起源
朝の光が少しずつ強くなり、海の色が夜の青から淡い銀へ変わっていった。
帰ろうと言い出すには惜しい静けさだった。
彼女は、海を見つめながら静かに口を開いた。
波打ち際の光が頬を照らし、淡く揺れる髪の隙間に朝の風が入り込む。
声は囁くように小さかったが、はっきりと聞き取れた。
「そういえば、私……海から来たらしいんです」
一瞬、何のことかわからずに瞬きをした。
今まで、彼女の口から“出自”に関する話が出たことなどなかった。
誰に尋ねても、リシェリアはいつも笑ってごまかしてきた。
それが突然、波の音に溶けるように出てきた。
「セランの生まれた村で、拾われる前……どこかの浜で誰かに拾われて、どこか森の奥に連れていかれたと思います」
彼女は遠くを見ながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「そこでの記憶はほとんどなくて。何かあって、転がり落ちて……森のふもとで泣いていたのを見つけてくれたのが、セランの両親でした。森に入って、家族や手掛かりを探しても、ほとんど見つからなくて。足跡やわずかな持ち物と目撃情報で、海で見つかった赤子を引き取った人がいたことだけわかったんです」
波が砂を撫で、引いていく音が、まるで記憶の底を探るようだった。
彼女の声には懐かしさも悲しみもなく、ただ“事実”を読み上げるような透明さがあった。
「その人も、私を拾っただけ。セランの両親は、森に隠れ住む隠者が、働き手で孤児を連れていくことは
ままあることだから、っていってました」
「だから……海を見たら、何かわかるのかなって。つい砂浜を探してしまうんです。どこの浜かもわからないんですけどね」
彼女の視線はずっと水平線を追っている。
まるで、そこにもう一つの世界を見ているかのようだった。
初めて聞く話だった。
彼女の過去に、そんな断片が隠れていたとは。
これまで祭祀庁の記録にも載らなかった“はじまり”の記憶。
「起源か」
思わず口に出る。
「もしよかったら、帰ったら調べてみようか。海流や人の流れを追えば、手掛かりになるかもしれない」
そう言って、彼女の顔を覗き込む。
リシェリアは少し驚いたように目を瞬き、それから首を振った。
「うーん……わかっても今更何かあるわけでもないですし……大丈夫ですよ」
柔らかく、でも少し寂しげに笑う。
その笑みの裏に、「もう戻れない」という諦念が微かに透けて見えた。
けれど、俺は諦めきれなかった。
彼女の言葉を聞き流せば、またどこか遠くへ行ってしまいそうな気がした。
――見つけてあげたい。
けれど、見つけたらいなくなってしまいそうでもある。
その矛盾に胸がざわつく。
迷いを誤魔化すように、俺は彼女の肩をそっと抱き寄せた。
これくらいはいいだろう。
癒しの儀式の延長だ。
額を彼女の肩に寄せる。
塩気を含んだ風が、互いの呼吸を撫でた。
波の音だけが、ゆったりとした時の流れを刻む。
「……そろそろ帰りましょう?」
リシェリアが囁くように言った。
終わりを告げる声。
名残惜しくて、俺は少しだけ唇を歪めた。
「寂しいな。もうちょっとだけ」
ふと、海がこちらを誘っているように見えた。
引き込まれるような重力――それは彼女の魔性に似ている。
拒めば拒むほど、深く沈んでいく感覚。
濡れた砂浜に座り込む。
衣の裾は重く、冷たく、肌に張り付く。
立ち上がるのも億劫で、このまま波と一緒に溶けてしまってもいいと思った。
……そして目の端で、彼女を見る。
濡れた髪。
水を含んだ薄い布の夜着。
その布が肌に張りつき、朝の光の中で輪郭を拾ってしまう。
見てはいけないと思うほど、目を離すのが遅れた。
その瞬間――
ぎゅっ、と背中に踏みつけるような感触があった。
低い声が落ちてくる。
「はい、おわり。おつかれさん」
セランだった。
迎えに来たらしい。
彼は手際よく大判の柔らかい拭き布をリシェリアにかぶせ、その手を取って立たせた。
「……あのさ、カイル。お前、置き手紙じゃなくてさ、声をかけていけよ。そりゃ祭祀の役には立てないけど、体調不良のリシェを抱えるくらいは出来るんだから」
「……ん? セランはどうしてここに?」
「お前が、リシェの力を放出させるために連れてくから、『海まで迎えに来い』って俺の部屋に書き置きしていったろ。もっと細かく書いてくれないから探すのに手間取ったじゃねえか」
……あの女。
いいように俺とセランを使ったな。
「……そう、だったな。すまない。一刻を争ったんだ」
