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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
25章 真夏の夢現
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深夜の招待

バカ騒ぎになってしまった後、全員がそれぞれの部屋へと散っていった。

久々に、学生の頃のようなくだらない話に興じたせいか、体の奥にほんのりとした疲れと安堵が滲んでいた。


机に向かい、軽く書き物でもしてから眠るつもりでいた。海で見たものについて、旅程の整理、些末な確認事項。心を静めるには、こういうとりとめもない単調な作業がいい。

蝋燭を一本灯して椅子に腰を下ろしたとき、ふと、ドアの下の隙間から何かが差し入れられているのに気がついた。

白い封筒が床の上で、かすかに光を反射している。


……手紙、か?


誰もこんな時間に訪ねてくるはずはない。

机を離れ、足音を殺してドアまで行く。

拾い上げて封緘を確かめると、蝋はない。差出人の印も。

不審が胸をよぎるより先に、俺はすでに扉を開けていた。

冷たい夜気が一気に流れ込む。


廊下の灯はすでに落とされ、闇の奥には静寂しかない。

耳を澄ませても、足音も息づかいも聞こえない。

階段の影も、窓辺の揺らぎも、すべてが眠っている。


――誰も、いない。


わずかに唇を結び、扉を閉めた。

背中にじっとりとした嫌な感触が張り付いている。

机の上に戻り、封を切る。中には短い一枚。


見覚えのある、癖のある字――いや、そう“見える”筆跡。


『今日行った東の入り江で。朝日が昇る頃、貴方を待っています。 皆には秘密で リシェリアより』


差出人の名に目が釘付けられる。


思わず喉が鳴った。胸が跳ね上がるのを理性が押さえつける。


そんなはずない。おかしい。


彼女は体調を崩して、今夜は早めに休んだ。

使用人もセランも、そう言っていた。


――その彼女が、こんな時間に?


