深夜の招待
バカ騒ぎになってしまった後、全員がそれぞれの部屋へと散っていった。
久々に、学生の頃のようなくだらない話に興じたせいか、体の奥にほんのりとした疲れと安堵が滲んでいた。
机に向かい、軽く書き物でもしてから眠るつもりでいた。海で見たものについて、旅程の整理、些末な確認事項。心を静めるには、こういうとりとめもない単調な作業がいい。
蝋燭を一本灯して椅子に腰を下ろしたとき、ふと、ドアの下の隙間から何かが差し入れられているのに気がついた。
白い封筒が床の上で、かすかに光を反射している。
……手紙、か?
誰もこんな時間に訪ねてくるはずはない。
机を離れ、足音を殺してドアまで行く。
拾い上げて封緘を確かめると、蝋はない。差出人の印も。
不審が胸をよぎるより先に、俺はすでに扉を開けていた。
冷たい夜気が一気に流れ込む。
廊下の灯はすでに落とされ、闇の奥には静寂しかない。
耳を澄ませても、足音も息づかいも聞こえない。
階段の影も、窓辺の揺らぎも、すべてが眠っている。
――誰も、いない。
わずかに唇を結び、扉を閉めた。
背中にじっとりとした嫌な感触が張り付いている。
机の上に戻り、封を切る。中には短い一枚。
見覚えのある、癖のある字――いや、そう“見える”筆跡。
『今日行った東の入り江で。朝日が昇る頃、貴方を待っています。 皆には秘密で リシェリアより』
差出人の名に目が釘付けられる。
思わず喉が鳴った。胸が跳ね上がるのを理性が押さえつける。
そんなはずない。おかしい。
彼女は体調を崩して、今夜は早めに休んだ。
使用人もセランも、そう言っていた。
――その彼女が、こんな時間に?
“皆には秘密で”。
その一文が、さらに疑念を煽った。
俺は椅子に深く腰を下ろし、紙を蝋燭の明かりに透かして眺めた。
わずかに、墨の光沢が均一すぎる。
筆圧も、呼吸も、書き手の温度がない。
……これは、違う。
胸の鼓動が、浮き立つどころか、冷えていく。
恋文のように見えて、その実、冷たい“模写”の痕跡。
転写。
生きたものの筆跡や声、姿を写して偽る異能。
俺が最も警戒している御技のひとつ。
――誰かが、彼女を装っている。
――あるいは、彼女自身の手で、意識のないままに。
指先に残る紙の感触を、無理やり手の中で折り畳む。
火にくべようとしたが、結局できなかった。
胸の奥がざわつく。
もし、万が一本物なら。
彼女が呼んでいるのだとしたら。
理屈が感情を抑えきれず、それでも理性がかろうじて勝つ。
俺は灯を落とし、机の上にその手紙を伏せたまま、冷えた夜を――疑いとともに――ただ待った。
グラントやセランを呼べば安全だった。それに、アスティにはあの存在の話をすでにしてあるのだから、声を掛けてもよかった。
けれど、これが彼女の内側にいる“何か”からの呼び出しなら。少なくとも、最初に相対するのは俺でなければならない。
そうして、朝日が来るまで待った。
朝日が昇るより少し前。
夜と朝の境のような、灰青色の光が世界を染めていた。
潮の満ち引きもまだ緩く、海辺に立つと、空気が冷たい。
ほかに人の気配などあるはずもない東の入り江――だが、そこに、ひとり、立っていた。
薄い衣をまとった彼女は、風に揺れるたび、海面の光をまとっているようだった。
白銀の髪は海の湿気を吸って重く、それでも光を宿している。
まるで、そこに立っていることそのものが祈りのように見えた。
ただ静かに、背筋を伸ばして海を見つめている。
――ああ、やっぱり。
想像通り。その姿は、いつもの“彼女”とは違っていた。
夜明け前の闇の中でも、ほのかに光を放つような、異様な存在感。そして何よりも、その瞳。
だが、先日石室の中で会話した時と違って、淡い青の奥に、虹でも架かっているかのような、見たことのない色をしていた。
「……一人で来たのか」
思わず声に出す。
王都から離れているとはいえ、夜明け前の入り江を、若い女性が一人で歩くなど言語道断だ。
しかも体調を崩していたはずの彼女が。
てっきり、セランでも連れてきているのだと思っていた。
それならまだ安心できたのに。
「それなら、屋敷で待ち合わせて一緒にくればよかったろ。まだほとんど夜なのに、一人で出歩くなんて。……セランだって心配する」
咎めるように言うと、彼女は静かに振り返った。
「おはようございます、カイル」
その声は、いつもの柔らかさを帯びながらも、どこか遠く響いた。
