夜明けの抜け駆け
抱きとめた腕の中で、彼女の身体はすっかり力を抜いていた。
最初は気を失ったのかと思ったが、呼吸は安定している。
頬をかすめる吐息が、うっすらと温かい。
「……ちょっと、勢いよく、使いすぎちゃいました」
瞼をうすく開いて、かすれた声。
「海って、どこまでも本当に広いんですね……すごい」
その言葉と同時に、彼女の纏っていた燐光がふっと揺らぎ、風にさらわれるように弱まっていった。
その消失に合わせて、胸の奥がざらつく。
いつもこの“彼女”は、こうして何かだけを残して去ってしまう。
問いただしたいことも、確かめたいこともある。
けれど、彼女はいつも、答えを与える前にいなくなる。
まるで、問いそのものを残すために現れるかのように。
「行くな」
理屈もなく、そう思った瞬間、音が口からこぼれていた。
その一言が潮風に溶けるように消えて、代わりに、耳に届いたのは柔らかな声だった。
「おはようございます、カイル。……今度こそ久しぶりの抱擁ですね」
顔を上げた瞬間、そこにいたのはもう“彼女”ではなく、本物のリシェリアだった。
海明かりの中で、その瞳はもう青く、いつもの優しい透明さを取り戻している。
「うん……そうだね」
胸の奥を締めつけられるような安堵。
それを悟られないように、静かに笑って答える。
「どうしてここにいるか、覚えてる?」
「そうですね。なんとなく……言葉のない風景を見ているような感じでした。熱に浮かされた夢の中のような」
「そうだね。合ってるよ」
言いながら、彼女の濡れた髪を指先で払う。
今、この場であの存在のことを告げるべきではない。
少なくとも、熱のある彼女に背負わせる話ではない。
「君は熱に浮かされて、俺に力を吐き出したいって。女王様みたいに俺を呼びつけたんだ」
「えっ、そうなんですか……!? す、すみません!」
慌てて体を起こす彼女。
慌てる仕草が可笑しくて、つい笑ってしまう。
「いや、大丈夫。ぐずった小さい子みたいなものだったよ」
「……最近、あんまりお話してない気がします。それで寂しくなっちゃったのかな」
その言葉に、少し考えた。
確かに、ここのところは休みに向かうための祭祀の段取りや調整処理ばかりで、まともに話す時間があまりなかった。俺は同行しない予定だったから、あまり未練が残らないように早めに抑制しておこうとも思っていた。
でもそんなこと悟られたら、格好がつかない。だから素知らぬふりをする。
「そうかな? 休みまでは普通に仕事してたと思うけど」
「日課も、しなくなりました」
「うん、でもそれは、君もそんなに乗り気じゃなかったんじゃないの?」
「そんなことないですよ」
「……ならいいけど」
「カイルこそ、私のこと好きじゃなくなったのかなって」
一瞬、言葉を失った。
その問いを冗談と受け取るには、あまりに素直な声音だった。
「そんなことない。そんなことはあり得ない」
少しきつく言い返してしまう。
「でも、こちらに来てからも、あまり近くにいらっしゃらないですし……」
「みんなでいた方が楽しいだろう?」
「カイルは寂しいって言ってたのに、近寄ったら逃げましたよね」
……図星だ。
「……ああいうのは駄目って、アスティに言われてるからね」
「そうですけど……」
頬をふくらませたまま、彼女は砂の上にしゃがみ込んだ。
俺も隣に腰を下ろす。
海からの風が衣の裾を撫で、朝焼けが水面を淡く染めていく。
「……昼に、ふざけてたの怒ってる?」
「怒ってません」
そう言いながらも、表情は拗ねたままだ。
抱え込みすぎないように距離を取りつつ、背後から彼女を支える形で座る。
砂浜の冷たさと、彼女の体温の境目がはっきりわかる。
そのとき、リシェリアが振り向きざまに腕を伸ばしてきた。
胸元に顔を寄せて、小さく息を吸う。
「もう前みたいに、心臓の音が聞こえないですね」
「……今はね」
「抱きしめ返さないんですか?」
「許可制じゃなかった? いいなら喜んで」
答えの代わりに、リシェリアは悪戯っぽく微笑んで、催促するように頭を擦り付けた。子犬みたいだ。
慎重にそっと腕を回し、軽く抱きしめ返した。
ほんの少し前までもっと密着していたのに、随分久しぶりの近さが、懐かしい。
砂の上の冷たさより、ずっと確かな現実。
「私のこと、嫌になったんじゃないですか? 怖いとか」
「それはないな。……手を握っても?」
返事の代わりに、そっと彼女が手を伸ばしてくれる。手を取って軽くだけ包むように握った。
細くて、冷たくて、それでも生きている感触。
そこには畏れも、拒絶もない。
ただ、互いの心臓の鼓動だけが通い合う。
「あと、私が嫌がることばっかりしますよね」
「うん……」
こらえきれずに笑いが漏れた。
「笑わないでください」
憮然とした顔。
――ああ、やっぱり怒ってるじゃないか。しっかり根に持ってる。
セランと二人で吸ったこと。
「どうして嫌なの? 教えてくれ」
「え? ……匂いがしたら嫌じゃないですか」
「臭いなんて言ったことないよね。大丈夫、臭わないよ」
「許可を取ってないですし……」
「理屈の上では、君には何も影響ないはずなんだけど。触ってもないし、何も減ってない」
「うーん……なんとなく、減りそう?」
くくく、とまた笑いがこみ上げた。
以前ならこんなやり取り、到底できなかった。
前は、俺が一方的に語って、彼女はただ黙って聞いていた。
それが今では、こうして“嫌だ”とか“やめてください”と、ちゃんと自分の感情を言葉にできるようになっている。
「……よかったよ」
「え?」
「堂々と嫌って言えるようになった。それは大事なことだと思う」
彼女は一瞬、きょとんとしたあと、少しだけ照れたように視線を逸らした。
「そう、ですね」
「距離感を測ってる……んだと思う」
俺は海の方を見たまま、言葉を選ぶ。
「近づきすぎても、遠すぎても見えなくなってしまう。以前、君が慰めてくれた時に言ってたじゃないか。“私たちが見ている”って」
潮の香りが鼻をくすぐる。
「俺も、ちゃんと見ようと思った。周りのことも、君のことも。お互いに心地いい距離がわかれば、心の距離はぐっと縮まる。それは君が教えてくれたから。やってみたら、本当にそうだった」
言いながら、彼女の髪を撫でるように指をすべらせた。
「だから、リシェリアと俺の一番いい距離も、これからいろいろ見つけられたらいいなと思ってるんだ」
「……」
「まあ、手探りだからね。もし間違えたら、噛みついてくれ」
少し照れ隠しのように笑って言うと、彼女も肩をすくめ、ようやく微笑んだ。
もう、不満そうな顔はどこにもなかった。
淡い朝の光の中、リシェリアは少しはにかみながら顔を寄せ、そっと俺の頬に唇を触れさせた。
「これからも、よろしくお願いします」
海に目を向けたまま、こちらを見ない。
けれど、その声には確かな温もりがあった。
俺は、触れられた頬に手を当てる。
波音の向こうで、胸の鼓動がまだ静かに続いている。
まるで、恋がまだ息づいているとでも言うように。




