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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
2章 赤
32/93

月夜の凶行

「あ、月が真上に来たね」

窓の外を見て、リシェが言う。青い瞳に月が映って、冷たい光が水面みたいに揺れた。


「そろそろ良さそうですね。外にお茶をご用意しましょう」

サフィアの声がして、裾がさっと翻り、書斎で仕事をしているアスティを呼びに行った。廊下の遠くで本の閉じる音がして、屋内の空気がひとつ、落ち着く。


「茶が入るの待ってる間、庭を見よう」

俺は外庭へのガラス戸に向かい、振り向いてリシェの手を取って誘う。取った手は小さくて、脈がとくとくと指先に触れた。


部屋の明かりを背に、白い部屋着のリシェが夜の庭に降り立つ。芝の露がぱちぱちとはね、月光が肩と喉元に薄い縁取りをつくる。

 

ああ。妖精みたいだな。


さて……ここからは、リシェに万が一の怪我もないように細心の注意で進めなければならない。


握られた手の温かさを裏腹に、目と耳と鼻。警戒心を全開に開く。


俺の緊張をよそに、遠くの花をリシェが無邪気に指を刺す。

「わぁ。夜に見るのもきれい。……香りが違う」


月明かりに照らされた花壇は、昼間とは違う色合いを帯びている。白や青に近い花々は淡く輝き、夜気に混じる香りは冷たく澄んで、確かに昼よりも鮮やかに感じられた。


「おい、あんま乗り出すなよ……」

思わず声が強くなる。リシェが欄干に身を寄せた瞬間、揺れた枝から夜露がパラパラと降り注ぐのをみた。


「って、冷てえ!」

避けさせようと反射的に庇った俺に直撃する。

さらに揺れてしなった枝が反動でしずくを弾き、俺の頭や頬まで濡らす。


「ふふっ、ごめんごめん」

リシェが小さく笑い、濡れた俺の顔を拭おうと手を伸ばす。青い瞳がやわらかに揺れ、指先が頬をなぞる。

その、あまりにも親しい仕草。仲睦まじいじゃれあいを見せつけて――。


「……リーシュ」

低くくぐもった声。闇に紛れ、樹木の幹と同化するように立つ影。


――現れた。


さっきから匂いがしていたから、わかっていた。わかっていたから見せつせた。我慢ならなくて出てきたくなるようにだ。

 

庭の隅、月光に照らされる中でダリオが、リシェへと手を伸ばす。


「誰?」

月明かりに浮かんだ腕を見て、リシェが問いかける。


俺は即座に動いた。

リシェの体を抱き寄せて後方に引き込み、振り返りざまに蹴りを叩き込む。闇から影を引きずり出し、ねじ伏せて腕を極める。


「リシェ。部屋に戻って人を呼んでくれ。侵入者だ」

短く告げると、リシェは一瞥すらせずに頷いた。白い裾を揺らし、小走りで部屋へ駆けていく。


よし。落ち着いている。


「うわあああああ!!!」

 

それを目にしたダリオが吠えた。

 

「どけ!待って、リシェリア!リーシュ!俺だ!ダリオだよ!こっちに来るんだ!一緒に逃げよう!」


極められた腕がどうなろうとかまわないほどに暴れ、筋肉の限界を超えてもがく。

 

「邪魔しやがって!騙しやがったな!」


……はあ。痛みに頓着しないで暴れるなら、もう止められない。壊さなきゃ。


「うるさい」


「っゔばっ!」

拳を振り抜き、鼻梁を潰す。骨の折れる鈍い音に、呻きが重なり、ダリオの叫びは濁った声と共に途切れた。

さらに数発、腹へ蹴りを叩き込む。吐息を失い、四つん這いに崩れ落ちた。


……もう家畜だ。獣ですらない。


「おい。よく見れば帯剣してるじゃないか。……ロープに暗器まで?リシェに何をする気だったんだよ」

抑え込みながら鞘ごと剣を外す。刃を確かめ、俺は利き手ではない方の掌を軽く切り裂いた。


ぽたり。

 

血が地面と露台に赤い点を落とす。


剣を鞘に戻す。

これで『相手が襲ってきた証』は整った。


よし。じゃあ――始めよう。


近寄れないようにしなきゃ。

これ以上、血でこの家を汚すつもりはない。鞘のまま足に打ち下ろし、腱と骨を潰す。


手が届かないようにしなきゃ。

左腕はすでに脱臼していた。そっちはそのままにし、右手を砕く。もう這うことすらできないだろ。


ずっと苛立っていた。俺の縄張りをうろつき回るから。二度と近づかなくて済むように。どうか――恐怖の味を、しっかり覚えて行くように。


経験上、人間の体の弱いところは知っている。どこが潰れると痛くて、どこが切れると痛くはないのに、動けなくなるかってのも。早く命が途切れて楽なところも、終われないのに苦しいところもだ。


――俺は、ダリオを無力化した後も、ついつい興が乗ってしまった。動けば殴り、呻けば蹴る――憂さ晴らしのように繰り返えす。拳に伝わる鈍い感触と、足裏の重み。それが妙に心地よく、気づけば理性が薄れていた。


「もうダメ!」

そのときだった。背中に柔らかな重みが勢いよく張り付き、耳元を泣き声が刺した。

「セラン! セランもうやめて! ごめんなさい、ごめんなさい……セランを誰か止めてください……! ねえ、もうやめてよ!」


「っ……!あ、悪い」


リシェだった。

泣きじゃくり、嗚咽をまじえて喚く声が、俺の耳を震わせた。手加減していたはずだった。だが、わずかな鉄の匂いとアドレナリンに理性を溶かされ、我を忘れていた。


……まずった。


「セラン、やめ!状況!」

次の瞬間、アスティの怒号と他の警備兵に羽交い絞めにされ、強引に引き剥がされた。

 

「あー。ええと。それはダリオです……武器を持っていたので、つい手加減できなくて。拘束をお願いします」

ダリオの腫れ上がった顔と剥がした放った武装を見せ、必死に説明した。


俺が抑えられている隙に、縛られたダリオに、リシェは飛びついた。彼女の両手から淡い光がにじみ、癒しの力が流れ込む。

「ごめんなさい。痛くして、ごめんなさい。……ごめんなさい」

掠れる声が闇に溶ける。


まるで何事もなかったかのように、庭には微かな血痕と倒れた草木だけが残った。



ダリオは要人襲撃の現行犯で連行された。

王族である公女殿下の邸宅に侵入し、聖女を襲った。

たとえその対象が王族でなくても、暗殺でなく誘拐目的だとしても極刑は免れない。


俺はリシェを抱き寄せ、怯えさせてしまったことを詫びた。

「ごめん、ごめん。ちっと暴れるから、ついやりすぎた……気を付けるから……って痛いって!」


リシェは怒りながら俺の手の怪我を引っ張り、つねりながら癒していく。


「酷いことしないでっていつも言っているのに。それに……セランも怪我した」


リシェは、自分に降りかかる鉄火場には不思議と冷静でいられる。けれど、周り――特に俺が血を流すと、耐えきれずに決壊する。

 

そのことを知っていながら、俺は……。


少し反省する。それでも。やっとこれで終われる。…表向きは。

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