「大丈夫、セランにも騒がれないように置き手紙をしてからきています。……彼、あまり役に立ちませんから」
――その瞬間、背中に冷たいものが走った。
そういうことを聞いているんじゃない。だがそれよりも先に、もっと鮮烈に違和感が過った。
リシェリアの顔で、そんなことを言うなんて。
役に立つ、立たないという尺度で、誰かを測ることなど、絶対にしない。
そして、――彼女はセランを無条件に信じている。
……全く、違う。
本当にリシェリアじゃない。
「それに、他の人がいては困るでしょう? 貴方が」
唇に指を添え、ほの暗い笑みを浮かべる。
悪戯よりも、誘惑に近い、妖しい色気。
まるで、見透かしているような目。
「人の中を覗くのは――禁忌ですもんね」
空気がひやりと変わる。
海の光の反射が、まるで刃のように顔を照らす。
「……どういう意味だ」
低く問う。
言葉は通じているはずなのに、向けている相手が“彼女”でない以上、遠慮はいらなかった。
「最近、祭祀や勤行がなくて、異能を使っていませんから。霊質が溜まりすぎているんです」
彼女はゆっくりと指を組み合わせる。
「霊質が溜まりすぎて、体調が悪いのです。だから、派手に使いたい。でもこの身体は制御が下手だから。――貴方の出番なんです。でも」
挑むような目。
そこに宿るのは聖女の清さではなく、神域の力そのもの。
それを知っている俺への、呼びかけにも似た挑発だった。
「私に触れて知覚したら、どうせカイルはまた覗きます。“私”を知りたいから。だから人払いをしてあげたのに」
明け透けな糾弾。怒っているわけでも、嘆いているわけでもない。
ただ、俺という人間の底を知っているという、冷たい確信の目で。
……確かに、俺は覗いた。
触れることで、リシェリアの内側を見ようとした。
その力も、感情も、過去も――全部。
知らずにいられなかった。だから、見た。
「……悪かった。嫌なら、もうしない。しないから、リシェリアを返してくれ」
声が少し掠れた。
理屈を並べるより、ただ懇願に近かった。
「お前は……誰なんだ」
問いは宙に溶ける。
話せるなら、和解ができる。
理性があるなら、理解できる。
けれど、そんな希望はどこか脆かった。
「貴方のリシェリアなら、きっと“嫌”なんて言わないですもんね?」
薄く笑ってから、彼女はふいに頭を押さえた。
次の瞬間、膝が崩れ、水辺にへたり込む。
「おい、大丈夫か!」
駆け寄る。
だが、彼女を呼ぶ名がない。
呼べば、それが誰かを確定してしまいそうで、言葉が出なかった。
「ごめんなさい……もう、やめます。本当に体調が悪いんです」
声が弱い。
「気に入らないなら放置してください。この身体ごとになりますけど、きちんと死んでいなくなってあげますから」
「馬鹿なこと言わないでくれ……」
胸が焼けるようだった。
「早く済ませよう」
腕を伸ばし、彼女の体を支えた。
海の浅瀬まで導き、背後から抱きかかえるように支える。
俺は、彼女の首の後ろ――聖痕のあるあたりへ額を寄せ、低く告げた。
「視覚に入るぞ」
かすかな頷きを確認してから、意識を重ねる。視界が溶けるように重なり、彼女の目を通して世界が見えた。
夜と朝の間――海が光を孕み、氷のような青を広げていく。
「海の表面だ。広いだろう。海面に力を走らせろ。薄く、瞬間的に。氷の波を作る」
彼女の胸が上下する。
俺はその呼吸のリズムに合わせて、わずかに力を送った。
「出していい。全力で。発したら俺が広げる。……さあ、やれ」
「うぅ……行きます」
呻くような声。
空気が張り詰めた瞬間、甲高い音が響いた。
氷が生まれ、砕け、波のように沖へと走る。
一瞬で終わり、白い泡となって消えた。
……終わった。
いつもなら、ここで俺はさらに奥へ踏み込んでしまう。
けれど、今日は――入らない。
入らない。絶対に。
強く心で念じながら、意識だけをそっと離した。
「ふぅ……ありがとう、ございました」
かすれた声で、彼女が言う。
「このくらい……なら。せいぜい明日獲れた魚が美味しいくらいですね」
「そりゃいい」
短く返す。
息を整えようとした、その時――
「この後はどうする……おい!?」
支えていた身体が、ぐらりと傾いた。
反射的に腕へ力を込める。
けれど、彼女自身の力はもうどこにも残っていなかった。
――リシェリアの体が、完全に力を失っていた。