言い訳にしか聞こえない。
だが今は、説明している余裕もなかった。
彼女の肩が冷えているのが気になって仕方がない。
俺はため息をつき、濡れた裾を払いながら立ち上がった。
波が静かに寄せては返し、三人の影を長く伸ばす。
「探すよりは、いつかみんなで遊びに行く方がいいです」
リシェリアが微笑みながら言った。
「いいね。そうしよう」
俺も頷く。
「何の話?」
と、セラン。
リシェリアは小さく笑って、朝の海を振り返った。
リシェリアは、まだ夜気の残る浜辺を歩いていた。
濡れた砂に足を取られ、裾がまとわりつくたびに、小さく足を止める。
夏物の夜着は軽やかで風に透けるほど薄いが、濡れたそれは重く、彼女の動きを緩慢にしていた。
「ほら、掴まれ」
見かねたセランが、何の躊躇もなく歩み寄り、片手で彼女を抱き上げた。
あまりに自然な動作。
腕の中に収まった彼女が驚く間もなく体を預ける姿に、思わず見とれてしまう。
嫉妬――というよりも、ただ、羨ましい。
あの男は、全身が無駄なく出来ている。
昨日一日中泳いで、下働きまでして、それでもこの余裕。
人間というより、精霊か何かのようだ。
こいつに勝てる気がしない。
俺の戦場ではないと思っていたが、さすがに体力の差を見せつけられると、少し怖くなる。
「俺ももう少し鍛えた方がいいか……」
思わず口に出た独り言に、セランが振り返って笑う。
「んー? それなら鍛え方、見てやるよ」
気のいい返事。
「ぐ、軍隊式は無理だ……」
想像しただけで胃が痛くなる。
砂浜に立つ彼の影を見上げると、笑い皺が光った。
「カイルは頭はいいのにバカだな。……それ以前の問題だよ」
愚痴混じりの言葉は潮風に混ざって流され、それを言い返すより早く、セランの笑い声が響いた。
反論する気も失せて、俺も笑ってしまう。
リシェリアはセランの腕の上で安定を取りながら、その首に軽く手を回し、満足そうにこちらを見下ろしてきた。
濡れた髪から滴る水が、セランの肩を伝って落ちていく。
「本当に随分仲良くなりましたね」
その笑顔に、俺とセランは一瞬だけ目を合わせ――そして同時に口を開いた。
「そんなことないけど」
「まあそうだな」
……息が合わなかった。
否定と肯定。
方向も調子も違う。
「……」「チッ」
セランが舌打ちをする。
「冗談だよ。セランはいいやつだからね」
「思ってないくせに」
「そんなことはない。まず、普通にかっこいいよな」
俺は真面目な口調で続けた。
「男が憧れるスタイルだ。強いし。鍛え方がいいのか、無駄のない体をしている。性格も素直で真面目……いや、一途なんだろうな。だから勉強とかも始めれば習得は早いタイプだ。頭も別に悪くはない。感性派だから内心好き嫌いは激しいみたいだけど、あんまり後腐れもないし、同僚兵士からの評判もいい。遠征先の領主も気に入ったらしいしな。よく街の女性から恋文を頼まれると衛兵が言ってた。と言っても、そんなに人付き合いは好きじゃないっぽい。……まあ、だから俺と相性は良くないとは思うかな。俺は嫌いじゃないけど」
とうとうと語り続けながら、頭の中では整理がついていた。
分析という名の皮肉のつもりだったのに、気づけば、まるで彼を褒め倒すような内容になっていた。
考えが言葉に追いつく前に出ていく。
いつも考えていることだから、語彙にも詰まらない。
セランが少し頬を赤くして呟く。
「……長すぎだろ」
その様子に、リシェリアがくすくすと笑う。
「ふふふ……本当、仲良くなってる」
嬉しそうな声。
それを聞いた途端、なぜだかこそばゆくなった。
「正直に言うと、むしろ好きかもしれない」
つい、軽口のつもりでおまけを添える。
場を和ませるために。……あるいは、彼の反応を見たくて。
「おまえさあ……」
セランは顔を赤くし、呆れたように視線を逸らす。
「ふふふ」
リシェリアの笑い声が波音に混じって響いた。
この空気の中でなら、嫉妬も焦燥もどこか柔らかく溶けていく。
いつもの張り詰めたものはなく、ただ、海と光と――少しの冗談が、三人の間を満たしていた。
「じゃあリシェリア、セランがいらなくなったら俺にくれるとうれしい」
最後に、冗談のつもりで放った一言。
「え? あ……はい、わかりました」
リシェリアはきょとんとした顔で頷いた。
思考が止まったように固まっている。
「なんでだよ、やめてくれ」
セランの焦った声が響き、彼女を支える腕がぴくりと動いた。
潮風がふっと吹き抜け、笑いと波音とが重なり、朝の海は再び静寂を取り戻していった。




