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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
2章 赤
31/73

ひと時の息継ぎ

「セラン!いらっしゃい」

 

まるで自分が館の主人みたいな台詞のリシェに、苦笑しながら俺は上がり込んだ。


もちろんその日、俺に当番なんて入っていない。

日中のうちに堂々と訪ねていき、扉を開けて迎えてくれた瞬間に――半年ぶりくらいになる、兵士でも聖女でもないただの『俺』と『リシェ』としての抱擁を交わした。


腕の中にすっぽり収まる彼女は、思っていた以上に小さく感じた。

……俺が成長して、背丈も体格も大きくなったせいだろう。

頭部に鼻を押し当てると。リシェの体温と香料が混ざった甘く澄んだ香りが息に混ざる。


すーーー……はーーーー……。

 

ひと呼吸ごとに、懐かしくて落ち着く。

城の中では軽々しく触れられない分、今この時にとばかりに、ぎゅむっと力を込めて抱き締めて、髪をわしゃわしゃに撫で回し、背中を掴んで離さない。


「リシェ、二日ぶり」

顔を合わせるだけなら庭で会っていた。

けれどこれは、あの場ではできない距離の近さ。


「ねーぇ。そろそろやめてよ、苦しいよもう」

声は抗議めいても、手は俺を押しのけない。

少しくすぐったそうな表情で、それでもされるままにしてくれている。


これが、猟犬たちと育って、野良犬みたいに生きてきた俺たちの本来の距離。そして、あの澄ました聖女リシェリアの本当の姿。


「セラン、すごいね。4位おめでとう。アスティが褒めてたよ」

機嫌よく、嬉しそうにそう言ってくれる。


「って言っても、あくまでも参加者の中だけだからな」

当然だ。高名な精鋭も参加する御前試合とかではない。今はまだ、リカリオのおっさん――アスティ直属の騎士の人だ――にも歯が立たない。


「それでもいいの。セランが頑張ったからでしょ」

そう言う笑顔を見た瞬間、胸の奥がくすぐったく温かくなる。

 

……こんなに喜んでくれるなら、もう少しだけ勝ちを重ねてもよかったかもしれないな。


俺は上機嫌で、リシェを担いで部屋に案内された。


***


俺たちはアスティの計らいで、ここでは普通に客人の身分だ。館の主人が招待した、客人の『兄妹』として振る舞うことが許されている。主人(アストリット)愛称(アスティ)呼ばわりすることも、高貴な方(公女殿下)へ対等な言葉を使うことも見逃される。


それはもちろん、聖女リシェリアがアスティに利益をもたらす存在だからだ。だけれども、アスティが俺たちに親愛を抱いてくれていて。それを使用人の皆が知ってくれているからでもある。


というわけで、午後は存分にリシェを補充した。

 

寄ってきたリシェを横に転がして、ひざ枕みたいにしてくつろがせる。指先で髪の流れを梳き、撫でる。絹糸みたいにさらさらと指の間をすべるたび、日だまりと石鹸の匂いがふっと立った。リシェは勝手にうとうとしたり、目を細めて編み棒を動かしたり。糸がこすれるかすかな音が、息づかいと重なって、胸の内をゆっくり落ち着かせた。


城では迂闊に触れられない距離には言葉はいらない。手のひらと髪の温度だけで、充分だ。


合間にアスティや旧知の使用人たちとも談話する。磨かれた木床に午後の光が薄く伸び、銀器の縁だけがちいさく光った。


「ダリオ、あいつはもうダメだ。取り返しがつかなくなる前に追い払ってくれ」

リシェが席を外した隙に、俺は最後通告をアスティに告げる。


「……そう。わかった、手を打っておく」

アスティはそれだけを、淡々と雑談の相槌のように返した。

 

庇護を受けるに当たって、アスティには当初からリシェの『魅了』について相談していた。だから、ダリオがそうなっていることに確信が持って以降は、状況を逐一伝えてあった。

だから明日にでも更迭か除隊か、手続きを進める算段だろう。もはやアスティに憂いというものは見えなかった。


「ありがとう。頼むな」

そう終えて、今日、俺がダリオを呼んであることは口をつぐんだ。余計な警戒をさせないほうがいいからだ。


……大事なのは、安全な場所であるここで、アスティにダリオの異常性を見せつけることなんだから。


「ダリオ・ノーラン様という方が」

晩餐前。アスティに耳打ちする執事の囁きを俺の耳が拾った。アスティは眉根を寄せて、手を振り追い払えと応じている。

 

目論見通り、俺の名を出したダリオの訪問があったのだ。

 

執事も既に俺は中にいるのに、そんな理由で玄関まで通すこともなかった。そもそも聖女が休暇で市内のアスティ宅に下がっていること自体は、警護の関係で城内兵から知ることは出来ることだから、俺経由だとは疑われることもなかった。

ダリオはただ追い返され、邸内の警備が厳重になっただけ。門番の交代の靴音が、さっきより規則正しく、重たく響く。


ここでダリオが諦めることが出来たなら、まだ彼の人生は元に戻れるはずだった。

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