不安の残滓
「馬鹿なことばっかり言いやがって」
腕の中のリシェを抱え直しながら、口ではそうカイルを非難してみたが、心の奥では妙に穏やかだった。
さっきまでの潮風の冷たさや砂の湿気が、リシェの無事を確かめた瞬間、全部どうでもよくなっていた。
ここへ来るまでは、そんな余裕などなかった。
朝起きて、リシェの様子をうかがうのは、俺の日課のようなものだった。
もちろん聖女になってからは、寝所に入れるわけではないし、健康管理も使用人任せだった。ここ保養邸でも看護してもらえるから、俺が細かく見守る必要はない。
それでも行ったのは……気になったから。
日の出とともに起き、朝の鍛錬を一通り終えてから、リシェの部屋のある回廊につい足を向けていた。
「シャロン」
「あ、セランさん。おはようございます」
もう働き始めている朝番の中に、顔見知りを見かけて声をかけた。
イェルス家から随行している上級侍女のシャロンだった。公務でも国境でも、何度かリシェの身支度を任せている。俺にとっても、安心して様子を尋ねられる数少ない侍女だった。
「おはよう。リシェの様子は……落ち着いてるかな」
「ええ、夜半は深くお眠りになっていたそうです。まだ早い時間ですし、朝食の支度前に一度御様子を見に伺う予定で」
「あ、わかった。そしたらまた、後で様子教えてくれ」
ここが城内でなくても、さすがに他人の家で、寝起きに扉を開けて顔を見に入るような無作法はできない。
シャロンに任せれば大丈夫だと自分に言い聞かせ、胸の奥に残る引っ掛かりを抱えたまま自室へ戻った。
そして、扉の下に差し込まれていた置き手紙を見つけた。
朝の鍛錬に出る前にはなかった封筒だった。
カイルの名で記されたそれは、安心させるどころか、不安を煽る内容だった。
『リシェリアの不調は異能溜まりだとわかった。減らさないと改善しない。なるべく多く使わせるため、外へ連れ出す。悪いが先に行くから、見たらすぐ海まで迎えに来てほしい』
それを読んだ瞬間、手の中の紙がやけに薄く感じた。
俺が部屋にいなかったから、入れ違いになっている。
俺を待てないくらい悪いのか?
リシェを連れ去った怒りより先に、血の気が引く。
何をどう使わせるつもりなのか。
どれくらい、悪いのか。
何も書いていない。
アスティやグラントはおろか、使用人たちに言伝を残す余裕もなかった。
俺は上着だけ引っ掴み、駆け出した。
潮風の中では匂いが乱れる。リシェの匂いも、カイルの墨と革の匂いも、海の湿気に薄く伸ばされていた。それでも、東へ向かった気配だけは拾えた。
けれど、海へ近づくほど匂いは潮に散らされ、濡れた砂に残った足跡も波に削られていた。場所くらい書いておけと腹を立てながら、昨日うろついた入り江付近に当たりをつけ回った。
ようやく二人を見つけた頃には、俺は肩で息をしていた。
汗が冷えていることにも、手の中で握り締めていた紙が湿っていることにも、その時になって初めて気づいた。
そして今、探し回ったリシェは俺の腕の中で、びしょ濡れではあるが何事もなかったような顔をしている。
腕の中のリシェの体は軽い。
それでも首に回された指先にはちゃんと力があり、頬に触れる髪は冷えていても、肌の奥の熱は落ち着いている。呼吸も細くない。
青い瞳には、昨夜の熱に浮かされた感じもなく、いつもの透明さが戻っている。のぞき込んでいた視線がぴたりと合う。
「なあに」
「元気になったみたいで、ほっとした。もう、なんともないか」
「うん。久しぶりに、力を使わなすぎたみたいだね。うっかりしてた」
「……ならいいけど」
言葉を返しながら、胸の奥に小さな不安が刺さる。
王都から出てきて四日だ。
まだ保養は始まったばかりだ。
今まで、この程度の期間使わなかっただけで、“溜まりすぎ”なんてことはなかったのに。
だから原因に気づけなかったのか。
それとも、前よりも速くなっているのか。
“彼女の内側”が、また何か変化しているんじゃないか。
嫌な予感が喉の奥に引っ掛かったまま、無理やり息を吐いた。
「ま、帰ったら全員湯浴みだな。何で海に浸かってんだよ。俺まで潮まみれだ」
皮肉のつもりだったが、半分は本音だ。
海に入っていないのに、リシェを抱えたせいで、上着も腕も潮と水でびしょびしょだった。肩に当たる彼女の髪も、まだ湿って冷たい。
「む……そうだな。すまない。実際に海に触れた方がやりやすくて」
カイルが律儀に頭を下げる。
体調の悪いリシェを海まで連れ出したことには腹が立つ。
置き手紙一枚で済ませたことも、本当なら襟首を掴んで問い詰めたい。
けれど、カイルの顔にも疲労があった。
遊び半分でやった顔ではない。
