては、最も分かりやすい。


だが、それは簡単に見えて、最初から選択肢にはならない。


恋路一つのために一族郎党の方針を覆し、王権の正統性まで揺るがすなど、グラントが選ぶはずもない。まして千年祭を控えたこの時期に、国を割るような擾乱を起こすほど愚かな男ではなかった。


国を傾けてまで一人の女を手に入れる。

物語としては映えるのだろうが、そんな筋書きはグラントには似合わない。


もうひとつ、メイスン家の格を落とす。


取り潰すほどではなくとも、不祥事の一つや二つ、グラントなら探り当て、あげつらうことはできるだろう。たとえ主家に瑕疵がなくても、配下、縁戚、使用人、代官、領民まで、そのすべてが潔白であり続けることなど、人の数が増えるほど難しくなる。


弱みを集めて屈服させ、その後に救いの手を差し出す。


政敵や、商売上の脅威を取り込む時には有効な手段だ。


だが、それを行えば、どれほど巧妙に隠してもアスティは察するだろう。

そして、一度失われた信頼は二度と戻らない。


彼女は母親に辟易している。嫌悪している部分もある。

それでも、憎んでいるわけではない。


母に膝を折らせた男へ嫁いだところで、形式上どれほど近くなろうと、心は生涯届かない。


そうなれば、やはり残るのは本人同士の合意だ。


二人が互いを選び、覚悟を決めるなら、政治は後から形を整えざるを得ない。


グラントは陛下とも近い。

陛下の近侍にはイェルス家の者が多く、国事ではグラント自身が護衛騎士を務める。聖女との婚約という国家的な案件でも、彼の提案が受け入れられる程度には信頼されている。


建国王の系譜に連なるイェルス家の意見は、貴族院でも重い。


本人たちの意思が固まり、陛下の許可を得られれば、メイスン家が表立って異を唱えることは難しいだろう。


だが、王命で婚姻そのものを押し通せたとしても、それでは意味がない。


クラウディア様の代わりに、今度はグラントがアスティの人生を決めることになる。


彼女が自分で選び、自分の未来として受け入れなければ、何をどう整えても、グラントの望む結婚にはならない。


……だから、それが一番難しい。


アスティは今、恋でも愛でもなく、その先にある何かを見ている。

自分の人生を、自分一人の幸福ではなく、国の形へ置き換えて考える女だ。


リシェリアの方がまだ、恋という不合理を知ろうとしてくれている分、答えへ近づく余地はあるのかもしれない。


昨夜、自分がグラント兄へ並べた言葉が、そのまま返ってくる。


本気を示す。

同じ土俵に立つ。

相手を理解する。

相手の望みを知る。

断る理由を一つずつ解く。


言うだけなら簡単だった。


俺はまだ、リシェリアが望む未来をすべて理解しているわけではない。

触れていい距離さえ、これから探していこうと話したばかりだ。


……ままならないな。


アスティのまっすぐな背筋を見つめながら、俺はグラント兄の恋路と、自分自身の恋路の難しさに、静かに息をついた。


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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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