“皆には秘密で”。

その一文が、さらに疑念を煽った。


俺は椅子に深く腰を下ろし、紙を蝋燭の明かりに透かして眺めた。

わずかに、墨の光沢が均一すぎる。

筆圧も、呼吸も、書き手の温度がない。


……これは、違う。


胸の鼓動が、浮き立つどころか、冷えていく。

恋文のように見えて、その実、冷たい“模写”の痕跡。


転写。

生きたものの筆跡や声、姿を写して偽る異能。

俺が最も警戒している御技のひとつ。


――誰かが、彼女を装っている。

――あるいは、彼女自身の手で、意識のないままに。


指先に残る紙の感触を、無理やり手の中で折り畳む。

火にくべようとしたが、結局できなかった。


胸の奥がざわつく。

もし、万が一本物なら。

彼女が呼んでいるのだとしたら。


理屈が感情を抑えきれず、それでも理性がかろうじて勝つ。


俺は灯を落とし、机の上にその手紙を伏せたまま、冷えた夜を――疑いとともに――ただ待った。


グラントやセランを呼べば安全だった。それに、アスティにはあの存在の話をすでにしてあるのだから、声を掛けてもよかった。

けれど、これが彼女の内側にいる“何か”からの呼び出しなら。少なくとも、最初に相対するのは俺でなければならない。


そうして、朝日が来るまで待った。


朝日が昇るより少し前。

夜と朝の境のような、灰青色の光が世界を染めていた。

潮の満ち引きもまだ緩く、海辺に立つと、空気が冷たい。

ほかに人の気配などあるはずもない東の入り江――だが、そこに、ひとり、立っていた。


薄い衣をまとった彼女は、風に揺れるたび、海面の光をまとっているようだった。

白銀の髪は海の湿気を吸って重く、それでも光を宿している。

まるで、そこに立っていることそのものが祈りのように見えた。

ただ静かに、背筋を伸ばして海を見つめている。


――ああ、やっぱり。


想像通り。その姿は、いつもの“彼女”とは違っていた。

夜明け前の闇の中でも、ほのかに光を放つような、異様な存在感。そして何よりも、その瞳。


だが、先日石室の中で会話した時と違って、淡い青の奥に、虹でも架かっているかのような、見たことのない色をしていた。


「……一人で来たのか」


思わず声に出す。

王都から離れているとはいえ、夜明け前の入り江を、若い女性が一人で歩くなど言語道断だ。

しかも体調を崩していたはずの彼女が。


てっきり、セランでも連れてきているのだと思っていた。

それならまだ安心できたのに。


「それなら、屋敷で待ち合わせて一緒にくればよかったろ。まだほとんど夜なのに、一人で出歩くなんて。……セランだって心配する」


咎めるように言うと、彼女は静かに振り返った。


「おはようございます、カイル」


その声は、いつもの柔らかさを帯びながらも、どこか遠く響いた。


「大丈夫、セランにも騒がれないように置き手紙をしてからきています。……彼、あまり役に立ちませんから」


――その瞬間、背中に冷たいものが走った。


そういうことを聞いているんじゃない。だがそれよりも先に、もっと鮮烈に違和感が過った。


リシェリアの顔で、そんなことを言うなんて。


役に立つ、立たないという尺度で、誰かを測ることなど、絶対にしない。

そして、――彼女はセランを無条件に信じている。


……全く、違う。

本当にリシェリアじゃない。


「それに、他の人がいては困るでしょう? 貴方が」


唇に指を添え、ほの暗い笑みを浮かべる。

悪戯よりも、誘惑に近い、妖しい色気。

まるで、見透かしているような目。


「人の中を覗くのは――禁忌ですもんね」


空気がひやりと変わる。

海の光の反射が、まるで刃のように顔を照らす。


「……どういう意味だ」


低く問う。

言葉は通じているはずなのに、向けている相手が“彼女”でない以上、遠慮はいらなかった。


「最近、祭祀や勤行がなくて、異能を使っていませんから。霊質が溜まりすぎているんです」


彼女はゆっくりと指を組み合わせる。


「霊質が溜まりすぎて、体調が悪いのです。だから、派手に使いたい。でもこの身体は制御が下手だから。――貴方の出番なんです。でも」


挑むような目。

そこに宿るのは聖女の清さではなく、神域の力そのもの。

それを知っている俺への、呼びかけにも似た挑発だった。


「私に触れて知覚したら、どうせカイルはまた覗きます。“私”を知りたいから。だから人払いをしてあげたのに」


明け透けな糾弾。怒っているわけでも、嘆いているわけでもない。

ただ、俺という人間の底を知っているという、冷たい確信の目で。


……確かに、俺は覗いた。

触れることで、リシェリアの内側を見ようとした。

その力も、感情も、過去も――全部。

知らずにいられなかった。だから、見た。


「……悪かった。嫌なら、もうしない。しないから、リシェリアを返してくれ」


声が少し掠れた。

理屈を並べるより、ただ懇願に近かった。


「お前は……誰なんだ」


問いは宙に溶ける。

話せるなら、和解ができる。

理性があるなら、理解できる。

けれど、そんな希望はどこか脆かった。


「貴方のリシェリアなら、きっと“嫌”なんて言わないですもんね?」


薄く笑ってから、彼女はふいに頭を押さえた。

次の瞬間、膝が崩れ、水辺にへたり込む。


「おい、大丈夫か!」


駆け寄る。

だが、彼女を呼ぶ名がない。

呼べば、それが誰かを確定してしまいそうで、言葉が出なかった。


「ごめんなさい……もう、やめます。本当に体調が悪いんです」


声が弱い。


「気に入らないなら放置してください。この身体ごとになりますけど、きちんと死んでいなくなってあげますから」


「馬鹿なこと言わないでくれ……」


胸が焼けるようだった。


「早く済ませよう」


腕を伸ばし、彼女の体を支えた。

海の浅瀬まで導き、背後から抱きかかえるように支える。

俺は、彼女の首の後ろ――聖痕のあるあたりへ額を寄せ、低く告げた。


「視覚に入るぞ」


かすかな頷きを確認してから、意識を重ねる。視界が溶けるように重なり、彼女の目を通して世界が見えた。

夜と朝の間――海が光を孕み、氷のような青を広げていく。


「海の表面だ。広いだろう。海面に力を走らせろ。薄く、瞬間的に。氷の波を作る」


彼女の胸が上下する。

俺はその呼吸のリズムに合わせて、わずかに力を送った。


「出していい。全力で。発したら俺が広げる。……さあ、やれ」


「うぅ……行きます」


呻くような声。

空気が張り詰めた瞬間、甲高い音が響いた。

氷が生まれ、砕け、波のように沖へと走る。

一瞬で終わり、白い泡となって消えた。


……終わった。


いつもなら、ここで俺はさらに奥へ踏み込んでしまう。

けれど、今日は――入らない。

入らない。絶対に。


強く心で念じながら、意識だけをそっと離した。


「ふぅ……ありがとう、ございました」


かすれた声で、彼女が言う。


「このくらい……なら。せいぜい明日獲れた魚が美味しいくらいですね」


「そりゃいい」


短く返す。

息を整えようとした、その時――


「この後はどうする……おい!?」


支えていた身体が、ぐらりと傾いた。

反射的に腕へ力を込める。

けれど、彼女自身の力はもうどこにも残っていなかった。


――リシェリアの体が、完全に力を失っていた。


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2026/07/14 【ep.304 名前のない憧れ】に投稿ミスがあり、前話と同じ本文を投稿していました。すみません。差し替えて本来の話を公開しましたのでお手すきでご確認をお願いします。 script?guid=onscript?guid=on
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