「まあ、仕方ない。三人で朝の散歩に出て、はしゃぎすぎたことにでもするか?」
リシェがくすっと笑った。
その笑い声を聞くだけで、体の芯がほっと緩む。
「しかし、なるほどな。力が溜まったら、無理に誰かを癒す理由を作らなくても、余分な分だけ放出すればいいのか。気が楽になったわ。今度からはちゃんとやり方がある」
俺は安堵をそのまま口に出した。
新しい不安もできたが、それ以上に救いがあった。
城も、身分も、今ある暮らしも、いつまで続くかはわからない。
もしまた、彼女と二人だけで生きることになっても――俺がわざと傷を作って“癒させる”必要はない。
あの頃の俺は、それしか知らなかった。
力を使わなければリシェが苦しむ。なら、俺が傷を負えばいい。それが一番ましな方法だと思い込んでいた。
もう、あの時のように無理やり力を使わせて、苦しませずに済む。
その事実だけで、肩の荷が軽くなった。
「良かったな」
リシェは静かに頷いた。
表情は穏やかなままだったが、俺の肩を掴む手には、確かな力がこもっている。その仕草に、胸の内までゆるんでいった。
朝の光が髪を照らし、淡い銀が波打っている。
「まあ、海が近くない場合もあるし、何案か考えよう。真上の空に打ち出すとか。雨を降らせるとか……? だが、空気中の水を急に動かすのは、あまり良くないんだったか……?」
カイルがぼそぼそと考えごとを始める。
その横顔には疲労の色もあるが、やっぱり頼もしかった。
初めて会った頃の俺は、この男が気に食わなかった。
俺よりもずっと、リシェの“役に立つ”ことができるから。
優しい言葉を使わなくても、理屈と知識で人を助けられる。
リシェの傍にいる資格を、自力で勝ち取れるやつが羨ましかった。
でも今は――頼りになるって、素直に思う。
あいつには、俺じゃ辿り着けない答えがある。
戦う場所が違うだけで、やっていることは同じなのかもしれない。
どっちも、自分にできるやり方でリシェを守っている。
「そういえば、セラン。……置き手紙、返してくれるか。夜中に聖女様を連れ出したと読めるものを、残しておきたくない」
カイルの声が少し硬くなった。
確かに。
どういう経緯で出かけることにしたのかわからないが、風聞は良くないよな。
「ん? ああ。……あれ。懐にないな……落としたか、部屋かもな。まあ、あとで見つけたら持ってくか、燃やしとく」
確かに懐へ入れたはずだった。
紙の角が胸に当たる感触まで覚えている。
けれど、指先が探った内ポケットには何もない。
走っている途中で落としたなら、紙が布を擦る音か、懐が軽くなる感触くらいは拾ったはずだった。それでも、濡れた服や潮風に紛れたのかもしれない。
「……ああ、頼む」
ま、後で探せばいいよな。
そう思っても違和感は、濡れた布の冷たさですぐ忘れてしまった。
館では、案の定小さく騒ぎになっていた。
体調をうかがいに部屋へ行けば、リシェリアがいなかったからだろう。
玄関前に三人で現れれば、シャロンが慌てて駆けつけてきた。
「セランさん……リシェリア様!?」
「あー……。すまん」
まだ朝食前の早い時間だというのに、玄関前でシャロンや数名の侍女が門兵に相談をしているところだった。
……流石に、はしゃいで朝に海遊びなどと吹く雰囲気ではない。
「あの後すぐ、廊下でリシェとカイルに行き会って……」
俺は、カイルから言われた筋書きで弁解した。
リシェは侍女に断らず手洗いへ向かう途中で倒れ、たまたま早起きしていたカイルが廊下で見つけた。体調不良の原因を察したカイルが外へ連れ出そうとしたところへ、シャロンと別れて部屋へ戻る途中だった俺が合流し、“三人で”海へ向かった。慌てていたため、館へ言伝を残すのを忘れていた――という話だ。
実際には、カイルと俺は出会っておらず、俺は置き手紙を見て後を追った。だが、大筋は合っている。合っているはずだった。
だから、置き手紙さえなくなれば、病床の淑女を夜明けに連れ出したなんて話も残らない。
元々、せめて使用人に言伝ておけばそんな懸念はないのだが、俺も慌てて忘れていたのは同じなので言ってやるまい。
だが、書置きはどこにもなかった。
その日のうちに、自室も廊下も、海まで走った道も探した。
風に飛ばされたのか、掃除の時に紛れたのかもしれない。
別に、ないならないでいいだろうと思った。
夕刻、それをカイルへ伝えると、彼はしばらく瞬きもしなかった。
表情を作ることそのものを、一瞬忘れたように、すっと色だけが抜けた。
お互い慌ててた、それで済む話だ。
ここは王都でもない。知れたとてグラントもアスティもそこまで責めないと思った。
なのに……どうして、そんなに気にしてる?
胸の奥で、また小さな不安が音を立てた。




